日本人に流れていた人情 | 山の声を聴け

日本人に流れていた人情

 ペリー艦隊が浦賀沖にあらわれて、徳川二百年の静寂を破るのは1853年。翌54年にペリーは再度来航して和親条約を結ぶことになる。
 幕府は、通商以外の石炭・食糧の供給、難破船の救助の要求は認めた。アメリカの要求は、捕鯨船の補給港と避難港の確保が主たる目的だった。この時代、アメリカは油だけのためにクジラを捕りまくっていたのである。
 アメリカにつづいて、幕府は同じ年にイギリス、ロシア、翌年にはオランダと和親条約を結ぶ。オランダは友好的な態度で、条約締結までに時間がかかったが、アメリカの交渉のやり方は、軍艦を従えて強力な軍事力を見せつけるという、きわめて威圧的な態度であった。
 アメリカ艦隊の来港が日本を震撼させた53、54年は、大地震に日本が揺さぶられる年でもあった。53年2月に起こった相模国大地震は小田原に甚大な被害をおよぼし、54年6月には近畿大地震が発生、11月には西日本一帯、駿河、遠江、伊豆、相模一帯を大地震が襲った。そして翌55年には江戸で、七千を超える犠牲者を出した安政大地震が起こる。マグニチュード8ともいわれるが、いまこんな地震が起こったら、このときとくらべられないほど甚大な被害にみまわれるだろう。
 54年11月の地震は大津波を発生させ、この津波によって下田町は壊滅状態となった。津波は下田湾に停泊中だったプチャーチンのロシア軍艦ディアナ号も襲う。船底が大破するなど、大きなダメージを受けて沈没してしまう。
 冷たい海に投げ出された水兵たちは、溺死あるいは凍死の危機に瀕した。このとき、このおよそ500人のロシア兵を助けたのは、駿河湾北岸の村人たちであった。早朝から村人男女が千人ほど押しかけてきて、冷えきって震えているロシア人に、自分の上着を脱いで与えたり、食べ物を提供した。ロシア人には信じられぬほどの出来事であった。感激したディアナ号のマホフ司祭は「善良な、まことに善良な、博愛にみちた民衆よ! この善男善女に永遠に幸せあれ」と手記にしるしている。
 村人たち自身も大きな被害を受けていたのだ。家は壊れ、死傷者もでていた。そんな状況にもかかわらず、瀕死のロシア人たちに救いの手をさしのべたのである。図体が大きく目の色や髪の色が違うロシア人は、当時の日本人は見たこともなかったであろうし、近寄りがたい人間に見えただろうと思うのだが、この時代の日本人にはこんなあつい人情があふれていた。
 ロシア船沈没を聞いて、開国拒否の主戦論者である幕閣の最高顧問徳川斉昭は、これは好機だ、ロシア人を一カ所に集めて皆殺しにせよ、と進言した。さすがに老中首座の阿部政弘も同意するわけもなく、斉昭をたしなめた。こんな日本人もいる。

 日露戦争のとき、ロシア側から多くの捕虜がでるんだが、日本人は彼らを厚遇した。もちろん、昭和の十五年戦争に広く見られた捕虜虐待や強制労働はない。当然、戦地では殺し殺されるという血なまぐさい闘いが繰り広げられるのだが、一度捕虜となったロシア兵にたいして、礼儀正しく人間的に取り扱ったのである。そんな実例が長谷川伸の『日本捕虜志』の中で語られている。そんな義理人情にあふれた日本人が、昭和の戦争になると、なぜあれほど残虐になってしまうのだろうか。