それにつけても、当時のせんせいの激闘は私達の想像すら及ばぬものであります。
 戦時中の軍部のごとき強大な権力を有するがっかいと、絶対ぜったいけんの時の貫首を相手にお一人で立たれたせんせいの強烈なる諌暁かんぎょうがっかい・宗門のはいえぐり、いけだいさくは公場対決から逃げ、きょうがくちょうはやそうかんは辞表を提出し、ほそにったつは本山から東京にこうし、たい収拾しゅうしゅうに乗り出すに至ったのでした。
 しかし、卑怯ひきょういけだいさくにせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどう戒壇かいだんだいほんぞんを移したてまつり、落成式において「遺命ゆいめい戒壇かいだんここに成る」と宣言するもくでありました。
 この時せんせい

しょうぼうきんとほっすることらんときまさくのごとじゅおうすべし」

とて正法を怨嫉する悪僧らがかくとくを殺害せんとした時、とくおうが護法のためにあくらと激しく戦い、まんしんそうになってみょうじゅうしたのごとく「一命を賭しても戒壇かいだんだいほんぞんしゅせん」と重大なるけつを固められたのであります。
 せんせいは、ほそにったつに宛てた書面に次のようにしるしておられます。

 「遺命ゆいめいしゅの責務は重ければ、御本意を覆うあんうんを払うけついよいよ固めざるをません。
 前言をひるがえし、なお恬然てんぜんたるざんがっかい・宗務御当局にはどうもすでにとなりました。
 この上はだい出来して一国の耳目きょうどうの時、公廷こうていにおいて厳たるしょうどうを示し、一国にしょうを明かすの他なく、この時初めて彼らの誑計おうけい一時に破れ、ほんぶつだいしょうにん遺命ゆいめいおかす大罪に身を振るい、心から改悔もあるものかとぞんじます。
 さればその時、小輩しょうはいら早く霊山にもうで、宗開両祖のそんぜんにて正本堂しょうほんどう誑惑おうわくさし切りて言上、さらに、宗門の現状と猊下のちゅうつぶさに申し上げるしょぞんでございます」と。

 せんせいしゅ付嘱の使命にじゅんぜん」との身命を賭した決死のかくにはぼうたる涙をきんぬものであります。
 後日、東京吾妻橋の妙縁寺に下向し、せんせいと対面したほそにったつは「正本堂しょうほんどうは『いちほうぞくしょ』『さんだいほうしょう』に遺命ゆいめいされた戒壇かいだんを前もって建てておいたもの」という主旨の正本堂しょうほんどう訓諭を訂正するとべ、その訂正文をこうひょうすることを約束したもののふたたがっかいの圧力に屈したのでした。
 そして、正本堂しょうほんどう落成を目前にしてついにがっかい首脳はせんせいとの法論に応じざるをなくなり、計7回にも及ぶ法論が行われました。
 秋谷栄之助・原島嵩・山崎正友を相手にせんせいはお一人でそれらを屈服くっぷくせしめ、聖教新聞紙上で正本堂しょうほんどうの意義を訂正せしめたのであります。
 当時、法論に臨まれた際のかくについてせんせい

「もしこのいちが通らなかったら、私は10月12日以降の自分の存在をまったかんがえていなかった」

しるしておられます。
 一人御宝前にぬかづかれ、正本堂しょうほんどうの意義を訂正した聖教新聞をお供えしてだいしょうにんさまに御報告されたせんせいのお姿が胸に浮かび、熱涙ねつるいきんませんでした。
 その後せんせいは徹底せる諌暁かんぎょうによりこうむった死罪に等しき解散かいさん処分しょぶんえ、誑惑おうわくの完結たるほんもん改称の陰謀を粉砕され、にせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどうをわずか26年で崩壊に至らしめたのであります。
 かかるせんせいがさらに重大な仏法ぶっぽうべき便りであるこう最終段階の奉公ほうこうに臨まれるかくはいかばかりかと拝察し、また、じゃを成されたせんせいからりっしょうじょうじゅを託された重みを全身に感じては、ただ三百万の大陣だいじんを急ぎ構築し、第三度の一国諌暁かんぎょう奉公ほうこうに立たせていただかんとほぞを固めるものであります。
 されば、せんせいの御意思を継いで遺命ゆいめいじょうじゅに戦う私達は『まつ殿どのへんこうを深くしんめ、こう最終段階の重大奉公ほうこうのぞんでまいろうではありませんか。


令和6年 3月25日 3月度 総幹部会 浅井会長指導

令和6年 3月27日 3月度 男子部班長会 行成総男子部長指導