さて、私達は昨年10月16日よりせんせい御意思ごいしを継いで遺命ゆいめい成就への新たなる戦いを開始いたしました。
 それに当たり、私達はせんせいが発足より逝去せいきょに至るいついかなる時も帯されただいしょうにんさまこう教令きょうれいを深く命に刻み、こう決戦場けっせんじょうの重大奉公ほうこうに臨むべきと心いたします。あらためてその経緯いきさつを拝読いたします。

 「ぶつめつせんひゃくじゅうねんあいだしょうなんとうみょうりゅうじゅとうなんがくてんだいとうみょうらくでんぎょうとうだにもいまひろたまわぬきょう肝心かんじんしょぶつげんもくたるみょうほうれんきょうまっぽうはじめに一閻いちえんだいひろまらせたまうべきずいそう日蓮にちれんさきがけしたり。
 とうどもじんさんじんつづきてしょうなんにもすぐれ、てんだいでんぎょうにもへよかし。
 わづかのじまぬしらがおどさんをじてはえんおうめをいかんがすべき。
 ほとけ御使おんつかい名乗なのらせながら、おくせんはひとひとなり」

 このもんは、あの竜の口の大法難の直前に法難を恐れる全門下に対してだいしょうにんさま教令きょうれいくだされたものでありますが、せんせい「この本仏ほんぶつ広宣こうせん流布るふに対する燃えるような御じょうねつ大確信だいかくしんを拝せよ」とかくおおくださいました。

 「日蓮にちれんだいしょうにんこそしゃくそんめつせんひゃくじゅうねんあいだ誰人も弘めることの出来なかった寿量品じゅりょうほん文底の大法、すなわち、遠元初おんがんじょしゅの大法たる南無なむみょうほうれんきょうを全世界に弘めて人類をお救いくださるしゅ本仏ほんぶつであられる。
 その本仏ほんぶつが今広宣こうせん流布るふの戦いを進めるに当たって全門下にくだされた大号令だいごうれいこそがこのもんである。そのおおせにいわく。
 『我が達よ、じんさんじんと続いて、しゃぶつたるしょうなんみょうりゅうじゅなんがくてんだいみょうらくでんぎょうにも超えただいじょうねつ広宣こうせん流布るふを進めて行きなさい。
 わずかの小島の主らの脅しを恐れて退転したら、死んだ後のえんおうの責めをどうするのか。
 仏の使いと名乗りながら臆せん者はまことにふがいない者である』
 日本国中の人々が恐れる鎌倉幕府の権力者達を指して何と『わづかのじまぬしおおせられる。
 だいしょうにんさまの御見識の前には人々の恐れるこっ権力者もただ島のおさに過ぎない。
 仏様は三界のぬしであられる。ゆえに、このだいけんしきを持ち給うのである。
 今私達はこの偉大な日蓮にちれんだいしょうにんなのである。しかも、広宣こうせん流布るふの前夜に生まれ合わせている。
 今こそじんさんじんと続いてだいしょうにんさまこたたてまつらなければならない。
 この教令きょうれいを拝する時、私は、五体が大地にめり込むようなおもいがする。何という御じょうねつであられるか。
 広宣こうせん流布るふへのこの燃えるような御じょうねつは『何としても一切衆生を現当二世に救わん』とのだいから発し給うのである。
 いいですか、だいしょうにんさまの御じょうねつだいだいから発する。
 そして、我等じょうねつ忠誠心ちゅうせいしんから起こるのである。
 日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにん御時おんときにはこのだいじょうねつが門下にみなぎっていた。
 だから交通不便な時にあの北は東北から南は四国・九州に至る驚異的な大法弘通がげられたのである。
 そして、この日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんざいだいじょうねつふたたよみがえる時が広宣こうせん流布るふなのである」と。

 せんせいおおせられた通り、このじんさんじんつづきて」の大教令を受けられてのづうを身命も惜しまずお進めになったのがまさに日興にっこう上人しょうにん率いる富士門下だったのであります。
 日興にっこう上人しょうにん遺誡ゆいかい置文おきぶみ二十六箇条に示された

いまこうせんせざるあいだしんみょうててずいりきづういたすべきこと

との一条いちじょうにそれが拝せられます。
 そして、せんせいはかかるだいしょうにんさまの大教令、そして、日興にっこう上人しょうにんのこの遺誡ゆいかいを我が身に帯され、ただ一筋ひとすじ広宣こうせん流布るふを見つめて前進ぜんしんしてこられたのであります。
 せんせいしんじん淵源えんげんをここに拝するおもいであります。


令和5年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井会長御挨拶

令和6年 元旦勤行における浅井会長指導

令和6年 1月8日 成人式 浅井会長御挨拶