山の声を聴け -14ページ目

「さ~けは、の~むなよ……」

 30年以上前に読んだ雑誌に、『歴史と人物』だったかどうかはっきりしないのだが、現在歌われている黒田節の歌詞に一カ所だけ間違いがあることを指摘する記事が掲載されていた。著者の名前は忘れてしまったけれど、たしか女性で、このまま黒田節が間違って歌われつづけることを懸念しての投稿だったと思う。記事の中身は具体的にはまったく覚えていないが、覚えているのは、歌詞の間違いの部分とその理由だ。
 「酒は飲め飲め 飲むならば……」は誰でも知っている黒田節の歌いはじめである。この「飲め飲め」が間違いだという。広辞苑にも「酒は飲め飲め飲むならば…」が黒田節の元歌とある。だがそれは間違いで、正しくは「飲むなよ」だというのである。
 歌詞のつづきを見よう。
「酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を
飲みとるほどに 飲むならば これぞまことの黒田武士」
 これが第一連。「この槍」をめぐるエピソードがよく知られている。
 筑前福岡の黒田長政に仕える母里太兵衛(もりたへえ)という武将があった。剛勇で知られ、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いではたぐいまれな戦功をあげた。大酒豪としてもその名をはせていた。
 あるとき長政は、安芸広島の福島正則のもとに使者として太兵衛を遣わした。その際、太兵衛に禁酒を厳命する。
 太兵衛が正則の屋敷に到着したとき、酒宴が催されていた。正則は、酒豪をもって知られる太兵衛に酒を勧める。正則自身も酒豪なのである。太兵衛は主君の厳命を守ってかたくなに拒否した。執拗に勧めても拒みつづける太兵衛に、正則は「この大盃の酒を飲み干せば、どんな褒美でもやる」とさそう。また「口を割ってでも飲ませてやる」とおどしたりもする。それでも峻拒する太兵衛に業を煮やし、「黒田は腰抜け武士ばかりで、弱虫藩だ」と侮蔑的な言葉をはいた。その言葉に憤激した太兵衛は、あえて主君の命にそむくのである。大盃になみなみとそそがれた酒を一気に飲み干すと、正則に名槍「日本号」を要求する。それは秀吉から拝領された槍であったが、正則はしぶしぶ太兵衛に褒美として与えた。
 この逸話から歌詞を考えると、やはり「飲め飲め」ではなく、主君長政の厳命である「飲むなよ」のほうが正しいように思う。正則に「飲め飲め」と勧められ、太兵衛はそれに断り切れなくて大盃を干したわけではない。「飲むな」という主君の命を守りつづけ、侮辱の言葉に堪えられずやむなく酒を飲んだ。ただ飲んだだけではなく、名槍を飲みとるほどに飲んだわけだ。それが黒田武士の男気、まことの黒田武士だと、うたっているのである。
 はっきり覚えていないのだが、その女性は父親か祖父に、正しくは「飲むなよ」だということを教えられていたのではないかと思う。彼女の危惧どおり、いまは「飲め飲め」が定着し、「酒は飲むなよ……」と歌う人はいない。

老人虐待 その2

 厚労省の全国調査によると、2007年度の高齢者虐待は1万3千あまりだそうである。この数字は氷山の一角だろう。加害者は介護していた家族である。そのうち命を落とした高齢者は27人である。
 加害者の4割が息子で、夫、娘とつづく。未婚の子が同居して親を介護する介護するという場合の被害がもっとも多いという。息子で未婚というのは、俺にぴったりあてはまる。
 自分に引きよせて虐待というものを考えてみると、いま介護しているお袋を虐待したことはないが、介護による疲労や精神的なストレスなどが重なれば、俺が加害者になることだってありうる。先が見えない介護は、精神的に追い詰められ、疲労やストレスがたまってくるものだ。
 俺の場合、疲労はけっこうたまるが、ストレスはない。毎朝5時すぎから介護の一日が始まる。食事、口腔ケア、ストレッチ、体位交換、オムツ替え、一日一回の離床……、寝るのは11時すぎ、夜中に一度起きてオムツと体位交換をしなければならない。介護の具体は「芥川だより」の介護日誌に書いたので、ここではふれないが、なかなかたいへんなのだ。
 虐待にいたるのは、家族といっても人間関係にもよるだろうし、被介護者の性格もあるだろう。たとえば俺の場合、介護するのがお袋ではなくあの粗暴なオヤジだったならば、まちがいなく加害者になっていただろうと思う。暴力はふるわずとも、暴言は吐いただろうし、手抜き介護をしたにちがいない。じっさい介護施設では、利用者から暴力、暴言、セクハラを受ける介護労働者は30%にのぼるのだ。俺のオヤジがいい例で、施設でも病院でも暴力、暴言をくり返した。そんなクソジジー、一発くらわしたれ、と俺なんか思うね。
 深刻なのは、介護者が思い詰め、追い詰められるように虐待にいたってしまうことだ。さらに、介護放棄して死にいたらしめたり、首を絞めて殺し自らも生を絶ってしまうことだ。こういう痛ましい事態を防ぐにはどうすればいいのか。抜本的な解決策なんてないが、まず介護者を孤立させないこと。一対一の介護で家に籠もりがちになるので、風通しをよくする必要がある。そのためには隣近所、親戚縁者などの理解と協力が不可欠だろう。そういうコミュニティの協力、さらに介護施設や医療機関なども関わって取り組んでいかなければならないと思うねえ。
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これが問題の携帯電話の基地タワーだ。右の建物が小学校の校舎。

日本人に流れていた人情

 ペリー艦隊が浦賀沖にあらわれて、徳川二百年の静寂を破るのは1853年。翌54年にペリーは再度来航して和親条約を結ぶことになる。
 幕府は、通商以外の石炭・食糧の供給、難破船の救助の要求は認めた。アメリカの要求は、捕鯨船の補給港と避難港の確保が主たる目的だった。この時代、アメリカは油だけのためにクジラを捕りまくっていたのである。
 アメリカにつづいて、幕府は同じ年にイギリス、ロシア、翌年にはオランダと和親条約を結ぶ。オランダは友好的な態度で、条約締結までに時間がかかったが、アメリカの交渉のやり方は、軍艦を従えて強力な軍事力を見せつけるという、きわめて威圧的な態度であった。
 アメリカ艦隊の来港が日本を震撼させた53、54年は、大地震に日本が揺さぶられる年でもあった。53年2月に起こった相模国大地震は小田原に甚大な被害をおよぼし、54年6月には近畿大地震が発生、11月には西日本一帯、駿河、遠江、伊豆、相模一帯を大地震が襲った。そして翌55年には江戸で、七千を超える犠牲者を出した安政大地震が起こる。マグニチュード8ともいわれるが、いまこんな地震が起こったら、このときとくらべられないほど甚大な被害にみまわれるだろう。
 54年11月の地震は大津波を発生させ、この津波によって下田町は壊滅状態となった。津波は下田湾に停泊中だったプチャーチンのロシア軍艦ディアナ号も襲う。船底が大破するなど、大きなダメージを受けて沈没してしまう。
 冷たい海に投げ出された水兵たちは、溺死あるいは凍死の危機に瀕した。このとき、このおよそ500人のロシア兵を助けたのは、駿河湾北岸の村人たちであった。早朝から村人男女が千人ほど押しかけてきて、冷えきって震えているロシア人に、自分の上着を脱いで与えたり、食べ物を提供した。ロシア人には信じられぬほどの出来事であった。感激したディアナ号のマホフ司祭は「善良な、まことに善良な、博愛にみちた民衆よ! この善男善女に永遠に幸せあれ」と手記にしるしている。
 村人たち自身も大きな被害を受けていたのだ。家は壊れ、死傷者もでていた。そんな状況にもかかわらず、瀕死のロシア人たちに救いの手をさしのべたのである。図体が大きく目の色や髪の色が違うロシア人は、当時の日本人は見たこともなかったであろうし、近寄りがたい人間に見えただろうと思うのだが、この時代の日本人にはこんなあつい人情があふれていた。
 ロシア船沈没を聞いて、開国拒否の主戦論者である幕閣の最高顧問徳川斉昭は、これは好機だ、ロシア人を一カ所に集めて皆殺しにせよ、と進言した。さすがに老中首座の阿部政弘も同意するわけもなく、斉昭をたしなめた。こんな日本人もいる。

 日露戦争のとき、ロシア側から多くの捕虜がでるんだが、日本人は彼らを厚遇した。もちろん、昭和の十五年戦争に広く見られた捕虜虐待や強制労働はない。当然、戦地では殺し殺されるという血なまぐさい闘いが繰り広げられるのだが、一度捕虜となったロシア兵にたいして、礼儀正しく人間的に取り扱ったのである。そんな実例が長谷川伸の『日本捕虜志』の中で語られている。そんな義理人情にあふれた日本人が、昭和の戦争になると、なぜあれほど残虐になってしまうのだろうか。

ウクライナのティモシェンコ、グルジアのブルジャナゼ

 最近のユーシェンコの顔を新聞で見て、ウクライナのオレンジ革命のとき一服盛られて溶岩のようなひどい顔になっていたが、だいぶよくなったようだ。当時はもっぱらロシアの陰謀説が新聞をにぎわせていた。でっち上げだと暴露した側近もいたが、体内から多量のダイオキシンが検出されているわけだから、やはり一服盛られたんじゃないかね。
 そのユーシェンコと対立しているティモシェンコは、三つ編みにした髪を頭に巻いて、かわい子ぶって笑顔を振りまいている。歳は47、たしかに美人だ。ウィキペディアによると、髪はもともと黒毛で金髪に染めているらしい。「ガスの女王」といわれ、ロシアからのガス輸入で財をなしたという。
 そのティモシェンコが、ユーシェンコとオレンジ革命のとき共に闘い、親欧米派の連立政権を組んでいたが、離脱した。次期大統領選に向けて、ユーシェンコと権力闘争を強め、グルジア紛争を機に対立が一気に先鋭化したようだ。
 ユーシェンコはグルジアのサーカシビリ大統領を支持、連帯しようと動き、反ロだったティモシェンコは親ロに傾いている。モスクワを訪問してメドベージェフとプーチンに会ったティモシェンコは、ロシアのグルジア軍事介入を非難するわけでもなく、プーチンからグルジアへの武器密輸疑惑をただされると、「武器輸出は大統領の専権事項」とユーシェンコが関与しているようなことをいっていた。その記事を読んだとき、かわいらしく笑顔を振りまくこのおばちゃんの腹はそうとう黒いんじゃないかと思ったね。
 グルジアでは、暫定大統領や国会議長を務めたブルジャナゼという女性の政治家が、南オセチアを軍事攻撃してロシアとの紛争のきっかけをつくったサーカシビリ大統領の責任を追及し、辞任を求めた。彼女は、新党を立ちあげてサーカシビリと対決する姿勢も示している。
 彼女もまた、バラ革命のときサーカシビリと共に闘い、シュワルナゼ政権をたおし、親欧米派のサーカシビリ政権をたちあげた指導者だ。だが、次第に外交政策の違いから大統領との対立を強め、ロシアとの紛争によって決定的となる。このへんまではウクライナのティモシェンコと似ているが、ブルナジャゼは親ロシアには傾かない。
 ロシアとの関係改善のためには、まず南オセチアとアブハジアの独立承認の撤回が必要であり、正常な関係を構築するには対話を優先しなければならない、といっている。グルジア国内では、ブルジャナゼの大統領就任を待望する声が強まっているという。
 グルジアではこの44歳の女性大統領が、ウクライナではブリッ子美人大統領が登場すれば、あのへんでキナ臭くなっている欧米対ロシアという対立構造が少しは緩和されるかねえ。

携帯電話の中継タワー

 いま住んでいるところは、建物よりも田畑のしめる面積のほうがはるかに広いのだが、そんな環境にそぐわない、ひときわ目立つ建造物がある。携帯電話の中継タワーだ。問題は、それが小学校の真横にあるということだ。
 10年前に荻野晃也さんのレポートを聞いて、電磁波(場)の危険性を知った。90年代に入って日本でも社会的な関心が少し高まっていたが、いまは関心はほとんどないくらいに薄まっているように思える。90年代中頃に「電磁波は人体に影響ない」と新聞に報道され、それが宣伝されてしまったことがあるようだ。
 電磁波問題がアメリカで話題になりはじめたきっかけは、1989年7月11日付けのニューヨークタイムスの特集記事である。その翌年、環境保護庁から「電磁場と癌」という報告書原案が出されたが、発表前につぶされ、政治的大論争を巻き起こした。エディ・マーフィ主演の映画「ホワイトハウス狂騒曲」の背景になった報告書だ。その後、電気毛布などの電気製品と電磁波の関係が話題となり、感心が広がっていく。
 電磁波は生体に深刻な影響を与えているのか、いないのか、という問題は、学者の間でもわかれるところで、たとえば脳腫瘍や癌との因果関係があるとはっきり証明されているわけではない。自然界にも電磁波はあるが、携帯電話や基地タワーから漏洩される電磁波は自然強度の100万倍というのだから、人体にまったく影響がないとはいえないだろう。それが無視していい程度の影響なのか、深刻な問題なのか、ということだ。
 いまや電気なし、携帯電話なしでは生活できない。欧米では、電磁波問題を環境問題として考え、「危険性が確立したわけではないが、悪影響の可能性がある以上、規制すべきだ」という「慎重なる回避」の政策を進めている。
 たとえば、電磁波が規制値を超える場所には家の建築はできないとか、学校や病院などの公共施設から1200フィート以内には送電線や携帯タワーを建設しないという政策である。日本は逆で、住宅街では多くの住民の許可が必要なので、公共施設に近いところに送電線や携帯タワーをつくっていると荻野さんは指摘する。俺はその実例を目の当たりにしているわけだ。