山の声を聴け -24ページ目
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大正を生きた女たち1

 「芥川だより」の介護日誌で、松井須磨子について書いてきたが、次号で須磨子は死を迎える。
 須磨子が信州の須坂にいっとき暮らしていたことについては、戸板康二の評伝にも長谷川時雨のエッセイにも触れられていなかった。最初の結婚に破れて東京に戻ったあたりから、女優になるまでの数年間はどのように身を処していたのか不明であった。それを明らかにしたのは大塚利男さんという信州人である。須坂や坂城町に足を運んで丹念に調べ、二度目の結婚相手の前沢誠助と須磨子について調査したことを自費出版のようなかたちで発表している。
 大正を生きた女性たちには、須磨子のほかにも恋に生き烈しい人生を送った女が何人かいる。
 鉄幹を独り占めした与謝野晶子は一ダースもの子をもうけた。その子たちを育てるだけでもたいへんなエネルギーを費やすだろうと思うが、そのうえあれだけの歌や著作、源氏物語の現代語訳を残しているわけであるから、なんとも豪傑だ。しかも源氏物語の訳稿一万枚近くが震災で一度焼失しているのである。
 そんな豪傑、晶子はまた恋をする。41歳で12人目の子を産んだ翌年、鉄幹から心が離れ、有島武郎に思いを寄せるようになるのだ。ラヴレターを綿々と書いて送っている。ところが、鉄幹に引き戻されてしまい、赤倉山の上林温泉に連れていかれ、晶子はそこで、泣く泣く恋を断つのである。
 晶子はこんなことをいっている。「人間は心が移動するのが常態で移動しないのは病的である。……若くして心うつろわぬものは痴呆にひとしい、年老いて心うつろわぬものは老衰の兆候である。花やさまざまなものがうつろうのと同じように、人間の心にも常に気持のうつろいがある。それを『愛の創作』によってたて直すこと、これが結婚ではないか」。どのような愛の創作によって、晶子は鉄幹との間を立て直したのでしょうかね。
 それから2年後の大正12年7月、有島武郎は『婦人公論』の記者、波多野秋子と心中するのである。有島45、明子30であった。有島と通じていたことを知った晶子の夫春房は、有島に大金を要求して脅していたという疑惑もある。有島は妻を失っており、三人の子育てをして女たちを退けていたという。その有島が45で恋に落ち、秋子と永遠に結ばれんと心中の道を選んだ。遺書に「私たちはもっとも自由に歓喜して死を迎える」と書かれていた。                               つづくー

今日の出来事

 甘粕正彦については一般的な知識しか持ち合わせていないが、謎めいている人物ではある。角田房子が評伝を書いているし、きょう本屋に寄ったら、佐野眞一の書いた『甘粕正彦―心の曠野』が平積みされていた。パラパラとページを繰ってみたが、買わなかった。1900円、介護生活している身には、ちと高い。
 ほんとうに甘粕自身の手で大杉たち三人を扼殺したのか、ということもはっきりしていないし、満州での暗躍も闇の中だ。ただ、大杉事件後に除隊はしているが、戦前の日本を太平洋戦争へと引っぱっていった軍事テクノクラートの一人であったのだろう。敗戦と同時に自決している。映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が甘粕を演じているそうだが、観ていないのでなんともいえない。
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 月に10日ほど、お袋は施設にショートステイする。施設では、20代から30代と思われる介護士や看護婦たちが面倒を見てくれる。男も女も動きやすいジャージーをはき、タオルを首に巻いて、せわしなく働いている。そんな姿を見ていると、これも3Kといわれる仕事の一つなのであろうと思いながら、こんな俺の頭でもよかったら二回も三回も下げたくなる。働く姿は男も女もない。
 夕方、スーパーで買い物をしているとき、施設の看護婦を見かけた。高いハイヒールを履き、着飾っている。きれいに化粧もしている。「ああ、なかなか色っぽいじゃないか」と施設の彼女とはまったく異なる姿を見て、少し見とれた。しばらくして、彼女は俺に気づいて、というか、気づいていないようなふりをして、背を向けて俺から遠ざかった。やはり恥ずかしいのだろう。俺は足早に、彼女と顔を合わさないようにスーパーを出た。
 これからも、施設で顔を合わせ、ふつうに会話をするだろうが、スーパーで見かけたなどということを話題にするつもりはない。

辻まこと

 70年代、学生時代の大半を山登りに没頭していたものにとって、山岳雑誌『岳人』の表紙絵はなじみ深い。詩人でもあり画家でもある辻まことの描くその絵は、ユーモラスで物語性がある。男たちは黙々として静かだが、ずっしりした存在感がある。岩陰で用を足している男が男が目立たないように描かれていたりもする。
 辻は戦前から50年代、60年代に一人でこつこつと山に入っている。大学山岳部は、未踏峰を目ざせとヒマラヤ、アンデスに血道を上げ、社会人山岳団体は谷川岳やヨーロッパ・アルプスの難壁を憑かれたように登攀した時代に、日本の山に入って、峡谷をさぐったり、スキーを楽しんだり、絵を描きながら山を味わっている。大島亮吉のいう静観的登山といったところか。山岳史に残るような記録的登山とは無縁だが、ガツガツと山を登った俺たちよりははるかに豊かに山を味わいつくしているように思われる。
 「快適で清冽な環境で、きびしい生活条件というのは、人に活気をあたえ、無駄をはぶくものだ。不自由な自分が自由に闘うのはいい気持だ。/汚れたマスクに化粧しているような世間で、自由な自分が不自由に闘っている不快感を自覚するには、この酷烈な二月の山の上ほど信頼できる場所はない」。ジーンとくるではないか。
 「――オイどこへいくんだ。――足に聴いてくれ。
 これはなんといっても賢者の返事だ。
 ――なぜ山へ登るか。――足があるからだ。
 とても哲学的だ」(「諸君! 足を尊敬し給え」)
 辻まことは、ダダイスト辻潤と『青鞜』の伊藤野枝の長男として、大正2年(1913)に生をうける。三歳の時、母野枝は生まれたての流二を抱いて、アナーキスト大杉栄のもとに走る。まことは父のもとに留まるが、夏休みには大杉家で居候するのが例年の習慣だったという。そして関東大震災の直後、事件が起こる。大正12年9月16日、まこと10歳の時である。
 大杉と野枝が甥の宗一を連れて、自宅近くの果物屋に立ち寄っていたとき、憲兵隊の甘粕正彦大尉によって麹町の本部に連れていかれ、激しい暴行を加えられ、古井戸に投げ捨てられるのである。宗一は6歳であった。まことは、殺されたその宗一と長いあいだ間違えられていたらしい。
 まこと自身は事件に無関心である。「オヤジもオフクロも小生の食客生活の一部分に時折り点景として、散見する登場人物の一人一人であるという以上には、何の感想もない」という。だが、まことはオヤジ辻潤の生き方にたいする一番の理解者だったようだ。
 1975年に62歳で亡くなるまで『岳人』の表紙絵は描きつづけた。
 

カーちゃんを冷やせ!

信州も梅雨があけた。クーラーにスイッチを入れたのは3日前、温度は30度を超え、湿度も70パーセントを超えた熱帯夜だ。
 30度近くなると、寝たきりのカーちゃんの体温も上昇してくる。そういうときは背中、両脇、股に保冷パックをタオルに巻いてあてなければならない。暑い寒いの反応はないが、赤らむ顔を見ると、もしかして「冷やしてー」と胸の中で叫んでいるのかなと思う。
        …………………………………
 5月から山歩きを再開した。20数年ぶりだが、思ったほど体力は衰えていないな、と少しばかり自信がわいた。7月は、滋賀県の坂本から比叡山に登って、横高山、水井山を縦走し、大原の戸寺に下りて、それから江文峠を越えて静原を通りすぎ、薬王坂を越えて鞍馬に出た。およそ20キロほど。バテたが、鞍馬のビールは格別だ。
 1970年代前半の『岳人』の表紙絵を描いていた辻まことは、囲みの小文も毎月寄せている。その文章はなかなか味がある。辻まことについては明日にします。
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