山の声を聴け -19ページ目

ああ、介護日誌

「芥川だより」に介護日誌を連載しているのだが、書きはじめて5回ほどで書くネタが尽きてしまい、お袋のプライバシーまで書いてしまった。ここ半年ほどは、介護と関係のない松井須磨子の女優人生について書いた。さあ、次から何を書こうかと思い悩んでいる。終わりにしてもいいのだが、こんな俺の書きつづった他愛のないものを熱心に読んで、つづきを心待ちにしている人がいるのにはまいってしまう。きのう電話で「つづきはどうなっているの? はやく書いて送りなさい」と、九州の70近いおばさんがプレッシャーをかけてきた。
―――――――――――――――――――
 ほとんどテレビを見ないので、オリンピックの結果は新聞で見るだけだ。オリンピックの記事に圧されるように、民主党の代表選とか、インド洋の給油継続問題とか、グルジア紛争とか、ダライ・ラマのフランス訪問の記事が、紙面の端にある。そのなかで、ロシアっていうのは旧ソ連の時代に逆戻りしているように見えるね。豊富な地下資源を背景に軍備を増強して周辺国を威圧している。このあいだモスクワでやっていた軍事パレード見たときは、プーチンってーのは金正日と同じじゃねーかと思った。テロだけじゃないね、きな臭いのは。

辻まこと全集……

 ……がみすず書房から出版されている。ものすごくほしい。古書でも揃えで3万以上する。かなり高い。んー、買おうか、買うまいか……、迷っている。辻まことの書いた詩にせよ、散文にせよ、画文にせよ、むちゃくちゃいいんだ。辻まことにはまってしまった。どうしよう、んーーーーーー

木暮理太郎の夢

 日本の近代登山は明治の後半に始まる。日本山岳会を創立した小島烏水はじめ草創期の群像の中で、アルピニズムの洗礼を受けずに登山に目ざめたパイオニアがいる。木暮理太郎である。パートナー田部重治とともに北アルプスに長大な縦走を行った。
 昭和初期、日本の岳人はヒマラヤの未踏峰へ目を向け始めるが、そのころ中央アジアにもっとも造詣が深かったのは木暮理太郎であろう。理太郎はヨーロッパ・アルプスには興味を示さない。この明治のパイオニアは早くからヒマラヤに惹かれ、若いときヒマラヤ登山をもくろんだ。
 子どものころ寺の和尚から、お釈迦さまの雪山における苦行の話を聞かされていた。その雪山というのがどんな山なのかよくわからない。中学生のときに志賀重昴の講演でインドの話を聴いて、漠然とヒマラヤという概念が得られた。その後「ヒマラヤの山海を抜くこと二千九百丈、峯頭の雪汁は流れてインダス、ガンジスの両大河となり」という志賀の名文を読んで、ヒマラヤ熱が昂じるのである。手当たり次第に地理書や探検紀行を耽読するうちに、南米やアフリカにも興味が広がる。探検熱はいよいよたかまり、三大案を立てて、それを実行することを決心する。
 第一は、ヒマラヤに登ること。第二は、アンデスの山頂からアマゾン河に沿うて下ること。第三は、アフリカのジャングルを横断すること。
 世界の未踏の地へ夢をはせ、ロマンチシズムに胸を焦がしていたのだろう。その夢が実を結ぶことはなかった。
 いまは未踏の地とか未踏峰に憧れるという時代ではないが、俺の学生時代はまだまだ魅力的な未踏峰がヒマラヤやカラコルムには残されていて、理太郎のような夢を抱いたものだ。理太郎の時代から見れば、まあ、残りカスのようなものだったかもしれないが、何となく理太郎気分に浸っていた。はたから見れば、アホかってなもんだろうなあ。もうそんなアホな、でも懸命に追いかけた夢に酔う時代も、とうの昔、20年前に終わった。

雨の山行

 きのう白馬大雪渓で土砂崩れが起こり、犠牲者が出た。激しい雨が地盤をゆるめ、崩落を引きおこしたのだろう。この雪渓では数年前も同じような事故があった。
 学生時代、雨に痛めつけられた山行きが印象深く胸に焼きついている。剱岳から五色ヶ原、黒部湖を渡って針木岳に登り、裏銀座を経由して笠ヶ岳まで縦走するという計画である。福永という後輩と二人だった。黒部湖を横断して、針木岳を目ざして登っているとき、雨で登山道が崩壊していて、先に進めなくなった。強引に進もうとして怪我をして下りてくる登山者もいた。進めないからといって、計画を断念して引き返えすわけにはいかない。あくまで裏銀座から笠をめざすという、自分のつくった計画にこだわり、地図をにらみながらルートを探した。そして、南沢岳からのびる道のない尾根を登って、裏銀座の稜線を目ざすことにした。
 その尾根は思いのほか急で、雨のなか重いザックを担いでブッシュをかき分けながらの登りはたいへんなアルバイトとなった。福永は滑って5mほど転がり落ちたこともある。稜線に出るまでに二日かかった。何もかもがびしょ濡れであった。尾根を登りきって裏銀座の登山道に達したときは、人界に下りてきたような安堵があった。
 雨が降りしきる登山道をしばらく進むと、這い松の影にじっとしているライチョウの親子を見かけた。俺は何気なくその子に近寄って、片手でつかみあげた。すぐに逃げると思っていたので、まさかそんな簡単につかまえられるとは思っていなかった。親鳥は動かず、じっと俺を見すえている。冷え切っていた俺の手に仔鳥の熱いほどの温もりと激しい心臓の鼓動が伝わってきた。親のそばに子を戻すと、ふたたび何もなかったかのように這い松の下でじっとしていた。
 ほとんど雨が降る毎日で、シュラフが芯まで濡れて、乾くことはなかった。笠ヶ岳の頂きに達した日だけは、晴天に恵まれた。

地産地消

 早朝にスーパーに行くと、近隣の生産農家が採れたての野菜を並べている。形は整っていないが、とにかく安い。こういうのを地産地消というんだろうか。
 大規模農業というと、アメリカの、あの見渡すばかり広がるトウモロコシ畑とか小麦畑を想像するけれど、山がちの日本では望むべくもない。政府与党の推奨する大規模農業経営はまさかあのような規模を目ざしいるわけではあるまいが、俺がぞっとするのは、稲でも麦でも単一種が何十ヘクタールという広大な土地に栽培されている風景だ。日本の田園風景にはないね。大規模の方が生産効率がいいのは決まっているけど。
 自給率100パーセントを超えるアメリカにたいして40パーセントを割り込んでいる日本は、高関税という障壁で農産物を市場開放から守ってきたが、もはやそのやり方も限界にきているようだ。WTOのドーハラウンドでは米と中印の対立で多角的交渉は決裂してしまったが、関税や補助金の撤廃という世界的な流れには逆らえないだろう。
 そんな状況の中で、自民党や民主党は日本の農業にたいしてどのようなビジョンをもっているんだろうかねえ。民主党は農業者の戸別所得補償をするというし、自民党は支援の対象を4ha以上の農業者と限定しておきながら小規模も兼業農家もすべてを支援するとわけのわからんことをいっているだけじゃないか。まあ、選挙を意識してのことだろうけど。