そして、あさせんせいに置かれては16歳の時に『立正りっしょう安国論あんこくろん』を拝読して発心され、二十歳になる前に初代講頭せんせい防空壕ぼうくうごうの中にしまわれていた日寛にっかん上人しょうにんの御筆記を初めて手にされ、それより、日寛にっかん上人しょうにんなんを通してしょの極理、仏法ぶっぽうの奥義を拝され、今日こんにちまで広宣こうせん流布るふの御奉公を進めてこられたのであります。
 せんせいが二十歳の頃、管長代務者であった中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんから『六巻抄ろっかんじょう』の講義を受け、それを機に一対一で甚深じんじんの御法門や明治以降の宗門の内情を克明に教わったことせんせいから何度かうかがったことがありましたが、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんとのえにしも必然であったとおもわざるをません。
 第六天だいろくてんおう正系せいけいもんに打ち下り、時の貫首を始め宗門僧侶のことごとくが遺命ゆいめいかいせんとした時に、せんせいはたったお一人で遺命ゆいめい守護の戦いに敢然とお立ちになりました。
 この時いけ大作だいさくは誰人も背けぬ法主の権威を前面に押し立てて遺命ゆいめいを抹殺せんとしました。
 ほそ日達にったつは「御相伝にはこうある」とたばかり、しょう本堂ほんどうを「戒壇かいだん」「遺命ゆいめい戒壇かいだん」といつわりました。
 また阿部あべ日顕にっけんは『三大さんだい法抄ほうしょう』の御聖文をズタズタに切り刻み、捻じ曲げに曲げた解釈をもって国立こくりつ戒壇かいだんを否定しました。
 せんせい

 「このような大誑惑だいおうわくすべて打ち砕くことができたのも、ひとえに日寛にっかん上人しょうにんなんあればこそである。
 もし日寛にっかん上人しょうにんなんなくば、どうして遺命ゆいめい守護の御奉公ができたであろうかと私はつくづくおもっている」

おおくださいました。
 日寛にっかん上人しょうにんは『観心かんじんのほんぞんしょう文段もんだん』『六巻抄ろっかんじょう』に

 「れをこうだいくんおくる」
 「もっこうせいおくる。
 れはひとえ広宣こうせん流布るふためなり」

と記しておられますが「こうだいくん」「こうせい」こそこう前夜の第六天だいろくてんおうしょうにより正系せいけいもんからだい遺命ゆいめいが消滅する中、命かけてそれを守りたてまつられたあさせんせいを置いておられないとしてはいするものであります。
 かくて、死罪に等しい解散処分を被るとも、せんせいは強烈なる捨て身のかんぎょうを重ねられ、ついに、にせ戒壇かいだんしょう本堂ほんどう崩壊ほうかいに至らしめたのであります。
 そして、こう最終段階のしんぎょうにして忠誠ちゅうせいあかしである遥拝ようはい勤行ごんぎょう確立かくりゅうされ、だい聖人しょうにんの大恩徳を顕わした広告文こうこくぶんの配布部数はすでに9,400万枚を数え、あとわずかで1億枚に届くほどのざい以来の大規模な開目かいもくの大運動を起こされたのであります。
 せんせい常々つねづね遥拝ようはい勤行ごんぎょう広告文こうこくぶん広宣こうせん流布るふは必ず成る。これこそ、だい聖人しょうにんさまが教えてくださったこう最終段階のしんぎょうである」どうくださいましたが、順縁じゅんえんこうを為す要諦ようていを私達に授けてくださったのであります。
 おそれながらつつしんで拝するに、遠元初おんがんじょからの大宿縁のお方でなくして、正系せいけいもんのことごとくが天魔にたぶらかされる中にどうしてたったお一人で第六天だいろくてんおうと四つに組んでそれを下すことができましょうか。どうして日本国にだい聖人しょうにんさまの大恩徳をせいのままに顕わすことができましょうか。
 まさしく、せんせいこそこう前夜に一度しか起きない遺命ゆいめいかいという未曾有みぞうの大悪が出来しゅったいした時にだい聖人しょうにんさまが召し出だされたお方と伏して拝しては『何と偉大なしょう師事しじたのか』熱涙ねつるいげてまいります。
 かかるせんせいの66年に及ぶ戦いにより、いよいよこう決戦場けっせんじょうに到達し、ついに今、一国いっこくに総罰が現われる中にその大忠誠心だいちゅうせいしん絶対信ぜったいしんたい同心どうしんするこうの一大生命体である三百万さんびゃくまんになんなんとする顕正会が亡国せま日本にっぽんに存在する事こそだい聖人しょうにんさま御意思ごいしに他なりません。
 永遠の時間から見れば、一瞬の点滅のごときはかなき私達の人生があさせんせいと同じ時代に生まれ合わせ、直接に勲等くんとうを受けることがいかに難きの中の難きであるのか。
 せんせい大忠誠心だいちゅうせいしんたい同心どうしんして遺命ゆいめいじょうじゅに戦う者はことごとく地涌のさつであります。
 ゆえに、使命のない者はいちにんもないのであります。
 まして、広宣こうせん流布るふの時に至ればしょう徳太とくたい前生ぜんしょうしょきょうを取り寄せたごとく、今末法においては無辺行さつ日興にっこう上人しょうにんの後身たる本化国主が前生ぜんしょうしょにっこうたまわるところこうあんねんだいほんぞんを深く敬重けいちょうたてまつり、身命を賭してし給うのであります。
 これこそ『三大さんだい法抄ほうしょう』の

おうぼうぶっぽうみょうじ、ぶっぽうおうぼうがっして、おうしんいちどう本門ほんもんさんだいみつほうたもちて、徳王とくおう覚徳かくとく比丘びく乃往むかしまっぽうじょくあくらいうつさんとき

おおせの具体的な姿なのであります。
 まさしくしん退たいまったにんりきあらず」とのおおせのごとく、すべてはほんぶつ絶大ぜつだいとくだいだいにより広宣こうせん流布るふは必ず成るのであります。


令和5年 12月22日 12月度 総幹部会 浅井会長指導

令和5年 12月25日 12月度 男子部班長会 行成総男子部長指導