本日北は北海道ほっかいどうから南は九州きゅうしゅう沖縄おきなわに至るまで全国からこの成人式せいじんしきさんじてくれたその信心しんじんの熱誠を心から有難ありがたく思っております。
 先ほどから新成人しんせいじんの各登壇を聞いておりましたが、学校の教師や友人たちの様々な怨嫉おんしつを乗り越え、力強く広宣こうせん流布るふを進めるその若き同志たちの姿にはむねたれました。
 欲と怒りと愚痴ぐち三毒さんどくの悩みに覆われた世間の若者とは異なり、顕正会の若者は、日蓮にちれんだい聖人しょうにん三大さんだいほうをもって人を救い、国を救わんとの悩みをいだいでおります。
 この悩みこそ、ぶつとしてのさつかいの悩みであり、地涌じゆさつなればこそいだけるのであります。
 同時に、これらの魔障をえていくことがかえって自身の成長と広宣こうせん流布るふにつながることを思えば、有難ありがたさをめるものであります。
 この後平成25年の成人式せいじんしきにおけるあさせんせい講演こうえんを拝聴いたします。
 この父母への孝養と日蓮にちれんだい聖人しょうにん絶大ぜつだいとくについての重大どう新成人しんせいじんにとってのしょうがいしんというべきものですので、よくよくしんに染めてもらいたいと思います。
 さて、かつてあさせんせい新成人しんせいじんの立派な姿を御覧になり、このようにおおくださいました。

 「だい聖人しょうにんさまがもしこの姿を御覧あそばせば必ずやお喜びくださるものとひそかに拝察はいさつ申し上げていた。
 思い浮かべる光景は、弘安3年の6月のまだ熱原の大法難のじんくすぶる中に、あのうえ殿どのが弟のろう殿どのを伴って身延山中にましますだい聖人しょうにんさま御許おんもとに馬のくつわを並べて参詣申し上げたことであり、だい聖人しょうにんさまは二人の清らかな信心しんじん凛々りりしい姿を御覧あそばしうえ殿どのの母に宛てられたお手紙においてこうおおせられている。
  『あはれきもものかな。おとこなり、おとこなり』と。
 『あっぱれ、きもすわったものよ。まことのおとこであるおとこである』と。
 『この若い二人が将来法のため、国のためにどれほど役立つ人材じんざいとなるか』との期待を込められて賞嘆しょうたんあそばしたのである。
 だい聖人しょうにんさまのこのこころを拝したてまつる時、末法まっぽう濁悪じょくあく今日こんにち、清らかに本尊ほんぞんさましんじ、健気けなげ広宣こうせん流布るふに戦う顕正会の若き青年をもしだい聖人しょうにんさまが御覧あそばせば、必ずやお喜びくださるものと私は拝察はいさつ申し上げるのである」と。

 また、このようにもどうくださいました。

 「顕正会でなぜ成人式せいじんしきをやるのか。毎年私は世間の成人式せいじんしきとはまったちがった心で臨んでいる。
 というのは、宗門においては昔から年に一度総本山そうほんざんにおいて小僧さんたちをもてなす儀式があるという。
 これは、この小僧さんの中より日目にちもく上人しょうにんがお出になるとの精神から行われていると聞いている。
 広宣こうせん流布るふ国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうの時、日目にちもく上人しょうにんが御出現になられるというい伝えは宗門七百年の伝統でんとうである。
 もし日目にちもく上人しょうにん総本山そうほんざんにお出になられるのなら、在家・信徒の中にも御在世のうえ殿どの、あるいは熱原の法華講衆、あるいは日妙殿のような方々が出ないはずはない。すでに時はこうぜんである。
 ならば、成人せいじんを迎える若い人々の中にそのような方々がと私は思っている」

と。
 本日の成人式せいじんしきに当たり、新成人しんせいじんに寄せられたせんせいの並々ならぬ御期待が強く胸にせまっては、熱き物がげてまいりました。
 この立派な成人式せいじんしきせんせいは必ず霊山りょうぜんより御覧くださり、お喜びになっておられるにちがいありません。
 されば、一人一人がせんせいの願われるこうの力ある人材じんざいへと成長し、遺命ゆいめい成就のあかつきに「あの令和6年の成人式せいじんしきでのちかいを果たすことができました」とせんせいに晴れて御報告できるよう月々つきづき日々ひびつよたまへ」との金言きんげんのまま精進しょうじんを重ねていってもらいたいと思うだいであります。


令和5年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井会長御挨拶

令和6年 元旦勤行における浅井会長指導

令和6年 1月8日 成人式 浅井会長御挨拶

平成25年の成人式における浅井先生指導はこちら