申すまでもなく、だい聖人しょうにんさまとしてもっとだいことりんじゅうであります。
 せんせいは、だい聖人しょうにんさまがいかにりんじゅうを重視しておられたのについて、三重みえ会館かいかんにゅう仏式ぶつしきにおいて懇切こんせつどうくださいました。
 六百万ろっぴゃくまんがっかいいんが心魂に徹すべきだいどうゆえに、ここにあらためて示します。

 「じょうぶつしょうこそりんじゅうである。
 仏法ぶっぽうは世間の空虚くうきょな思想・哲学、あるいはキリスト教の天国のような架空の教えではない。じょうぶつということしょうをもって論ずる。りんじゅうにそのしょうがハッキリと現われるのである。
 ゆえに、仏法ぶっぽうを行ずる者にとって、じょうぶつを願う者にとってりんじゅうほどだいな物はない。
 ところが、どういうわけか近年がっかい・宗門はりんじゅうことわなくなってしまった。
 これは、遺命ゆいめいに背いているから怖くてえないのか、しょを如実に拝することができないからである。
 だい聖人しょうにんさまがいかにりんじゅうを重視あそばしているか。そのおおせはしょの至る所にあって到底げきれない。
 参考のためそのうちの二三をここにげてみる。
 まず、皆が一番よく知っている『みょうほうあまぜんへん』には『されば、りんじゅうことなろうて、のち他事たじなろうべし』と。
 人の一生いっしょうみじかい。いつ死ぬか分からない。
 だから、何よりも人生のさいだいであるりんじゅうを見つめよとおおせられる。
 また『せんにちあましょう』にはひとりんじゅうときごくつるもの黒色こくじきとなるうえおもことびきいわし。
 ぜんにんたと七尺しちしゃく八尺はっしゃく女人にょにんなれども、色黒いろくろものなれども、りんじゅう色変いろへんじて白色びゃくじきとなる。またかろこともうごとし、やわらかなること兜羅とろ綿めんごとし』
じょうぶつの相とごくの相とのちがいを克明こくめいにお示しくだされている。
 うえ殿どの縁戚えんせきに石川のひめぜんという人がいた。
 若いけれども病弱だった。しかし、しんじんは強かった。
 最後にだい聖人しょうにんさまにお手紙を差し上げて、自身のしんじんの決意を申し上げている。
 この人は最後りんじゅうの時にお題目を唱えて、まことに良きりんじゅうを遂げた。
 この時だい聖人しょうにんさまうえ殿どのにこうおおせられている。
 『あまぜんにちれんほうもんだにひがごとにてそうらはば、よもりんじゅうには正念しょうねんにはじゅうそうらわじ』と。
 もしだい聖人しょうにんさまの御法門がちがっていたならば、ひめぜんのそのような良きりんじゅうはありないであろうとおおせられる。
 また『しんこくおうしょ』にはしんごんしゅうの元祖ぜん無畏むい三蔵さんぞうごくちたそのしょうりんじゅうの相をもって断言しておられる。
 『ぜん無畏むい三蔵さんぞうは「するときこく陰々いんいんとしてほねはなはあらわる」ともうしてげんごくあくそうこつあらわしたまいぬ。
 ひとしてのちいろくろきはごくつとはいちだいしょうきょうさだむるところなり』
と。
 『するときこく陰々いんいんとしてほねはなはあらわる』とは、ぜん無畏むい三蔵さんぞう達がりんじゅうの善悪もわきまえぬままに正直に『黒い肌が全身を覆い』などと書いた。
 だい聖人しょうにんさましるしたこの記録を御覧になってぜん無畏むい三蔵さんぞうごくあかしとしておられるのである。
 さらに、中国・日本にっぽんしんごんの元祖達のりんじゅうについて『教行証きょうぎょうしょうしょ』には一切いっさいげんしょうにはかず、ぜん無畏むい一行いちぎょう横難おうなんおうこうぼうかくきょありさま、げに正法しょうぼう行者ぎょうじゃかくのごとくにあるべくそうろうや』おおせになっておられる。
 ぜん無畏むい一行いちぎょうは中国で、こうぼうかく日本にっぽんしんごんの邪法を弘めた悪僧であれば、これらの者のあくりんじゅうを指して一切いっさいげんしょうにはかず』『正法の行者ならどうしてこのような死去の有様があろうか』とおおせられている。
 また、安房の国にはだい聖人しょうにんが御幼少の時に修学された清澄寺きよずみでらがあり、だい聖人しょうにんを憎みおんしつする悪僧達が多くいた。
 これらおんしつしゃたちりんじゅうについて、安房でしんじんに励んでいた光日房こうにちぼうというに送った『しゅほんぶつじょうどうしょ』にはこうおおせられている。
 『安房のくにとう西ざい人々ひとびとことしんずべきことなり。がんぜんげんしょうり。
 いのもり猪森円屯房えんとんぼう清澄きよずみ西尭房ざいぎょうぼうどうぼうかたうみ片海じっぼうとうとかりしそうぞかし。
 これりんじゅうはいかんがありけんとたずぬべし』
とここでもりんじゅうを眼前のしょうとしておられる。
 だい聖人しょうにん憎嫉ぞうしつしたこれらの悪僧達は人々にはとうとげに見えて尊敬されていたが、彼らのりんじゅうは果たしてどうであったかとしかと尋ねよと光日房こうにちぼうおおせられている。
 また、清澄寺きよずみでらの長老で地頭の東条景信とうじょうかげのぶと心を通じてだい聖人しょうにんをことに強くにくんだえんぼうりんじゅうについてはこうおおせられている。
 『えんぼう清澄きよずみ大道だいどうにしてさんねんあいだいちさんらいきょうわれたてまつりて十巻じゅっかんそらおぼえ、十年じゅうねんあいだいちにちいちずつまれしぞかし。
 かれをば皆人みなひとほとけになるべしと云々うんぬん
 にちれんこそねんぶつしゃよりどうぼうえんぼうをばげんごくそこつべしともうしたりしが、人々ひとびとりんじゅうそうらいけるか、いかに』
と。
 清澄寺きよずみでらは元天台てんだい宗であったがしんごんに堕ちた寺である。
 よって、えんぼうきょうしょしゃぎょうなどもやっていたのであろう。
 彼は清澄寺きよずみでらの本堂において『いちさんらい』といっていち書いては三度讃礼さんらいしてきょうしょしゃし、きょう十巻じゅっかんそらに覚え、50年の間一日一夜にきょうを二部ずつ読んだという。
 この修行を見ては人々は皆『この人こそ仏になるであろう』とおもってっていた。
 しかし、だい聖人しょうにんだけは『このえんぼうこそねんぶつしゃよりもげんごくの底にちるであろう』と断言されていた。
 果たして、この人々のりんじゅうは良くそうらいけるかいかにと強く光日房こうにちぼうおおくだされている。
 そして『ほんぞんもんどうしょう』は清澄寺きよずみでらの中で浄房じょうぼうと共に健気けなげしんじんつらぬいていたじょうけんぼうに与えられたしょである。
 だい聖人しょうにん幼少ようしょうの時のしょうどうぜんぼうりんじゅうについて次のようにおおせられている。
 『どうぜんぼうしょうにてをはせますども、きょうゆえとうをそたまいて、心中しんちゅうにはびんおぼしつらねども、そとにはかたきのようににくたまいぬ。
 のちにはすこしんたまいたるやうこえしかども、りんじゅうにはいかにやをはしけむ。をぼつかなし。
 ごくまではよもをはせし、またしょうはなるることはあるべしともおもえず、ちゅうにやただよひましますらむとなげかし』
と。
 どうぜんぼうだい聖人しょうにん幼少ようしょうの時のしょうである。決して悪人ではない。
 むしろ、だい聖人しょうにんさま只人ただびとならぬを感じ、将来を嘱望しょくぼうしていた。
 しかし、大変臆病おくびょうな人であった。
 ゆえに、地頭の東条景信とうじょうかげのぶを恐れるあまり、心の中ではびんおもいながらも外面そとづらだい聖人しょうにんかたきのように憎んでいた。
 後には少ししんじたようであるが、果たしてそのりんじゅうはどうであったか心配である。
 ごくまではよも堕ちることはないであろうが、じょうぶつを遂げるともおもえない。定めてちゅうただよっていることであろう。なげかわしいことであるとおおせられる。
 このように、だい聖人しょうにんさまりんじゅうしょうとして仏法ぶっぽうの邪正、そして、しんじんの純不純、強弱を厳しく判じ給うておられる。
 ここに、生きた仏法ぶっぽうを拝する。
 まさに仏法ぶっぽうは世間の思想・哲学などとはまったちがう。キリスト教の天国みたいな架空な教えでもない。
 仏様ほとけさまがあるがままに生命を見つめて『かくすればかくなる』と因果の法則を確立かくりゅうされたものである。
 ここに、こんじょうの総決算であり、しょうの出発であるりんじゅうについてだい聖人しょうにんさまは『かくすればかくなる』と厳しく御覧になっておられる。
 ですから、だい聖人しょうにんとしてりんじゅうこと重大じゅうだいおもわなくなったら、それはもう仏法ぶっぽうではない。だい聖人しょうにんではない。これが今のがっかいの姿である。
 いけ大作だいさくしんじん薄くして魔がはいったからりんじゅうよりもしょうよりも現世の名利ばかりを求める。
 がっかいの資産は十兆円ともわれている。この金でマスコミを抑えた。大新聞・テレビはがっかいあくまったく報道しなくなった。
 また、公明党の政治権力で彼はおのれを守らせていた。
 そして、人に偉く見せようと世界中から三百有余のめいはか号を買い漁った。
 だが、こんな物は少しもしょうの助けにはならない。りんじゅうの役には立たない。
 だい聖人しょうにんさまは偽善で名利を求める良観を破されひときようなれども、しょうはをそろしをそろし』おおせられているが、今のいけ大作だいさくはまさにしょうは恐ろしである」と。

 どうでしょうか、だい聖人しょうにんさまがいかにりんじゅうを重視しておられたのかがよく分かります。
 まさに、りんじゅうこそが人生のさいだいじょうぶつじょうぶつを示す眼前のしょうなのであります。


令和5年 12月22日 12月度 総幹部会 浅井会長指導

令和5年 12月25日 12月度 男子部班長会 行成総男子部長指導