世間でもこの1月に成人式せいじんしきが行われておりますが、顕正会の成人式せいじんしきというのは世間のそれとはまったく意義が異なります。
 顕正会の成人式せいじんしきとは若き地涌じゆの流類が二十歳はたちになったことを機として「いよいよこれからしょうがい退たい奉公ほうこうつらぬかせていただきます」とだい聖人しょうにんさまちかたてまつる儀式、これがこの成人式せいじんしきなのであります。
 せんせい常々つねづね新成人しんせいじんに対して一生いっしょう成仏じょうぶつの大願と広宣こうせん流布るふの大願、この2つを我が人生の大願としてぜんしょうがい退たい信心しんじんつらぬいてほしい」念願ねんがんしておられました。
 一人一人がぶつとして固きこころざしを立ててほしいのであります。
 まず一生いっしょう成仏じょうぶつの大願ですが、そもそも人間と生まれること自体まれの中のまれであるとだい聖人しょうにんさまは御書の各所におおせになっておられます。
 たまたま人界にんかいに生を受けても、人の一生いっしょうはかなみじかい。わずか数十年であっという間に死をむかえてしまいます。
 『まつ殿どのへん』には

「とてもいたずらさんとなるべし。
 しみてもなにかせん、しむともしみぐべからず。
 ひとひさしといえど百年ひゃくねんにはぎず。かんことただ一睡いっすいゆめぞかし」

おおくだされておりますが、この受け難き人身にんしんて、しかもあっという間に過ぎ去る人生を虚しく過ごして、臨終りんじゅうに悪相を現じてごくちて、今度いつの日にか人に生まれることができるでしょうか。
 また、いつの日にかふたただい聖人しょうにんさま三大さんだいほうに遭いたてまつことができるでしょうか。
 だい聖人しょうにんさまは『新池にいいけしょ』にこうおおせ給うておられます。

 「信心しんじんよわくして成仏じょうぶつびんときそれがしうらみさせたまうな」と。

 せっかく一生いっしょう成仏じょうぶつの叶う大法に遭うとも、信心しんじんが弱ければ成仏じょうぶつは叶わない。臨終りんじゅうの時にだい聖人しょうにんさまに恨み言をってはいけない。
 また、日寛にっかん上人しょうにんは『観心かんじんのほんぞんしょうもんだん』において

ひとたびじんしんうしなえば万劫ばんこうにもがたし。
 いっしょうむなしくごしてえいごうゆることなかれ」

なんくださっておられます。
 人間として生まれてくることまれであるから、一度この身をうしなえば万劫ばんこうという長遠ちょうおんの時を経てもふたたび人間のしょうを受けることは難しい。
 ゆえに、もし一生いっしょう空しく過ごしたら、永劫えいごうに後悔をするであろう。
 このように、みじか一生いっしょうのうちにしっかりと信心しんじんに励み、何としても一生いっしょう成仏じょうぶつを遂げさせていただかんとの大願をいだくべきであります。


令和5年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井会長御挨拶

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令和6年 1月8日 成人式 浅井会長御挨拶

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