大正を生きた女たち1
「芥川だより」の介護日誌で、松井須磨子について書いてきたが、次号で須磨子は死を迎える。
須磨子が信州の須坂にいっとき暮らしていたことについては、戸板康二の評伝にも長谷川時雨のエッセイにも触れられていなかった。最初の結婚に破れて東京に戻ったあたりから、女優になるまでの数年間はどのように身を処していたのか不明であった。それを明らかにしたのは大塚利男さんという信州人である。須坂や坂城町に足を運んで丹念に調べ、二度目の結婚相手の前沢誠助と須磨子について調査したことを自費出版のようなかたちで発表している。
大正を生きた女性たちには、須磨子のほかにも恋に生き烈しい人生を送った女が何人かいる。
鉄幹を独り占めした与謝野晶子は一ダースもの子をもうけた。その子たちを育てるだけでもたいへんなエネルギーを費やすだろうと思うが、そのうえあれだけの歌や著作、源氏物語の現代語訳を残しているわけであるから、なんとも豪傑だ。しかも源氏物語の訳稿一万枚近くが震災で一度焼失しているのである。
そんな豪傑、晶子はまた恋をする。41歳で12人目の子を産んだ翌年、鉄幹から心が離れ、有島武郎に思いを寄せるようになるのだ。ラヴレターを綿々と書いて送っている。ところが、鉄幹に引き戻されてしまい、赤倉山の上林温泉に連れていかれ、晶子はそこで、泣く泣く恋を断つのである。
晶子はこんなことをいっている。「人間は心が移動するのが常態で移動しないのは病的である。……若くして心うつろわぬものは痴呆にひとしい、年老いて心うつろわぬものは老衰の兆候である。花やさまざまなものがうつろうのと同じように、人間の心にも常に気持のうつろいがある。それを『愛の創作』によってたて直すこと、これが結婚ではないか」。どのような愛の創作によって、晶子は鉄幹との間を立て直したのでしょうかね。
それから2年後の大正12年7月、有島武郎は『婦人公論』の記者、波多野秋子と心中するのである。有島45、明子30であった。有島と通じていたことを知った晶子の夫春房は、有島に大金を要求して脅していたという疑惑もある。有島は妻を失っており、三人の子育てをして女たちを退けていたという。その有島が45で恋に落ち、秋子と永遠に結ばれんと心中の道を選んだ。遺書に「私たちはもっとも自由に歓喜して死を迎える」と書かれていた。 つづくー
須磨子が信州の須坂にいっとき暮らしていたことについては、戸板康二の評伝にも長谷川時雨のエッセイにも触れられていなかった。最初の結婚に破れて東京に戻ったあたりから、女優になるまでの数年間はどのように身を処していたのか不明であった。それを明らかにしたのは大塚利男さんという信州人である。須坂や坂城町に足を運んで丹念に調べ、二度目の結婚相手の前沢誠助と須磨子について調査したことを自費出版のようなかたちで発表している。
大正を生きた女性たちには、須磨子のほかにも恋に生き烈しい人生を送った女が何人かいる。
鉄幹を独り占めした与謝野晶子は一ダースもの子をもうけた。その子たちを育てるだけでもたいへんなエネルギーを費やすだろうと思うが、そのうえあれだけの歌や著作、源氏物語の現代語訳を残しているわけであるから、なんとも豪傑だ。しかも源氏物語の訳稿一万枚近くが震災で一度焼失しているのである。
そんな豪傑、晶子はまた恋をする。41歳で12人目の子を産んだ翌年、鉄幹から心が離れ、有島武郎に思いを寄せるようになるのだ。ラヴレターを綿々と書いて送っている。ところが、鉄幹に引き戻されてしまい、赤倉山の上林温泉に連れていかれ、晶子はそこで、泣く泣く恋を断つのである。
晶子はこんなことをいっている。「人間は心が移動するのが常態で移動しないのは病的である。……若くして心うつろわぬものは痴呆にひとしい、年老いて心うつろわぬものは老衰の兆候である。花やさまざまなものがうつろうのと同じように、人間の心にも常に気持のうつろいがある。それを『愛の創作』によってたて直すこと、これが結婚ではないか」。どのような愛の創作によって、晶子は鉄幹との間を立て直したのでしょうかね。
それから2年後の大正12年7月、有島武郎は『婦人公論』の記者、波多野秋子と心中するのである。有島45、明子30であった。有島と通じていたことを知った晶子の夫春房は、有島に大金を要求して脅していたという疑惑もある。有島は妻を失っており、三人の子育てをして女たちを退けていたという。その有島が45で恋に落ち、秋子と永遠に結ばれんと心中の道を選んだ。遺書に「私たちはもっとも自由に歓喜して死を迎える」と書かれていた。 つづくー