じなんぼうの伝言 -16ページ目








◎六波羅蜜寺http://www.rokuhara.or.jp/
旅も終盤近いのでチカバに行っておくか、というわけで六波羅蜜寺。東大路通り、五条の交差点から北西方向、裏道に入って近い。
行ってみると有名なわりにこじんまりとしているので、その点意外であった。周囲は密集した住宅街で、お寺さんの方が肩身が狭いと言った風。度々の兵火にも遭ったが、寺域が縮小したのは明治の廃仏毀釈だという。
天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開基。西国第17番の札所。当初は西光寺と称した。
空也上人はそのとき本尊とした十一面観音を車にのせて疫病の蔓延する市中をまわり、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという話はよく知られている。
その様子は「歓喜踊躍して」とか、また、その茶は皇服茶(おうぶくちゃ)として、踊躍は六斎(ろくさい)念仏としていまに伝えられているという。
その後応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行い、この時をもって西光寺の創建とする説もあるという。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であったという。
宗教家では空海とか最澄と言えば知らぬものはいないが、そういう天才は別として、天皇の血筋がありながら現実の市民の困難に奮闘する。それはそれで尊敬に値するだろう。そしてかなりの行動力があったのだ。
拝観料500円。失礼だが建物関連にはこれと言って驚くようなことはないが、多くの彫像がメダマ。
中でも教科書に載っている空也上人像と平清盛像はあまりに有名。上人像は昔、ワシは東京・上野の博物館で見たような記憶があるのだが、なにかの特別展であったろうか。
像の製作は鎌倉期だそうだが、人として生前のイキザマをこれほど表現している像というのもあまり例がないだろうが、そういう意味でも上人の存在は人々に強烈なアピールがあったのだ。
平清盛像もよく知られているが、これは上人像と逆に歴史上の大権勢を持った人間と言う感じがなく、まさに僧形然としている。
境内には阿古屋塚とか平清盛塚などあるが(写真3枚目)、手水舎なのか石造の器などに、かつての伽藍にあったのか「普門院」とか、山号の「補陀洛山」の文字が落書きのように刻まれているのが面白い(写真6、7枚目)。


◎食堂・街かど屋(烏丸五条店)http://www.meshiya.co.jp/24/index.html
帰路に五条通りで夕食。烏丸通り交差点そば。地下鉄烏丸線、五条駅出口の前。チェーン店らしい。煮カツ定食680円。ご飯おかわり自由。

◎最近(でもないようだが)、一部のトンデモ思考的?歴史観として、明治天皇スリ代わり説がある。
○ようするに幕末の天皇の皇子である睦仁親王は暗殺されたか排除されたかして皇位を追われ、替わって大室寅之祐なる人物が成り代わり、そして明治帝になったというものだ。
※孝明天皇も暗殺された。睦仁親王は毒殺された。(すなわち尊皇攘夷から開国への大転換がなった。)
明治帝に成り代わったのが大室寅之祐かどうかは野次馬的に見るだけだが、すり替わったということ自体は信憑性は高いと思っている。
※傍証として幼年期の皇子と即位後の天皇の様子が別人と言うほど違っていると言うのだ。
○こういうのはワシは大好きでね、この猛暑の中、こういう話しかワシの脳細胞が受け付けんのだ。
○とりあえずそこらへんをスタートに最近マイブームである。
※ただ、大室某の存在が薩長の傀儡というのはわかるが単に市井の一個人というだけだったのか。南朝系の人物だったと言うのも聞いたことがある。
大室家はガセだとしても南朝の系統であるようないわれがあるらしいが、しかし寅之祐は大室家にはその分家筋に母親が後妻として嫁いだときに連れ子で入ったのであって、たとえ大室家が南朝の系統であったとしても寅之祐自身には血縁は無いことになる。
寅之祐を見出したのは、知られている「七卿落ち」の時の三条実美と言われているが、それにしても大室家とは血縁が無いことは当然知っているはずだが、それでも単純に「養子格」でもかまわないと誤魔化そうとしたのだろうか。
ワシが今まで読んだそれらネットのトンデモ話を真実とするなら孝明帝と睦仁親王は暗殺され、大室寅之祐も南朝の血縁が無いので皇統は絶えたことになる。
もっとも北朝ももともと出自は怪しい。ワシとしては南朝贔屓なのでどこからか新親王が現れないものか。









◎蚕ノ社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B6%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
法金剛院を出るともう4時。普通には入場できるところはない。出入り自由の場所に行く。蚕ノ社は法金剛院の南西方向。数百メートルかせいぜい1キロ。距離は近いがやや迷った。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。通称で蚕ノ社。御祭神は天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国魂神(おおくにたまのかみ)、瓊々杵命(ににぎのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)というのが一般的。
鳥居は磨き丸太だ。最近になって再建したものらしい。北山杉だろうか。
神社の創建は式内社であるばかりでなく、続日本紀・大宝元年(701)の条に記載があり、その古いこと京都でも最古の部類にあって、秦氏が上記の御祭神を祀る以前に太古の地元神が祀られていたと言う様な説も見えることから、そもそもナゾのある神社だ。
そして御祭神についてもその神社名にあるように「天照御魂神」はどうしたという話もあるらしい。神社名にあるのに祭神ではないのかということのようだ。ここらへんのことについてはワシのような野次馬にはわからん。
神社名ということでは、そもそも「木嶋・このしま」というのもおかしい。一般的にはこのあたりは「元糺の森・もとただすのもり」と言われているように森があるからという。
しかし、神社にはどこも神域というようなことがって、森はつきもので、ここだけが特殊なわけではない。「木嶋・このしま」と言う名は他にあるかもしれないが一般的には聞かない。名称自体も疑問の余地アリと思う。
そして「三柱鳥居」である。本殿の西側にあって、「元糺の池(もとただすのいけ)」の中央に建つ。現在は湧水もなく、排水溝の上に柵が閉じられていてそばにも行けないようになっている。
天保2年(1831)に石造にして再建された。3本足の鳥居の中央には瓦礫のような岩が積み上げられている。「亨保六年(1721)銘の常夜灯には、磐座(いわくら?)宮と刻まれている」という資料もあるので、岩神様のような存在かもしれない。
この不可思議な鳥居こそ神社のナゾを象徴している。秦氏のナゾに由来しているとも思われるし、景教やユダヤとの関連も取り沙汰されている。
それにしてもいろいろナゾが多い神社だ。今度の旅でもこの三柱鳥居はメダマだった。三柱鳥居は見れば見るほど謎めいている。
ただ、そうは言っても眺めていれば謎が解けると言うわけでもない。しかし、気持ちはおさまる。
PS・・・秦氏のハタは機織(はたおり)の「はた」の語源である。だから秦氏は絹織物を天皇に謙譲したといういわれもあるくらいだが、絹織物の製作をつかさどっていて、この神社も「蚕の社」とされる由縁である。
絹、蚕とくれば即、シルクロードであり、弓月の君の伝説があり、それはまた中東の古代国家を発祥としているのである。







◎法金剛院http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%87%91%E5%89%9B%E9%99%A2
妙心寺門前から下がる道がある。道なりに新丸太町通りを数百メートル西進すれば右手に法金剛院だ。
花園の駅にも近いのだが、古刹ではあっても寺域はずいぶん削られてしまったようだ。
由緒は古い。右大臣清原夏野(きよはらなつの)の山荘を死後双丘寺(そうきゅうじ)としたのが始まりで、天安2年(858)に文徳(もんとく)天皇が伽藍を建てて天安寺(てんあんじ)とした。
しかしその後は衰微していたのを、大治5年(1130)、鳥羽上皇の中宮で後白河そして崇徳天皇の生母、あの美人にして聡明を謳われ、西行法師というと名が出る待賢門院(たいけんもんいん)が復興し法金剛院となったという。
今に蓮の寺と言われるそうだが美人がかかわるに相応しい。待賢門院は当寺に葬られている。
拝観料400円。入ると右手に庭園が控えている。思うのだが、宗教者と言われる人たちでも緑でいやされるのだろうと思う。訪問者は自分のためにあるように思ってしまうが、それもないとは言えないが第一には修行者のためではないのかなあ、わからんが。
ただ、キリスト教にはそういうことがないよね、これは日本が誇っていいのではないだろうか。
木造阿弥陀如来坐像がある。坐高2.2メートルの大作で、仏師院覚の作と推定されているもの。その他、厨子入木造十一面観音坐像 - 元応元年(1319)仏師院吉らの作。四臂(手が4本)で坐像の十一面観音、木造地蔵菩薩立像、木造僧形文殊坐像、いずれも平安後期の作。 当然撮影禁止。
庭に出て「青女の滝」を見る。今は水はない(写真3枚目)。ただ、池はある。季節をはずしているので蓮や紫陽花も咲いてない。
待賢門院堀河とある歌碑が池の傍に立っている(写真4枚目)。
★「ながからむ 心もしらず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそ思へ」
あとで調べたら百人一首の歌だ。堀河とは待賢門院に仕えて出家にも従った人。歌は固い石に刻まれてはいても女性らしい生々しさ、息吹きを感じてしまう。
そこでおそれおほくも一首。
★岩の滝 花もまだ見ぬ 池のはた かげと見ゆるや 髪のみだれる









◎退蔵院http://www.taizoin.com/main.html
妙心寺の境内に門があって、いやでも・・・ってことはないが塔頭である退蔵院に入る。建立が応永11年(1404)の「屈指の古刹」と妙心寺のパンフでも紹介されている。
拝観料500円。うかつだったが入るときにガイドを見てここにあの国宝、「瓢鮎図(ひょうねんず)」があることを知った。公開されているのは当然模写だが、愛らしい絵だ(大きい写真)
絵は禅問答を表したものだそうだが、お寺のサイトにはこの絵を前に宮本武蔵が自問したというエピソードを載せている。この絵がある方丈廊下には戸板に鶴やヤギの絵がある。
寺は小規模だが庭は狩野元信の築庭で、パンフには枯山水とあるが植栽も多く見えて禅寺の禁欲的な風景とはオモムキを違えてる。
庭内は歩けるようになっている。水琴窟もあって音も聞ける(写真7枚目)。禅問答とか枯山水とかからのイメージとは違う、いいほうに裏切ってくれるうるおいのある庭園だ。意外によかったな。









◎妙心寺http://www.myoshin.com/
蓮華寺からは仁和寺前に出て一条通から下がってその名も妙心寺道に出る。
妙心寺は開山についてお寺のパンフとネットやガイドの資料を見比べるとチョットわかりにくい。お寺のパンフでは花園上皇が関山慧玄(かんざんえげん)を開山として建武4年(1337)に開創としている。ガイドや資料では発願がその年だが、実質の開山は、暦応5年/康永元年(1342)となっている。
総門を入ると伽藍は整然と南北に立ち並んでいて大徳寺を思い出させるのだが、花園上皇の禅の師は大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)だというから、なるほどと思う。特に山門は朱に塗られているところまで共通だ。
そこら辺はワシのような素人は外観だけで判断しているだけなので、ほかに理由があるかもしれないが。山門、仏殿、法堂、大方丈、小方丈はどれも重文。大堂伽藍と言える規模。
境内は自由に出入りできるが、奥の寝堂とある建物に受付があって拝観料500円でガイドが出る。修学旅行生数人がまじるグループに入る。
法堂から見ていく。天井に狩野探幽作、雲龍図。八方にらみだということで堂内を一周。迫力はすごいが、描くのはタイヘンだったろう。照明といったらロウソクの時代だ。ミケランジェロが教会の壁画を描いて目とか体を悪くしたという話を思い出す。
法堂であったか仏殿であったか、国宝の梵鐘が屋外でたたき続けてはいたむので堂内に安置されていて、録音を再生して音を聞かせてくれるのが面白い。
最後に浴室が案内される。








◎蓮華寺http://www.kinki36fudo.org/15.html
旅も後半。課題は鞍馬寺だ。ガイドを見ると山がちの場所で徒歩の部分がかなりあるような感じ。一応行ける所だけ行こうと出た。今出川通りから賀茂川沿いの道、賀茂街道とかを行って上賀茂神社を過ぎて県道38を行く。
が、山道に入ったところで怪しかった空から雨粒が落ちてきた。これで断念。まだ修行が足りんということか。もどれってか。
戻って北大路通りを西進。金閣寺、竜安寺周辺は修学旅行生を運ぶ大型バスがラッシュ状態。竜安寺がいいかなと思ったのだが、入る気がせん。雨は途切れて大丈夫そう。鞍馬寺のいじわるなのか。
で、転法輪寺。仁和寺の東隣。ここには7メートルもあるという阿弥陀坐像があるらしい。山門を入るとすれ違いに出てくるオヤジがいた。ちょっと気になって「ここは入れますか」と聞くと「しまってて・・・」とかなんとか要領を得ない。
寺内は狭く、かまわず入って行く。すぐ左手に本堂、向かいに住宅風の庫裏があって玄関にブザーがある。それを押すと女性が出た「阿弥陀様は公開されてますか」と聞くと公開はないという。
仕方がない。戻ろうとするとさっきのオヤジがまだいてやりとりを見ていたようだったが「公開はないそうですよ」と言ってあげた。ほんとはあんたがやってるはずだろとつっこみたくなった。
転法輪寺から少しさがって蓮華寺。小規模な寺。境内入るとすぐに石仏が整列している。五智如来像(写真3,4枚目、大きい写真)。薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来。これらのほかにも石仏群がある。観音坐像等11体(写真2枚目)。これだけの石仏があるのは珍しいだろう。
これらの石仏群の由緒を刻んだ石碑もある(写真5枚目)。
真言宗別格本山。本尊は五智不動明王。大同元年(806)、弘法大師が感得した不動明王を石に刻んで尊祀したのが始まりというが、実質は天喜5年(1057)、藤原康基がその不動尊を奉祀して蓮華寺として建立した。
その後、徳治年間(1306~08)に後宇多天皇が中興蓮華峰寺と改称して住職となり、寛永18年(1641)、樋口兵太夫が五智如来等の石仏群を鳴滝音戸山に造立、荒廃していた伽藍・堂宇を再興し五智山蓮華寺と称した。というものだが、そのとき寺名が戻ったということか。
昭和に入り慈海上人が伽藍・堂宇ならびに石仏群を現在地に移転して現在の姿になったようだ。有為転変があったのだ。
当寺には「きゅうり封じ」として七月土用丑の日の行事が有名だという。
境内の隅には大きい錨が置かれている(写真6枚目)。大戦での学徒出陣の記念とある。









◎大阪・③道頓堀あたり
博多華丸を見た。千日前通りになるのかコンビニからビニール袋を手にして出てきて隣のオリエンタルホテルに小走りに入っていった。これから舞台に立つのだろう、やっぱりなあ、誰か見ると思ってたよ。
時間はまだ4時過ぎ、「りゅうぐうてい」という回転寿司が890円で食べ放題をやっている。ビールつきで1200円。夕食には早いが入る。店内、客はまばら。がんばって食う。21皿。ネタはそれなり。
梅田の食堂街でも難波でも食堂のショ―ウインドウのサンプルはどこも皿を立ち上げるようにしてメイッパイアピールしている。
映画、ナンバ金融伝に出てくる道頓堀のグリコの宣伝を見て帰路。
駅の路線図を一生懸命見る。難波から梅田に乗り換えなしに行けるんではないかと思うが、なぜか路線図でははっきりしない。しかし切符は買えた。結局行けたのだが、なぜわからんようにしてあるのか。往きは損した。
梅田に着くと人身事故でダイヤが乱れていると言う。20分ほども待って、入って来た電車はたちまち満員で乗れず。しばらく待って乗った。
そして京都についてからはバスを待つ間に雷雨。くたびれた。









◎大阪・②・難波
梅田から難波へは駅で路線図を見ると今宮というところで乗り換えだ。ここから先の景色は全く初めて。行き交う人の顔を見るが関東と違うとは思えないが、奇妙な感じ。これがいいんだよね。
今宮の駅は乗降客はあまりない。やがて難波。
これはすごいね、ワシも東京の繁華街のような場所は一応行ってるが、この難波にはどれも負けるだろう。千日前通り、南海通り、宗右衛門町通り、心斎橋筋、戎橋通り。
それぞれの名前はどれも聞いたことはあるが、実はそれぞれが別の場所にあると思っていた。それが難波という場所に集中しているとは思わなかった。東京で言えば渋谷と新宿と六本木と原宿が集まったようなものだ。知らなかったなあ。
ネットで資料を見るとこの難波界隈の繁華街としての規模は新宿の3倍。日本最大だという。一日歩いても見切れないだろう。実際、ワシがちょっと歩いたぐらいではどこをどう歩いたか全然わからず、どこがどうつながっているかもわからなかった。おそるべし関西人。
かに道楽の看板、くいだおれの人形、ふぐの看板。売らんかなの気持ちがあふれている。

