話は変わりますが、せんせい御意思ごいしを継いでこう最終段階を戦う私達は広宣こうせん流布るふは断じて成る」との揺るぎなき大確信だいかくしんに立つべきであります。
 これまでせんせいは、事あるごとにこう大確信だいかくしんを私達に打ち込んでくださいました。
 ことに、立宗御報恩勤行ごんぎょう会においてせんせいはかくどうくださいました。

 「立宗における大誓願だいせいがんの中に、その後の一代三十年のどうも、未来にっぽんこく広宣こうせん流布るふ国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうも、世界の広宣こうせん流布るふも、さらに、末法万年尽未来際までの広宣こうせん流布るふすべてが含まれている。
 だから、広宣こうせん流布るふができるとかできないとか私は少しも心配したことはない。
 すべては、だい聖人しょうにん一人いちにん絶大ぜつだいとくだいだいによってなされるのである。
 私達はそれぞれの立場で力に従ってだい聖人しょうにんさまどうをお手伝い申し上げればそれでよい」と。

 あるいは先日拝聴した日曜にちよう勤行ごんぎょうどうにおいては

だい聖人しょうにんさまはるとどめんとおもえどもなつとなる』おおせられる。だい聖人しょうにんさまのお力で広宣こうせん流布るふは成る。もうこれは、歴史的必然なのである」

強々つよづよおおくださいました。
 また、決死の御覚悟で最後の天奏におもむかれた日目にちもく上人しょうにんの申状には

さんきょうすなわにょらいごうちょくなり、しん退たいまったにんりきあらず」

としたためられております。
 さんきょう、すなわち、しゃくそん滅後正法千年、像法千年、末法万年の三時に仏法ぶっぽうが流布するのはしん退たいまったにんりきあらず」とてすべ仏様ほとけさまのお力によるのである。
 像法時代に出現したしょう徳太とくたい伝教でんぎょうだいの使命について、せんせいはこれまでに何度もどうくださいました。
 インドのしゃくそん霊鷲山りょうじゅせんにおいてきょうを説いた時、無数のさつがその会座えざれつしておりました。
 その中に、観音かんのんさつ薬王やくおうさつしゃくそんぞくのままに像法時代に中国に垂迹すいしゃくして観音かんのんさつ南岳なんがくだいとなり、薬王やくおうさつ天台てんだいだいとなってきょうを弘めております。
 そして、日本にっぽんにて南岳なんがくだいしょう徳太とくたい天台てんだいだい伝教でんぎょうだいとして出現してその使命を果たしております。
 しょう徳太とくたい南岳なんがくだいの後身であり、伝教でんぎょうだい天台てんだいだいの後身であることにはげんしょうがあります。
 すなわち、しょう徳太とくたいけんずい使ののいもを送りましたが、これは、外交面だけではなく前生ぜんしょうしょきょう日本にっぽんに持ち帰らせることにその目的がありました。
 前生ぜんしょうしょきょうとは、しょう徳太とくたいが前の世に南岳なんがくだいとしてしょしていたじゅう三蔵さんぞうが訳したきょうことで、百済くだらこくから渡ってきたきょうには所々にあやまりがあったためしょう徳太とくたいののいもに命じてそれを持ち帰らせたのであります。
 これまさに、しょう徳太とくたい南岳なんがくだいの後身であることげんしょうであります。
 また、伝教でんぎょうだいは唐に渡って天台てんだいだいより第七代の道邃どうずいじょうに会い、天台てんだいだいの法門を伝授しておりますが、この時道邃どうずいじょう伝教でんぎょうだいのただならぬ智解ちげに接し、天台てんだいだいが残した15の経蔵きょうぞうを順々にひらき見せたそうです。
 ところが、最後の第15の蔵だけはけなかったので伝教でんぎょうだいが「この一蔵いちぞうひらき給え」と乞うと道邃どうずいじょうは「この一蔵いちぞうひらくべきかぎがない、天台てんだいだいみずからが出世してひらき給うべき蔵である」とったという。
 この時伝教でんぎょうだいは比叡山建立こんりゅうにおいて根本中堂の地を引いた時に出てきたかぎ日本にっぽんより自讃していたのでそのかぎをもってけたところ蔵がいた。
 これを見て道邃どうずいじょう伝教でんぎょうだい礼拝らいはいし「天台てんだいだいの後身」とべたという。
 このように、しょう徳太とくたい日本にっぽん仏法ぶっぽう確立かくりゅうし、伝教でんぎょうだいきょう迹門しゃくもん戒壇かいだん建立こんりゅうして「末法はなはちかきにあり」い、共に末法のほんぶつにちれんだい聖人しょうにん御出現の露払いをするという大使命をもって日本にっぽんに出現したのであります。
 しゃ仏法ぶっぽうにして然り、いかにいわんや下種の仏法ぶっぽうにおいておやであります。
 末法にほんぶつにちれんだい聖人しょうにんが御出現あそばされると日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんうえ殿どの熱原あつわら方々かたがた遠元初おんがんじょからの大宿縁のさつだい聖人しょうにんさまと共にお出になっておられます。
 せんせいは、先の日曜にちよう勤行ごんぎょうにおいて『じゅうにょぜのこと』の一節を引かれて上根の人をげてこのようにべられました。

 「あのほっ講衆こうしゅう方々かたがたがそうである。
 ことに、先達せんだつじんろう殿どの日興にっこう上人しょうにんの御説法を聞きたてまつるや即座に『にちれんだい聖人しょうにんこそ末法のほんぶつ』との大しんじんに立たれた。すなわち、命でほんぶつを感じたのである。
 熱原あつわら方々かたがたは弘安元年の入信である。そして、翌弘安2年にはあの大法難が起きている。
 しかし、国家権力の脅しにも屈せず、だい聖人しょうにんさまを恋慕して不惜身命のしんじんつらぬき通された。
 まさに、日興にっこう上人しょうにんの御説法を聞いて即座に絶対信ぜったいしんに立たれた。これ上根の人である。
 また、うえ殿どのもそうである。
 16歳の時に身延にもうでてだい聖人しょうにんさまたてまつり、その時から始線に突入する御奉公を開始した。
 だい聖人しょうにんさまが『ほっ証明抄しょうみょうしょう』におおせのごとくものちゃくとなりて、ひとすすめぬに心中しんちゅうよりしんじまいらせて』おおせられるごとく、この内薫力ないくんりきの凄さ、まさに上根の人である。
 申すもおそれ多いことであるが、日興にっこう上人しょうにんは13歳の時にだい聖人しょうにんさまたてまつって即座にとなり、日目にちもく上人しょうにんは15歳の時日興にっこう上人しょうにんたてまつってただちにだい聖人しょうにんさまに帰依されている。
 まさに、遠元初おんがんじょ以来の大宿縁・だいさつであられる」と。

 さらには『しょ文段もんだん』『六巻抄ろっかんじょう』をもって広宣こうせん流布るふの準備をととのえてくださった日寛にっかん上人しょうにんもそうであります。
 かつてせんせいは大意を次のようにどうくださいました。
 日寛にっかん上人しょうにん御出現以前の宗門は京都要法ようぼう日辰にっしんの影響を受けて教義上の重大じゅうだいな問題が起こり、しばしそれが続くという暗黒の時代でありました。
 しかし、そのような時には必ず偉大なお方が御出現になる。それが日寛にっかん上人しょうにんであられたのであります
 また、日寛にっかん上人しょうにんの御出現はだい聖人しょうにん御入滅後約400年であり、不相伝のにちれんしゅう諸派における各学者の邪義がすべて出尽くした時でした。
 不相伝の諸門流しょもんりゅうやからは、にちれんだい聖人しょうにん遠元初おんがんじょの自受用身であられることを知らない。
 だから、しゃくそんこそほんぶつで、だい聖人しょうにんしゃぶつの使いに過ぎないとおもっている。その頭でしょを読んでも分からないのであります。
 例えば『報恩抄ほうおんじょう』には

ほんない一閻いちえんだいいちどうほんもん教主きょうしゅしゃくそんほんぞんとすべし。所謂いわゆる宝塔ほうとううちしゃほうほかしょぶつならびにじょうぎょうとうさつきょうとなるべし」

との重大じゅうだいな御文があります。
 不相伝の諸門流しょもんりゅうの学者らはこれを読んで「しゃくそんほんぞんとすべし」とう。
 しかし、そうすると次の文の宝塔ほうとううちしゃほうはどうなるのか。しゃくそんが二人出てきてしまう。
 そこで学者達はいろいろな解釈をしてこじつけるが、誰にも分からない。
 このほんもん教主きょうしゅしゃくそんとは、本門ほんもん寿量品の文底の教主きょうしゅしゃくそん、すなわち、ひゃくじんでんごう当初そのかみ遠元初おんがんじょの自受用身、末法御出現のにちれんだい聖人しょうにん御事おんことなのであります。
 では宝塔ほうとううちしゃほうとは何かといえば、十界じゅっかい互具ごぐ百界ひゃっかい千如せんにょ・一念三千を顕わしている。
 すなわち、法をもってにんを釈しておられる。これ、人法体一のゆえであります。
 だから、この御文のがん「人法体一のゆえに、にちれんだい聖人しょうにんをもってほんぞんとすべし」日寛にっかん上人しょうにんなんくだされております。
 透徹のおんなくして、どうしてしょの極理が分かりましょうか。
 せんせいは「不思議ふしぎおもことがある」として、この『報恩抄ほうおんじょう』の御文の大意を、19歳で出家された日寛にっかん上人しょうにんは20代の頃からほぼお分かりになっていたことについて

「単にこんじょう勉学べんがくおんではない。
 日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんと同じく遠元初おんがんじょ以来だい聖人しょうにんさまつかたてまつったお方であられる」

おおせられました。
 この生来せいらいみょうと富士大石寺に伝わる御相伝をもって重要しょの極理をすべて解説してくださった『しょ文段もんだん』さらに、三大秘法のじんを六巻にまとめて解説してくださった『六巻抄ろっかんじょう』と日寛にっかん上人しょうにんはこれら心血を注がれた御筆記をやがて来たるべき広宣こうせん流布るふの日のためにとどかれたのであります。


令和5年 12月22日 12月度 総幹部会 浅井会長指導

令和5年 12月25日 12月度 男子部班長会 行成総男子部長指導