山の声を聴け -15ページ目

けっきょく市場獲得が狙いだ

 先週アメリカの下院で、インドとの原子力協定を承認する法案が可決され、間もなく発効する。いちおう核不拡散条約なる国際ルールがあるが、この不平等条約にはインドは加入していない。しかも核実験をし核兵器を所有するような国にたいして、原子力協力なんて認められていないはずだ。さすがに米議会でも批判が強かった。高成長をつづけるインドの巨大市場に原子力産業が目をつけないはずがない。産業界のしもべであるブッシュはこの法案をゴリ押ししなければならなかったわけだ。
 仏独露などの強い反対に耳を貸さず、イギリスと一緒になってイラク戦争を起こした動機も、大量破壊兵器を隠しもっているだとか、アルカイダと関係あるからテロ支援国家だなどとほざいていたが、ほんとうはそんなところにあるのではなく、地下に豊富に貯蔵されている油が目的だろう。それともう一つ、軍需産業はさぞかしうるおったであろう。多くの無辜の命を犠牲にして。その怨念、怒りがテロというかたちになっていま噴出している。
 イラク開戦のとき、諸手を挙げて支持を表明していたのは、ブッシュの従順なるしもべ、小泉純一郎だった。そして、自衛隊をイラクに派遣した。
 最高司令官として自衛隊に行けと命じておいて、国会では「戦闘地域か、非戦闘地域か私に訊かれてもわかるはずがないでしょう」などと、すっとんきょうな声を張りあげていた。公約は守らない、アメリカのためなら憲法に違反するようなこと平然とやってしまう、こんな政治家を支持してしまうこの国の人たち。
 日本を開国させ、世界の市場に引っ張り出したのもアメリカとイギリスである。最初に通商条約を結んだのはアメリカだが、貿易の主導権はイギリスがにぎった。世界の市場を制覇しつつあったイギリスの最大の目的は、綿製品を売りこむための新しい市場の獲得である。初代の英国駐日公使オールコックは、われわれの唯一の目的は通商の拡大であり、いざというときは武力という手段に訴えることもできるということを知らしめなければならない、というようなこといっている。もう、いまのアメリカと通底する傲慢さだ。あの悪名高いアヘン戦争をみるがいい。

ウンチでる……

 植物状態のお袋は、月に10日ほど老人保健施設、いわゆる老健にショートステイする。入所すれば長期間、長ければ一生そこで生活することができる特養(特別養護老人ホーム)とちがって、老健は入所期間が限られている。対象となるのは、たとえば病気になって入院し、治療後退院しても、在宅では介護・看護ができない高齢者だ。そんな介護や看護の必要な高齢者でも、三カ月から一年で退所するのが前提となっている。じっさいは在宅にもどるケースは少なく、別の老健施設に移り渡って入所をつづける高齢者が多いという。
 そういうケースとは違い、俺のお袋の場合は月の三分の二は在宅、あとの三分の一は施設に短期滞在するというやり方でやってきた。今年で六年になる。
 施設に連れていくたびにいろいろな老人を見てきた。先月はこんなばあちゃんに出合った。
 向かいのベッドのばあちゃんが大きな声で叫びつづけているのだ、「ウンチでる、ウンチでる、ウンチでる……」と。もってきたパジャマの着替えやタオルを整理しているあいだじゅう、ばあちゃんは「ウンチでる」をいいつづけている。
 しばらくして、ようやく静かになったと思ったら、こんどは「ウンチでた、ウンチでた……」と訴えはじめた。俺はそのばあちゃんに眼を向けない。眼が合うと、わけのわからないことを話しかけられたり、たのまれたりすることがあるからだ。
 そのうち「オシッコもでた、オシッコもでた」といいだした。俺は片付けを終えて、お袋のベッドから離れる瞬間に、おばあちゃんに視線を向けてしまった。ばあちゃんと眼があった。ばあちゃんは穏やかな表情で、「タミコさん、オシッコもでた……」と俺を見つめて微笑んだ。「はあ、それはよかったですね」といいながら、俺は足早に部屋を出た。

詩人、

 茨木のり子は「マザー・テレサの瞳」という詩を詠んでいる。ちょっと長いが、ひいてみる。

マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして
インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!

鷹の眼は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の眼は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
――なぜこんなことをしてくれるのですか
――あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ

自分を無にすることができれば
かくも豊饒なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる

たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術が必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いただけだと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を

――言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った

 この詩を読んだとき、マザーテレサのやっていることはまさしく菩薩行だと思った。
 釈迦仏教と大乗仏教の違いをこんなふうに解説した人がいた。たとえば道路の真ん中に汚物を垂れ流しながら瀕死の老人が倒れているとする。その老人を避けもせず、ミカンの皮が落ちているというくらいの感じで、生死に関心を示さず、すぐ横を通りすぎる、そういう態度を採るのが釈迦仏教。慈悲の原理を採って、老人を救う、救急車を呼ぶだけではなくて直接的に手を尽くして助ける、一度助けたら最後の最後まで涅槃に入るまで助けつづける、それが大乗仏教。どちらがいいということではなくて、どちらを選んでもいいが、必ずどちらかを選ばなければならない。
 マザーテレサは愛・慈悲の原理を採って、貧しい人たちを助けつづけた。それは大乗仏教の利他行だろうと思う。キリスト教では愛・慈悲というものはなくてならない原理だけど、仏教の場合はそれは必然ではない。慈悲の態度を採らない選択もありうる。そういう人たちにしてみれば、マザーテレサの慈悲の行為は大きなお世話になるのだろうかね。

 詩人は幼いころ母を亡くし、やがて新しい母が嫁いできた。その母は自らの子をもとうとはしなかった。目の前にいる娘一人に愛情をささげるために。二十の歳に敗戦をむかえた。「わたしが一番きれいだったとき」不幸せで寂しかった。「だから決めた できれば長生きすることに/年とってから凄く美しい絵を描いた/フランスのルオー爺さんのように/ね」。そう詠った詩人は二年前、八十を前にして、この世から静かに立ち去った。

地デジ

 最近テレビを見ていて目障りだと感じるのは、画面の隅にキャッチコピーのようなタイトルがあったり、わざわざ字幕があったり、あれはほんとうに必要なのだろうか。どうも番組の内容の補足のような役割があるようだが、それだけ中身がないからじゃないか。
 地デジの売り文句に双方向というのがあるが、当然、視聴者は邪魔なタイトルとか字幕を取ってみることができるはずだ。まさか、そんな選択もできないような「双方向」じゃないだろう。だけど、いざ取ってみると、番組の無味乾燥な内容が際だってしまうかもしれないがね。
 まあ、そんなことはいいとして、2011年にはアナログ放送を中止して地デジにするというのだが、現在流通している6千万台ともいわれるテレビの多くがゴミとなるといわれている。そんなことを考えると、全国一律に地デジにする必要があるのだろうか思ってしまう。地デジのいちばんの売りはきれいな映像だ。大して中身のないドキュメンタリー番組や、日々のニュース、バラエティー番組なんて、そんなきれいな映像で見たって、アナログで見たって、どっちでもいだろう。
 地デジに変えるという国の意図はだいたい透けているんだよ。アナログ放送で不便を感じている人なんかいるんだろうか。地デジに変われば、こんなにこんなきれいな映像を楽しめますよ、といわれれば、地デジのほうがいいと思うだろうけれど、今のテレビをデジタル対応のテレビに変えなければなりませんよといわれれば、そこまでして地デジにする必要はないと思うのは当然だ。
 ようするに、700兆もあるといわれる国民の財布のひもを半ば強制的にゆるめさせて、たかだか映像がきれいだとう程度のテレビの購入のために貯蓄を使わせようというのか。

女人結界

 八年前の春、修験道の本山ともいえる金峯山にはじめて登った。山の上部はみぞれ混じりの冷たい風が吹きつけ、出会う人はなかった。暗い灰色の雲が陽の光をさえぎって薄暗く、辺りは冷え冷えとしていたが、遠くはかすみながらも葛城の山なみは見渡せた。そのとき、これは山ではなく海の波だと思った。ここは豊饒の海じゃないか。
 もうひとつ、忘れられないものは入山の入り口にある「女人結界」だ。冷たく女性を排除するこんな結界なるものは、古くからあるもんじゃない。もともと仏教には女性差別的ではあるが、6、7世紀の日本にはそういう女性差別意識はない。日本の最初の出家僧は女性である。その後も、比丘尼は僧全体の4割をしめていた。
 それが露骨に差別的になり、いびつにえげつなく差別されるようになるのは、10、11世紀あたりだ。家父長制の定着しはじめるときである。
 差別意識というものは一度根付いてしまうと、簡単にはぬぐい去ることはできないのだろうか。いまだに女人結界なるものがあることが俺にとっては驚きではあった。まあ、排除ではなく伝統だなどという輩もいるが、そういう伝統なるものが明治以前にはさかのぼれないものが多いのだ。伝統なんてそんなものが多い。
 なんで相撲の土俵に女が上がっちゃいけないんだ。あんな土俵のどこが神聖か知らんが、女性の首相が登場したら、どうするんだろう。
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 北京オリンピックのさなかに、南オセチアをめぐってグルジアとロシアの間に紛争が起こった。このとき、欧米はグルジアを支援した。それはおかしいと俺は思った。サーカシビリは、領内とはいえ事実上独立状態の州に武力でしたわけで、欧米はその武力侵攻を認めたことになるじゃないかと思ったわけだ。もっと批判が起きてもいいと思ったが、そうはならなかった。サルコジが仲介しておさまっているようだが、グルジア自身はこれでいいのだと思っているのだろうか、とおもっていたら、ブルナジャゼという、サーカシビリとバラ革命でシュワルナゼ政権をたおした女性が、彼の責任を追及し辞任を要求した。まっとうな人がグルジアにはいるじゃないかと思ったね。
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 きょうの自衛隊の空佐の懲戒免職はちょっと驚いた。自衛隊のシビリアンコントロールなんて,絶対できないと確信したね。軍だから、機密はたくさんあるだろう。その機密というのは自衛隊の都合の悪いことも当然含む。秘密主義になってますます腐敗はするわけだ。ミサイル防衛の迎撃実験のように、絶対必要だといいながら税金は使い放題。
辻まことの「税を食うおもちゃ」
 油のパイプを切られれば
 何の役のたたない
 怪獣グンビ