山の声を聴け
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比喩

憲法殺害

 憲法は99条で、統治権力の担当者にたいして憲法の尊重と擁護を義務づけている。天皇はじめ、国会議員、裁判官、官僚、役人にいたるまで、権力を行使する側の人びとには憲法尊重擁護の義務がある。およそ近代憲法とは、制定権者である国民から権力にたいする命令書であり、権力を抑え込んで国民の人権をまもる法である。憲法を守る義務負っているのは国民ではなく権力である。これが立憲主義というものだ。
 ところが、この国のケイハク総理はじめそのお仲間たちは、憲法を尊重擁護するどころか、軽んじ蔑視してはばからない。あのチンピラ右翼にいたっては破棄だといっているが、ならば、まず国会議員を辞職してからいえといいたい。その地位に法的根拠を与えているのは現行憲法なんだから。
 昨年の参院選の前に記者クラブで行われた党首討論で、安倍はケイハクぶりを発揮して、アホな発言をしていた。
(書きかけ)

少し寂しい



 やってきた当日は警戒していた二匹も、翌日には抱きあげられても嫌がらないくらいに慣れた。三日目には、居心地がいいのか、俺の膝の上にのりたがる。二匹を抱きかかえると、俺の腕にあごをのせて、ひとつため息をつき、まどろみはじめる。ここまで慣れてくると、かえって、うっとうしい。かといって、気持ちよさそうに薄目を開けて半寝している彼らを荒っぽく扱うこともできない。しばらくして玄関のほうでカタッと音がした。二匹は瞬時に床に飛び降り、玄関で吠えたてる。吠えながら家中を駆け回る。縁側に行くと、外に散歩中の犬を見つけたのか、いっそう激しく吠えまくっている。これで開放されたと思ったのもつかの間、吠えあきた二匹がもどってきて、膝の上に上げろと、前足でひっかく。あきらめない。ったく、しょーがねえなあ、とまた抱きあげる。飼い主が取りにくる日が待ち遠しい。あと二日。
 買い物に出て、三〇分ほどでもどると、短い尾を小刻みに振りながら二匹が飛びついてくる。顔をなめたり、かじったり、ひっかたり、とたいへんな歓迎ぶりである。いまだかつて、これほどの歓迎を受けたことがない。人間にも犬にも。
 五年ほど前、飼っていた犬が死んだ。お袋がひろってきた小型犬だった。曇った冬の日、川縁の土管の中でその犬は震えていた。飼われているというより、置いてあるといった感じだ。お袋が近寄って手をさしだすと、尾を振りながらお袋の指を、口に含むように二、三回なめた。その仕草が何ともいえず愛らしく、こんな飼われ方をされていることに怒りを覚え、涙が出たという。土ぼこりで汚れ放題に汚れた姿で、震えながら見あげるこの犬をおいて、お袋は立ち去ることができなくなった。近くにいたおっさんに飼い主は誰かとたずねると、「オレだ」という。即座に「この犬、私にください」とおっさんをにらみつけてはっきりいうと、お袋に気おされたのか、少し間を置いて「ああ、いいよ。やるよ」と答えた。何歳なのか訊いてもはっきりしない。成犬であることはまちがいない。連れ帰って、さっそく風呂でダマになった毛を切って、解きほぐした毛を洗いあげると、見ちがえる白い犬になった。最初マルチーズだと思ったが、プードルだった。それから十二年生きた。


 プードル姉妹を飼い主が迎えに来る日だ。相変わらず、家中を走りまわり、いたるところでウンチやオシッコをして、怒っても悪びれることはない。ああ、ようやくこの日常から解放される。だけど、不思議に、この二匹が埋め込まれた日常が当たり前の営みのようにも思える。夕方、俺が出かけているあいだに飼い主は二匹を連れ帰っていた。帰ると、飛びついてくるはずの犬たちはすでにいなかった。少しばかり寂しい思いをした。ユキべえに会いたい。


 詩は感性のレベルの交信である。詩は、言葉の意味や語感、行分けのリズム、余白など、さまざまな要素から形づくられている一枚の絵ともいわれる。俺が共感する詩をひとつ。会田綱雄の「伝説」という詩。


湖から
蟹(かに)が這いあがってくると
わたくしたちはそれを繩(なわ)にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ


蟹を食うひともあるのだ


繩につるされ
毛の生えた十本の脚で
空(くう)を掻(か)きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる


ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯(ひ)をともさぬ


くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしちのために
熱いお粥(かゆ)をたいてくれたのだつた


わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそつたちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように


それはわたくしたちのねがいである


こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖に上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう

他愛ないことで

 三日ほど前に、十日間のショートステイを終えた植物状態のお袋が自宅にもどった。もどる当日は少し気が重く、連れ帰ったその日は介護の日常を取りもどすのに難儀することがある。介護生活のリズムのようなものがあって、今回はそのリズムにのるのに翌日までかかった。そして、行のような禁欲的な日々が始まる。

 逆に、ショートステイで施設にあずけたときは、解放された何とも言えない快感にひたる。その快感は、耳鳴りのようにジーンと身体の芯に響くような感じで、だいたい一晩で消える。そして、欲望を解き放つ。といって、大した欲ではない。うまいものをたらふく食うとか、酒を思い存分飲むとか、住みなれた京都に出かけるとか、それから…………

 お袋のような老人を「ただ生きているだけ」「死を待っているだけ」と思う人はいる。そういう人は、そんな生は生きるに値しないと考えているのだろう。俺も若い頃はそう考えていたような気がする。人の手を借りてまで生きたくはないと思っていた。だけど、老いるとはそういう生を生きることなんだと思うようになった。などともっともらしいことをいって納得するのはいいが、おまえ自身はどうなんだ、老いは生の指標たりうるといえるのか、と自問いしてみる。あまり自信はない。なるようになれ。




 いま、はち切れんばかりの生をほとばしらせて、家中を走りまわっている二匹がいる。四カ月と一歳になったばかりのプードルの姉妹だ。知人が五日間ほど留守をするのであずかってほしいというので、わが家にやってきた犬だ。シモのほうはいちおうしつけてあるということだったが、もよおしたところで思う存分排泄している。犬のクソくらい、お袋の万事を世話している俺としては汚いとは思わないが、思いがけないところでやってくれるのが困る。床の間の陰とかドアの隙間とか。でも、やっぱりかわいい。ユキべえに会いたくなった。




 最近ときどき読み返す詩がある。雑誌『ユリイカ』に寄せられた中村稔の詩「原発建屋の風景」。




海は凪ぎ、波がうち寄せ、うち返し、

波がうち寄せ、うち返し、永遠が海辺に停止している。

なかば屋根や壁の破れた建屋を白い風が吹きぬける。

建屋の床に散乱する瓦礫、溶解した金属類など。




建屋の奥ふかく歎息しながら呟く声が聞こえる。

――私たちがどんな辛い目に遭っているか誰も知らない。

――私たちがどんなかたちでどういう境遇か誰も知らない。

その呟きを誰も聴かない。その歎息は誰の耳にも届かない。




誰一人近づかない建屋を静寂がつつんでいる。

廃炉にするにしても誰もその手立てを知らない。

建屋はただ崩壊する時を待っている。




波がうち寄せ、うち返し、永遠が海辺に停止している。

なかば屋根や壁の破れた建屋を白い風が吹きぬける。

高濃度の放射能が四方に飛散し、飛散してやまない。

建屋は見捨てられ、地域一帯に永遠が停止している。











悪夢ふたたび(3)

 二月の日米首脳会談はどんな意味があったのだろうか。アメリカ側には歓迎されていた様子はないし、会談では安倍一人がハイテンションでペラペラとしゃべり、いっぽうのオバマはシラケているというか、冷ややかな表情であった。会談後の記者会見で安倍は「日米の絆と信頼を取り戻し、緊密な日米同盟が完全に復活した」などと胸を張って自賛する姿は、目を背けたくなるほどケイハク性が発揮されていた。
 前ノブタ政権は従米路線まっしぐらであった。オスプレイでも、普天間基地問題でも、TPPでも……。つまり民主党政権のときから、従米という意味では日米関係は良好で緊密だったということだ。安倍政権は日米関係をさらに深化させるということなのか。それが危ないのだ。会見で安倍は、防衛大綱の見直し、防衛費の増額、集団的自衛権行使の容認などの方針を示して、米軍と一体になって安全保障政策を行うことをアピールした。とりわけ集団的自衛権行使の容認というのが危ない。安倍は何としても日本を戦争のできる国にしたいらしい。
 集団的自衛権について歴代の政府は、「国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権を行使することはその範囲を超えるものであって、憲法上許されない」と解釈してきた。
 この当たり前の見解について、「権利があるのに行使できないとは、わけがわからん」というバカな政治家が少なからずいる。「役人の書いたもんはわけわからん」といったのは大阪市長の橋下だ。武力行使を放棄した憲法9条のどこをどうおしたら、集団的自衛権の行使が可能だという解釈ができるのか。わけわからんというヤツのほうがわけわからん。
 集団的自衛権という概念は国連憲章にはじめて登場するが、51条に次のようにある。「この憲章のいかなる規定も、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」。つまり個別的自衛権にせよ、集団的自衛権にせよ、暫定的な措置であり、例外的位置づけなのだ。集団的自衛権というのはどうもアメリカが自国の軍事活動を正当化するためにつくりだした概念のようだ。
 自衛という名のもとにいかに多くの戦争がおこなわれ、おおくの人々が殺されてきたことか。アメリカのベトナム戦争でも、旧ソ連のチェコ侵入でも、集団的自衛権の行使と主張した。イスラエルが自衛のためといって周辺諸国を空爆した。アメリカがタリバーンの支配するアフガンを絨毯爆撃したのも自衛戦争だ。イラク戦争のときも、大量破壊兵器を保持しているから「先制的自衛権の行使だ」と説明した。
 アフガン戦争のときも、イラク戦争のときも、小泉政権はいの一番にアメリカを支持し、憲法違反濃厚の支援を実行した。日本が集団的自衛権行使を容認することになれば、間違いなくこのようなアメリカの戦争に参加することになる。そして異国の無辜の民を殺すことになる。派遣された自衛隊員が戦死することも免れないだろう。また、イギリスやスペインのように日本もテロの標的にされるだろう。
 ところで、小泉が諸手を挙げて支持し支援したイラク戦争だが、けっきょく戦争を起こす原因となった大量破壊兵器は見つからなかった。この戦争に正当性などなかったということだ。批判が高まったイギリスやオランダでは検証委員会がつくられ、オランダはイラク戦争は国際法違反と結論づけている。イギリスでは支持率を大幅に下げたブレアは早期退陣を迫られた。ポーランドは、アメ
リカにだまされたと非難している。
 ひるがえって、熱烈に支援した日本はこの戦争を検証した形跡はない。小泉批判が起こることもない。政権が変わっても、民主党はイラク戦争を振りかえることはなかった。こんな国が集団的自衛権を行使するようになれば、ただ唯々諾々にアメリカのいわれるがまま戦争に参加し、終結した後も戦争について反省や検証もなく忘れ去っていくのだろう。
 やはりこんな国に集団的自衛権行使を容認してはいけない。戦争のできる国にしてはけない。憲法は、安倍や小泉のような権力者にこそ縛りをかけておかなければならない。
 国連は、集団安全保障によって国際平和を維持しようという理念に基づく。EUのように周辺諸国が協力し合って安全保障を実現しようという考え方である。国家の主権を制限することによって国家の安全を守ろうという発想は、悲惨な戦争を繰り返してきたヨーロッパが到達した智恵かもしれない。自国を守るために強力な武器をもち、周辺諸国と対峙しようという自衛の発想とは真逆である。
 安倍には集団安全保障という発想はない。北朝鮮に対しては制裁、中国に対しては封じ込めである。
 ああ、この政権の高い支持率を見て、暗澹たる思いに沈む。
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