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姫新線のレールの右にあるマンションの右に見えるのが、秩父山(土器山)。さらに右に見える「フジオカ」看板があるのが船越山。マンションより左に見えるのが鷹山(遠山・どやま)?
 
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マンションより左、「フジオカ」の看板があるのが船越山。マンションより右、鉄塔が見えるのが西山。
 
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姫新線の踏切と船越神社。
 
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秩父山(土器山)の山頂は、黒田官兵衛の青山合戦陣地跡。
 
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おそらく、船越山「フジオカ」の看板の左隣にある現在広告なしの白看板。
 
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船越山山頂の四阿。
 
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西山の鉄塔までは登ってみた。これ以上は登る気がしない。この鉄塔の右奥と画像のちょうど背後に山道あり。右奥の山道を下りると、もろ私有地(私道)に出て、通るのが申し訳なかった。
 
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新在家一丁目(城西小学校南東)にあるもう一つの秩父山(水尾山?)。播磨国風土記の十四丘の蓑形丘の比定されるのは、こちらの方だが、私有地で侵入不能。しかも削られて、もはや山でも丘でもない風貌。
 
 
 
 姫路駅前から国道2号線を下手野方面へ行くと、ちょうど姫新線と交差するところで、道路が上へ盛り上がります。そのとき右側に「フジオカ」の看板と、三つの山が東西に並んでが見えるはずです。
 
 これから非常にややこしくなりますが、秩父山(土器山)・船越山・西山の説明に入ります。前述の三つの山の総称がまず、「船越山(ふなこしやま)」です。「播磨鑑」では「岩船山」と呼ばれているようです。ところが、一番西にある山が「秩父山(ちちぶやま)」、または「土器山(かわらけやま)」と呼ばれています。標高約60メートルです。さらに真ん中の山が「船越山(ふなこしやま)」と呼ばれています。標高61メートルです。一番東にあるのが「西山(にしやま)」です。三山で一番東にありますが、「西山」です。標高約60メートルです。船越三山の総称も「船越山」と呼ばれ、真ん中の一番高い山も「船越山」と呼ばれています。三枚目の画像の通り、船越神社を普通に登ると、「秩父山」に出てしまいます。
 しかも、「播磨国風土記」にある伊和の里の十四丘のひとつ、「蓑形丘(みかたおか)」に比定されるのは、下手野にある船越三山のうちの「秩父山」ではなく、新在家一丁目(城西小学校南東)にある「秩父山」だと言うではありませんか。新在家一丁目の「秩父山」は、私有地で入ることができない上、削り取られて「山」と呼べる状態では残っていません。8枚目の画像(最後の画像)の通りです。さらに十四丘のひとつ、「匣丘(くしげおか)」は鬢櫛山と比定される場合もありますが、今回の船越山とされる場合もあります。また、新在家一丁目の「秩父山」の別名は「水尾山」とされていますが、ネット上の情報は混乱しており、下手野の「秩父山」の別称が「水尾山」だとか、現在の姫路文学館あたりが「水尾山」だとか、「男山」が「水尾山」だとか述べられていて、何が正しいのか全くわかりません。もう、ややこしくて仕方ありません。
 下記リンク先で紹介されている方が、新在家一丁目(城西小学校南東)にある秩父山です。
 
 
 
 
 
 まず、姫新線の踏切を北に渡り、船越神社から秩父山(土器山)を登り始めました。木造の神社が多い中、この神社は鉄筋コンクリート製で、昭和51年に造られたようです。眺めていると、自分の子供の頃の建造物は、こんな造りの建造物が多かったなぁと懐かしく思いました。面白山児童センター(元測候所)とか、手柄山の回転展望台とか。そして、登っていくと金比羅宮に出ました、その右側からも左側からも登れそうでしたが、「青山合戦場陣地」の案内板があった左側から登りました。青山合戦場陣地が秩父山(土器山)の山頂でした。本来、秩父山と船越山の間には、自動車も行き来できる道路があるはずなのですが、道路の改善か公園の整備か何かで現在工事中立入禁止でした。秩父山公園の西側から下山しました。
 
 続いて、船越山へは秩父山公園北側からしっかりとした山道があるのですが、下記リンク先と同じように、私有地の裏にあるような細い階段から上がっていきました。いや、これは一度私有地の庭を踏んでいるのではないでしょうか。長時間たたずんでキョロキョロしていたら、不審者確定となります。
 
 
 踏み跡はあるものの、整備されていない道でした。山頂へ到る前に、五枚目の画像のような看板の裏側へ出ました。おそらく「フジオカ」の看板の右(東)にある現在広告の貼られていない白看板です。山頂には四阿があり、そこから西側(秩父山側)への道は整備されていて、歩きやすかったです。秩父山公園の北側へと下山しました。
 
 さて、西山は事前に軽く調べると、藪漕ぎを覚悟しないとまともに山頂まで登れないような感じでした。八家病院(はっかびょういん)の近くに、西今宿墓地があり、ここから登れないかと、墓地の一番奥まで歩いてみました。そこから上は完全な藪で、人の通った形跡はあまりありませんでしたが、少し歩くと鉄塔へ出ました。これ以上西山の山頂に藪漕ぎで近づく気は起こりませんでした。7枚目の画像の右下に山道が見えますが、そちらを歩いておりました。おそらく7枚目の画像の反対側(撮影者の背中側)の山道を歩いて下りると、西播自動車教習所方面へ出ていたのではないでしょうか。自分の下りた山道の終わり(登山口)は、西山南側の民家の裏側でした。またもや、私有地と私道です。単独行のため、いかがわしさ漂うシチュエーションと思い、素早く公道へ出ました。猛犬に吠えられたりすることがなくて、良かったです。
 
 8枚目の画像(最後の画像)の通り、新在家一丁目の方の秩父山(水尾山?)の周りにも寄ってきましたが、私有地のため近づくことができず、山歩きとは呼べない散策となりました。これで、「播磨国風土記」にある伊和の里の十四丘に比定される場所で寄ったところは、
 
 「冑丘(かぶとおか)」の「冑山」、
 「箱丘・筥丘(はこおか)」の「男山」、
 「甕丘(みかおか)」の「神子岡(面白山)」、
 「匣丘(くしげおか)」の「鬢櫛山」(もしくは、今回の「船越山」)、
 「船丘(ふなおか)」の「景福寺山」、
 そして、「蓑形丘(みかたおか)」が、今回の新在家にある方の「秩父山(水尾山?)」となります。
 
 ちなみに、十四丘ではありませんが、「因達神丘(いだてのかみやま)」が「八丈岩山」で、
 「手刈丘(てがりおか)」が、「手柄山」です。
 
 
「船越三山(船越山・秩父山・西山)」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

※関連リンク先

「『播磨国風土記』の餝磨郡伊和里の条の十四丘伝説とウォーキングまとめ」

https://ameblo.jp/musyaavesta/entry-12640536361.html

 

「山歩き まとめ(改)」 
https://ameblo.jp/musyaavesta/entry-12624377490.html