山の声を聴け -20ページ目

日本の農

 きのうの新聞で、農地転用許可を地方に移譲すべきか、もしくは農地確保は国が責任をもつべきなのかという、日本の農の基本に関わる問題が取りあげられていた。
 自治体に移譲すべきというのは片山虎之助だ。片山は好かんが、あの顔を思い浮かべるのもおぞましいアホ姫に負けてしまったときは同情した。もっともあの選挙結果は、強行採決を連発した安倍自民党にたいする国民のノーであったが。
 国が許可権を持つべしと主張するのは元農水官僚だ。自給率が落ち込み、世界的に食糧争奪の様相を呈する現状を考えれば、農地確保は重要性は高まる一方で、国が責任をもって農地の総面積を確保しなければならないという。もっともなことをいっているが、自給率が落ち込んだのも、耕作放棄地が増えているのも、農水行政を担っていたあんたらに責任はないのといいたい。農地を確保するのはいいが、その農の担い手がいないではないか。それに、国をとりしきっているんだという官僚意識がぷんぷんで、地方にたいする見くだしがにじんでいるね。
 ちょっと酔いがだいぶまわってきているので、ボヤキはあしたまた。

「自然」という言葉

「Nature」に「自然(しぜん)」という訳語を当てられたのは明治6年(1873)西周によるといわれているが、じっさいはさらに古く元治元年(1864)に村上英俊の『仏語明要』に名詞として「自然」の訳語が当てられていたらしい(『翻訳の思想)』柳父章)。いずれにせよ、natureという概念で「自然」という名詞が定着するには、文学の世界では高村光太郎まで待たなければならない。
 ところで、明治以前には「自然(じねん)」という言葉がある。人為的な力が加わらずおのずからそうなっているという意味で、親鸞の「自然法爾」は、自力のはからいを捨てて阿弥陀仏にすべてまかせきることである。「造化」という言葉がnatureにもっとも近いようだ。
 光太郎は、智恵子の出現によってデカダンの生活を脱し、智恵子とともに上高地に長期滞在して、山の風景を描く。そのとき清水屋でウエストンに会っている。ウエストンに、智恵子は夫人か妹かと訊かれ、「友だちだ」と答えた。このときウエストンは夫人を同伴し、奥穂や槍を登っている。女性による槍ヶ岳初登頂である。光太郎と智恵子の上高地写生旅行は、「山上の恋」と新聞に書き立てられ、まもなく婚約することになる。
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向った
 山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 …………………………
 このように、山に真っ向から向き合い、通じあい、内からわき起こる感動をうたった詩は、以前にはなかった。この「山」という詩は「道程」におさめられている。光太郎によって、山という新しい自然が出現した。
 ということを、田中清光さんの『山と詩人』に教えられています。

オロチ

 古代日本人にとって、山は生命体であり、山に重ね合わせていたイメージはオロチ、すなわち大蛇だったと町田宗鳳はいう。広辞苑によると、「をろ」は峰・岳、「ち」は「つち」「たち」の略で、神の別称である。オロチは巨大な蛇の姿をした岳神らしい。
 町田はイメージをさらに広げて、古代人は円錐形の姿をした山に、とぐろを巻いたオロチを見ていたと考える。その顕著な山として、奈良の三輪山、近江富士と呼ばれる三上山、伊吹山などをあげる。自然の山のみならず、神社の境内につくられる円錐形の盛り土も、とぐろを巻く神の姿ではないかという。
 夕方、買い物の帰り途、灰色の雲が空を覆いはじめ、急にあたりが薄暗くなりはじめた。自宅への上り道を急ぎながら裏山を見あげると、風で木々がゆさゆさと揺らめいている。山全体が生き物のようにうごめいているように見えた。頂上から派生する何本もの尾根は蛇体のようだ。山はとぐろを巻く大蛇ではなく、八つの頭と八つの身体があり、檜や杉に覆われた巨大な蛇、八岐のオロチのイメージだ。そんな恐ろしい山に入ろうなどという気は起こらない。
 その山に登ることを始めたのは修験者たちだ。山にいます神の霊力に浴するためであったり、一度死をくぐり再生するためである。
 ヨーロッパでは、山は化け物や魔女のすみかだった。桑原武夫のいうように、そういう神や化け物や魔女を山から追い出すところから、近代登山が始まる。つまり山を登るためには、山がたんなる物質になる必要があった。その役割を果たしたのは科学精神とプロテスタントだったと桑原はいうが、卓見だな。でも、日本の近代登山黎明期を担った人たちは、山をたんなる物質とは考えていない。古来からの山にたいする態度を残しているように思われる。
 裏山を見あげながら少しばかり古代人のような気分で家へ急いでいると、大粒の雨がざわざわと降りはじめた。

安楽死

 お袋が植物状態になってから、肺炎と尿路感染で二度入院した。入院したとき、二度とも担当医師から、万が一のとき延命治療を施すかどうかを訊かれた。人工呼吸器やいろいろな管を身体に装着してまで、無理に生かすようなことはしたくないので、それは断った。寿命のかぎり、それが1年だろうが、10年だろうが、命つきるまで生きればいいと思っている。だけどほんとうは、生きること自体に苦痛を感じ、早く楽になりたい、と願っているかもしれない。そうは考えないようにしているのだが。
 耐えがたい苦痛をともない、回復の見込みのない末期患者が自らの意志で安らかな死を強く望んだとき、安楽死が合法化されていない日本では、それはかなえられない。
 オランダ、ベルギーでは安楽死が合法化され、定着はじめているようである。とはいえ、安楽死にたいしてカトリックは批判的であるし、自殺を幇助することになるので、倫理的理由で躊躇する医師もいるらしい。
 当然のことながら安楽死を対象とする人は限られている。治療不可能の病気に苦しみ、耐えがたい苦痛のある成年で、自発的かつ熟慮のすえに、安楽死の要求をくり返している末期患者が対象である。最近では、さらに未成年者、認知障害の患者まで広げようという議論もされているようだ。
 安楽死は尊厳ある死と考えられている。オランダやベルギーでは、自らの臨終を選択する人々が着実に増えている。日本でも近い将来、安楽死は個人の権利として憲法上においても認められるのかどうか、という議論がわき起こってくるでしょう。
 俺は、個人の生き方を自分で決める自己決定権として、基本的には安楽死は認めてもいいと思う。さまざまなことが考えられるので、前提条件が重なってくるだろうが。

天安門事件を思い出す

 昨夜一杯やりながら、途中まで読んでそのままにしておいた「時の滲む朝」を読み終えた。八十年代終わり中国で吹き荒れた民主化運動に身を投じた浩遠と志強という二人の若者が主人公で、運動に関わった人々のその後をからめながら二人の挫折と友情を描いている。どうも話の展開はいいのだが、たとえば運動のマドンナような存在で、物語の最後には主人公の尊敬する指導者甘先生と結ばれる白英露という女性が、どういう人間かわからない。重要な登場人物だと思うんだが。心身をふるわせるような激しいエロスの噴出があってもいいはずなのに、全篇どこにもない。また、政府は軍をつかってまで弾圧しようとした運動とは何だったのか、どういう意味があったのかということも書いてほしいねえ。そうなると、短編では無理なのか。
 俺は、冷戦末期に中国で起こったこの民主化運動にシンパシーをもったが、「自由の女神」もどきの「民主の女神」像を見たときはしらけてしまった。
 あのとき、北京には戒厳令がしかれ緊迫の度合いが一気に高まっていた。軍の動向に世界の注目が集まっていたのだ。天安門広場に向けて占拠を拡大していく過程で、市民が犠牲になっていた。戦車の前に立ちはだかる若者、市民が装甲車を焼いている場面もあった。
 そもそも軍というものは市民を守るためにあるものではなく、国土や国の体制、中国でいえば共産党一党支配の体制を守るためにある。そのためには国民を犠牲にすることもあれば、国民に銃を向けることもありうる。民主化運動にたして軍を出動させたということは、市民や学生の犠牲はある程度やむなしという見積もりが政府にはあったはずだ。人権に重きをおいていない国である。
 けっきょく軍によって鎮圧されるのである。そのときの死者数は軍と市民双方あわせて300人あまりと当局は発表したが、西側メディアはまったくその数字を信用しなかった。俺もウソだと思っていた。天安門広場では相当数の学生たちが虐殺されていると思ったからだ。
 天安門には外国メディアが排除され、軍が行った実態はなかなか伝わってこなかった。ところが、多くの学生たちが射殺されている、解放軍が死体をトラックで運んでいる、学生たちが寝ているテントを戦車で踏みつぶしている、ガソリンをかけて死体を焼いているといった情報がマスコミに流れはじめるのである。発信源は運動を主導した学生だ。
 このとき天安門広場に入ったメディアがあった。スペインの国営放送である。その映像をNHKが入手し、特集番組を組んだ。それを見たとき、天安門広場で虐殺なんて起きていないじゃないか、死者二千とか三千というのはデマなのか、と驚いた。その後、広場にいた人たちの証言やABCのビデオ検証などによって、天安門広場においては学生指導者が主張するような大量虐殺はなかったということが判明している。