つつしんでおもうに、せんせいはこのことを誰かに教わってかかる広宣こうせん流布るふだいじょうねついだかれたのでしょうか。
 先程拝聴した日曜にちよう勤行ごんぎょうせんせい上根じょうこんひとところにてきわめてさとりをあらわす」との『じゅうにょぜのこと』の一節を御教示くださいましたが、恐れながらその大宿縁をおもえば、せんせいだいしょうにんさまから直接大教令だいきょうれいをお受けになったとしかおもえず、だからこそ、いかなる困難があろうともいささかなりともそれが揺らぐことも弱まることもないのだとはいします。
 せんせいのその強く深き大道心だいどうしんにより、こう前夜にその大潮流が巻き起こされた様はあたかもれいせばかぜしたがってなみ大小だいしょうり、たきぎによってこうり、いけしたがってはちす大小だいしょうあり、あめ大小だいしょうりゅうによる、ふかければえだしげし、みなもととおければながながしとこれなり」との金言きんげん彷彿ほうふつといたします。
 顕正会発足に当たり、広宣こうせん流布るふじょうねつなき末寺住職の反対の中濁れる安易を捨て、前途多難を御覚悟の上でただ広宣こうせん流布るふだけを見つめて三百数十名で悲壮の出発を遂げたことも、あるいは、遺命ゆいめいしゅたてまつったゆえに死罪に等しき解散処分を被るとも「これでいちぶんでも申し訳が立つ。遺命ゆいめいを守るに『たい、ゆるき行者』とのお𠮟りだけはまぬがれる」とお喜びになられ、ただちに潰れて当然の所、いまだかつて誰も行ったことのない遥拝勤行ごんぎょうによる大規模なしんほうを進められたことも、すべだいしょうにんさまこうの大教令をたいされての前進ぜんしんであり、ついには、三百万になんなんとするぶつの大集団を築かれたのであります。
 せんせいは、いついかなる時もだいしょうにんここにましませば何を命じ給うか」とただだいしょうにんさまの御命令をしんじんの耳で聞きたてまつられ、恋慕渇仰・不惜身命のしんじんで第六天の魔王によるだいしょうを下し、あらゆる困難を乗り越えて広宣こうせん流布るふを進めてこられたのであります。
 これは、ある地方会館の御入仏式でいただいたことですが、遺命ゆいめいしゅの戦いにおいて、顕正会に近い立場の僧侶が遺命ゆいめいしゅ完結かんけつしんじられず「顕正会は遺命ゆいめいしゅというけれど、完結かんけつなどありるはずがない」と陰でっていたことに対しせんせいは大いにいきどおられ

「今だい本尊ほんぞんさまがいかなるお気持ちで正本堂しょうほんどうにおられるかこのことが分からぬのか。
 できるとかできないとかではない。なぜ命を捨てて遺命ゆいめいしゅに戦わないのか。なぜそんな他人ひとごとみたいにえるのか。
 この遺命ゆいめいしゅ完結かんけつがなければ広宣こうせん流布るふもありないではないか」

𠮟責しっせきされたことを教えてくださいました。
 当時強い衝撃を受けたことを今でもはっきりと覚えております。
 だいしょうにんさまの厳たる御命令を帯されたせんせいは、たとえそれがいかに不可能とおもえることであろうとも、一度も弱い心を起こされずに忠誠ちゅうせいつらぬかれ、にせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどうを崩壊に至らしめてなおいま広宣こうせん流布るふが実現しないことを申し訳なしと思され、ただだいしょうにんさまこころじゅんぜんと身命を賭して戦われたのであります。
 私は、せんせい峻厳しゅんげん極まる大忠誠だいちゅうせいの戦いの一分をも拝させていただき、わずかな困難で弱気や愚痴の心を起こしたらせんせいにおしかりを受けるとつねかいしております。
 かかるせんせい御意思ごいしを継ぐことの重みを日々全身に感じては、凛然りんぜんたる決意をいだいております。
 されば、全顕正会員はじんさんじんつづきて」とのこうの大教令を帯されたせんせい大猛進だいもうしんを我が命に宿し、いよいよスケールを変えた大前進だいぜんしんを成してまいらねばなりません。


令和5年 12月28日 広布御供養奉告勤行会 浅井会長御挨拶

令和6年 元旦勤行における浅井会長指導

令和6年 1月8日 成人式 浅井会長御挨拶