木暮理太郎の夢 | 山の声を聴け

木暮理太郎の夢

 日本の近代登山は明治の後半に始まる。日本山岳会を創立した小島烏水はじめ草創期の群像の中で、アルピニズムの洗礼を受けずに登山に目ざめたパイオニアがいる。木暮理太郎である。パートナー田部重治とともに北アルプスに長大な縦走を行った。
 昭和初期、日本の岳人はヒマラヤの未踏峰へ目を向け始めるが、そのころ中央アジアにもっとも造詣が深かったのは木暮理太郎であろう。理太郎はヨーロッパ・アルプスには興味を示さない。この明治のパイオニアは早くからヒマラヤに惹かれ、若いときヒマラヤ登山をもくろんだ。
 子どものころ寺の和尚から、お釈迦さまの雪山における苦行の話を聞かされていた。その雪山というのがどんな山なのかよくわからない。中学生のときに志賀重昴の講演でインドの話を聴いて、漠然とヒマラヤという概念が得られた。その後「ヒマラヤの山海を抜くこと二千九百丈、峯頭の雪汁は流れてインダス、ガンジスの両大河となり」という志賀の名文を読んで、ヒマラヤ熱が昂じるのである。手当たり次第に地理書や探検紀行を耽読するうちに、南米やアフリカにも興味が広がる。探検熱はいよいよたかまり、三大案を立てて、それを実行することを決心する。
 第一は、ヒマラヤに登ること。第二は、アンデスの山頂からアマゾン河に沿うて下ること。第三は、アフリカのジャングルを横断すること。
 世界の未踏の地へ夢をはせ、ロマンチシズムに胸を焦がしていたのだろう。その夢が実を結ぶことはなかった。
 いまは未踏の地とか未踏峰に憧れるという時代ではないが、俺の学生時代はまだまだ魅力的な未踏峰がヒマラヤやカラコルムには残されていて、理太郎のような夢を抱いたものだ。理太郎の時代から見れば、まあ、残りカスのようなものだったかもしれないが、何となく理太郎気分に浸っていた。はたから見れば、アホかってなもんだろうなあ。もうそんなアホな、でも懸命に追いかけた夢に酔う時代も、とうの昔、20年前に終わった。