闘病の前に考えること | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

 

闘病と言う言葉は一般的に使われるが、使う前に考えてもらいたいことがある。

 

「病とは闘うものなのか」ということだ。

 

闘えば、勝ち負け引き分けのどれかしかないが、それで解決出来るのかな。

負ければ命を失い、引き分けは不安と苦痛が続き、勝っても安心出来るかな、再発の不安は続くのでは。

 

野人は幼少からそのような思考を持たず,闘うのは好きではなく、解決の道が見えるまで考え続け、必ずやり遂げた。

学門になければ、先生も親も知らなければ、自分で道を切り開いた。

そうして築いた多くの理論は現学問に逆行、参考理論もない。

 

道が開くまで座して動かず、「無~林火山」・・だな。

わからなければ、「とにかくやってみよう」と・・無策で動き、どれだけ怪我したか、血を流したか、失神したか、救急車のお世話になったか。

あちらの世界へ行かなくてよかったな。

 

まあ、友人達と違い命がけの選択が多過ぎたから仕方がない。

それだけ真剣に強烈に、悔いを残さず遊び抜いたということだな、危険な悪い遊びを。

 

人体能力の限界を確かめる、その選択は20代後半まで続いた。

20代は人の想像を超える危険な業務、窮地を切り抜けたのはそれまでの思考と体験が活かされたからだ。

 

ここから「とにかくやってみよう」は思考の墓場。

「前向き思考は怪我の元」という言葉が生まれた。

 

「とにかくやってみよう」は時には死を招く。

その言葉が習慣になれば思考力は低下、危険予知も困難になる。

 

考え尽くしてわからない時は、活路を開く為にとにかくやってみるしかない。

この言葉は被災覚悟の背水の陣、最後の手段だな。

野人にとって、「とにかくやってみよう」は、出来るならやりたくない最悪の言葉なのだ。

 

病でも、闘病と言うからには命がかかっている。

本当に闘病して悔いを残さないのか。

世間一般に言われる美徳な言葉なのか。

それしか選択肢はないのか。

 

命尽きてから、よく頑張ったと褒められても意味がない。

闘病は、とにかくやってみようと言うより悲壮な決意を伴う。

病と闘いたい人などいない。

 

不治の病・・原因がわからなければ術はない。

ここに立派なヒントがある。 足元にも自然界にも。

原因がわかれば術はあり希望が持てる。

 

自由に動ける内に闘病のエネルギーを原因解明に向けてもらいたいなと思っている。 自然界にもない病の大半は自分に原因があり、闘病は自分自身と闘うようなもの。

わからない治せない医療に賭け、我慢して苦痛に耐えて戦うよりも悔いが残らないのでは。

闘わず、あきらめず、考え続ける、人にはその能力が備わっている。

 

生を得てこれまで、学門、規則、モラル、医療、すべて与えられてきた。

その中に答えはなくとも、その気があれば一人でもやれるはず。

見つかるか見つからないかは結果であり、気にすることはない。

 

そのほうが最後まで人間らしく生きられる。

野人はそう思っている。

 

参考になれば・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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