いいですか、もしぶんごくちくしょうかいきょうがいだったらやはりおやおんということかんじないんですね。
 ということは、ぶんがそういうこうきょうがいになった時にはおやを恨むことがあってもおんということかんずることがないんですよ。
 「どうせ生むならなぜもっとましに生んでくれなかったのか」とぶんがそういう低いきょうがいの時には、さん悪道あくどう悪道あくどうの時にはおんかんずることはない。
 しかし、今私達は遭い難き三大さんだいほうに遭いたてまつった。ぶっる身になれたんですね。じょうぶつの叶う身になれた。
 そうなると、このぶんを生み育ててくれた父母ふもに対し「有難ありがたいなあ」という気持きもちがはじめていてくるんですよ。
 幕末ばくまつ勤皇きんのう尊王そんのうおもい強い、ちょうてい尊敬そんけいしておったその幕末ばくまつひとがこういう歌をうたっております。

 「大王おおきみに つかえまつれと われみし たらは とうとくありけり」

 このたらというのは、お母さんのおっぱいは垂れているでしょう。
 これは、ははおやことうんですね。

 「大王おおきみに つかえまつれと われみし たらは とうとくありけり」

 これは、幕末ばくまつ勤皇きんのうははおやおもってそういう歌をうたった。この気持きもちを私はよーくかる。
 で、これはせいかいですから、大王おおきみつかたてまつったんじゃじょうぶつは叶いません。
 これを、ぶつたちでこの歌をんでみればこういうことになるんですね。

 「ほとけに つかえまつれと われみし たらは とうとくありけり」

 今こうして本当ほんとう三大さんだいほうにお遭いできた。「だいしょうにんさま奉公ほうこうせよ」とこうして生んで育ててくれた我がたらとうとくありけりということなのであります。
 ぶんぶっる身になれたればこそ、生み育ててくれたおやおんかるというものであります。
 では、どうしたらおやおんを報ずることができるのか。
 けんの小さな孝養こうようなら誰でもかりますよ。
 おやにおいしい物を今日は買っていこうとか、ぶんにボーナスが出たからははおやに着物の一枚をとかこういうような小さな孝養こうようははおやは喜んでくれる。
 このような一つの孝養こうようということは誰にもかります。
 しかし、けん孝養こうようではおやじょうぶつを助けることはできない。おやの後生(死んだ後)の命を救うことができない。
 だから、結局においてちゅうになるということを『開目かいもくしょう』に縷々るるお説きくだされている。
 最高の孝養こうようというのは、おやじょうぶつの叶う大法を勧めることである。
 「おやにこの三大さんだいほうを勧める。これこそ最高のじょうぼん孝養こうようである」ということなのであります。
 顕正会でよく聞くでしょう。おやをずっとしゃくぶくしている。どうしても大反対だいはんたいをしている。
 しかし、最後に年老いてきて、最後に「じゃあお題目だいもくとなえよう」とってむすしたがって、むすめしたがって入信した。
 「最後りんじゅうに間に合っておやがよきりんじゅうを遂げました」という報告ほうこくを私はもう至る所で聞きますが、これを聞くたびに『有難ありがたことだな』というおもいをいだきます。
 そして、おや信心しんじん反対はんたいし続けて、もしりんじゅう悪相あくそうであったとしても、その時にども真剣しんけんしょうだいこうすると、りんじゅうの相は変わってきますね。
 この孝養こうようということは普通のじゃできないでしょう。
 本当ほんとうに、本尊ほんぞんさま信心しんじんによってむすむすめ真剣しんけんおやじょうぶつ本尊ほんぞんさまに願いたてまつってお題目だいもくとなえる。
 そうすると、信心しんじん大反対だいはんたいをして謗法ほうぼうをして、たとえ悪相あくそうでもって亡くなったおやであっても相が変わってきますよ。これが本尊ほんぞんさま有難ありがたことである。
 そして、それはその一念いちねんこうしたども孝養こうようであります。
 そして、勤行のたびごとに亡き父母ふも追善ついぜんこうをする。これが大変たいへんな功徳であります。孝養こうようであります。
 いわんや、ぶん広宣こうせん流布るふ奉公ほうこうをして、その功徳を父母ふもこうすることはいかに大きな孝養こうようであるということですね。
 ぶんが大きな功徳を積めば、生み育ててくれたおやの功徳になるんですよ。
 そこに、だいしょうにんさまは竜の口のけいじょうに向かわれる途中、御供おんとも申し上げたじょう殿どのに対して馬の上から諄々じゅんじゅんと最後の説法せっぽうをあそばしたでしょう。

 「日蓮にちれん貧道ひんどうまれて、父母ふもへの孝養こうようこころにたらず。くにおんほうずべきちからなし。
 こんくびきょうたてまつりて、どくこうせん。あまりはだんとうにはぶくべし」

 「ぶんは力なきしゅっの身と生まれて、父母ふもへの孝養こうようは心に足らず」

 だいしょうにんさま父上ちちうえ母上ははうえは立宗の時にだいしょうにんさま信心しんじて入信をしております。
 その後、だいしょうにんさま広宣こうせん流布るふのために父母ふもそばにいることができなかった。
 よってこれを父母ふもへの孝養こうようこころにたらず」おおせになっておられるわけであります。
 そこでこんくびきょうたてまつりて、どくこうせん」とおっしゃる。
 これはどういうことか、りっしゅうらいしんみょうも惜しまざるしゅぎょうここにじょうじゅして、今ぜんじんるいを救うおん元初がんじょじゅ用身ゆうじんじょうどうをお遂げあそばすそのちょくぜんにこのことおおせになっておられるでしょう。
 その大功徳はすべて、我を生み育ててくれた父母ふもこうせん。
 何と深きだい孝養こうようであられるか。
 このもんを拝する時、今私達は我を生み育ててくれた父母ふもに、だいしょうにんさまちゅうせいつらぬいた後のその功徳をこうする。それこそ最大の孝養こうようなのであります。


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