
CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その1
【お知らせ:2019.10.12】令和の大改訂の一環で、本記事に対する全体的な改訂を行いました。この影響で、後年にアップした記事へのリンクや、本作がリリースされた後に得た情報も含む内容となっています。
スピッツのシングルコレクション『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(2017)のレビュー・感想です。字数制限のため、記事タイトルではディスク名を省略しました。
※ 上に表示されている価格は定価以上です。
本作はバンド結成の30周年記念として発売されたプロダクトで、シングル曲を中心とした全45曲が収録されています。3枚組のBOX仕様でありながらお値段税抜き3,900円と、破格の設定にまずは驚きました。年内限定出荷の期間制限を設けたことと、Disc 1と2は2006年リリースの『CYCLE HIT』(「1991-1997」および「1997-2005」)と同一の収録内容であること、この二点に鑑みて金額が抑えられているのだと推測します。とはいえ、過去作に相当する2枚分は新たにリマスタリングされていますし、本作が初出となる楽曲も複数存在するという新出要素があるので、これを良心価格と言わなければ嘘でしょう。しかも、新曲が収められているDisc 3(「2006-2017」)だけが欲しいとのニーズも想定して、単体盤まで用意してある優良っぷりです。
過去作は全て揃えてあるため、その単体盤を買ってもよかったのですが、どうせならとBOXを購入したので、レビューも3枚分行います。ただ、全45曲なだけはあって内容の大ボリューム化が避けられず、本エントリーを含めて都合4記事(「その1」「その2」「その3」「その4」)に跨る事態となってしまいました。2019年の改訂時にコンパクトに書き直す案もありましたが、普段どの記事が流入の起点になっているかが不明なため、SEO的なリスクヘッジで3+1記事のスタイルは維持します。寧ろ、MVの追加や大規模な加筆修正により、2017年時の初稿に輪をかけてボリューミーです。
その他の留意点として、以降の文章中に「TN」と出てきたら、これは本作の歌詞カードに記載されている竹内修さんによる楽曲解説;Track Notesの略であるとご理解ください。濫りな引用を避ける意思は念頭に置いていますが、どうしても言及したい裏話がある場合には、TNの内容を適宜引用します。また、昔の拙い投稿で恐縮ながら、当ブログでは過去にMV集『ソラトビデオCOMPLETE 1991-2011』(2011)をレビューしており、その収録曲の多くが本作とも重なっているので、本記事でも同じような記述をしていたり、反対に異なる認識を披露していたりするかもしれませんが、長期間の開きを考慮していただけると幸いです。
Disc 1 CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection
というわけで、本記事ではDisc 1に収められている15曲をレビューの対象とします。1stシングル『ヒバリのこころ』(1991)から15thシングル『スカーレット』(1997)までの表題曲が、通時的に収録されたディスクです。バンドを代表する有名ナンバーが揃い踏みしたラインナップとなっています。
なお、後続の記事も含めたレビューのスタイルとして、以降には適宜「コラム」と称された文章が挿入されることをご了承ください。その内容は勿論スピッツに関係のあるものとなっていますが、本作の収録曲に対して直接的に言及するものではないため、文字サイズは小でお送りします。僕の個人的な音楽イデオロギーが爆発したものが多く、スピッツ以外のアーティストへの脱線も多いので、鬱陶しければ読み飛ばしていただいても構いません。
01. ヒバリのこころ
1991年リリースのメジャーデビューシングル曲。四半世紀以上も前の楽曲でありながら、近年の楽曲と比べても何ら遜色がない、完成度の高い仕上がりにまずは驚かされます。表向きの爽やかさや日本人らしいポップセンスの裏に、源流に近いオーバーシーズのロックスピリットを感じさせる、これぞスピッツと評さずにはいられないエッセンシャルなナンバーです。
草野さんの手に成る独特な歌詞世界も、この時点で既に確立されているとわかりますが、きちんと未来志向の内容になっているところから、反骨精神は抱きつつも一応はメジャーデビューを意識したのかなと妄想しています。たとえば1番サビの"僕らこれから強く生きていこう/行く手を阻む壁がいくつあっても"は、ストレートなメッセージ性と今後のバンドの行く末を占うような示唆的な内容が印象に残る一方、2番サビでは"遠くでないてる 僕らには聞こえる/魔力の香りがする緑色のうた声"と、端的に言ってクレイジーなワードチョイスが光っており、この直球一辺倒ではない点こそが、まさにマサムネワールドではないでしょうか。
ちなみに、本作の音源は1stアルバム『スピッツ』(1991)のものより、演奏時間が30秒ほど短くなっています。シングル集ゆえに当然ながら、これはシングルに収録されているバージョンに準じているからです。1stに於いてはアルバムのラストを飾る曲ということもあって、アウトロが長めに取られているのだと推測しますが、時間を掛けてフェードアウトしていくところに、雲雀に限らず飛び立つ鳥類の情緒が纏綿であると感じるため、個人的にはアルバムバージョンのほうが好みだと補足しておきます。
コラム①:国民的バンドゆえに受ける誤解
細部が曖昧な記憶に基く批判を展開するため、個人名はぼかして書きます。かなりの昔に某お笑い番組の中で、出演芸人達がバンド演奏を披露する企画(そういう設定のコント?)がありました。本業は芸人ゆえに仕方がないのですが、演奏のクオリティは決して高くなく、音をはっきりと出すことすら覚束ないといったレベルだったのですが、それに対してツッコミの何某が「スピッツか!」と突っ込んで笑いにしていたことは、今でも腹立たしく思います。何某のことは芸人としては嫌いでなかったので、正確には怒りよりも残念に感じた気持ちが強くはあるけれども、この高い完成度を誇るデビュー曲を聴くだけでも、その認識は偏に誤解によるものだとわかるでしょう。スピッツに対してネガティブな印象を抱いている人は当然として、ともすればミーハーレベルでは好きだという一般層の中にも、残念ながらこのような誤解をしている方が未だに多い印象です。
同格の存在ではMr.Childrenも同様の被害者であるとの認識で、ボーカル至上主義というかメロディ偏重志向に陥った聴き方しか出来ないリスナーには、彼らがバンドであるという感覚がそもそも欠如しているのだと分析します。ただ、敢えて擁護の立脚地に身を置いて意見を述べますと、時代の古さによる技術的な問題で、音源の真価が伝わりづらくなっている面は確かにあるとの理解です。具体的に言うと、スピッツの場合はマスタリングに、ミスチルの場合はミックスに改善の余地があると、両者を聴き出した20年ほど前から思っていました。とはいえ、このようなことは制作サイドも自覚済みだと推測可能で、その証拠にスピッツは過去作の高品質盤を、2002年には「Spitz 2002 Remaster Series」として、2008年にはSHM-CDで、2017年にはレコードでそれぞれリリースしており、後発のフォーマットほど音質上の不利がない印象です。勿論本作も現状では最新のリマスターCDとなるので、音源をハイクオリティで鑑賞するには充分でしょう。
ミスチルもベスト盤はリマスタリングされていますし、18th『REFLECTION』(2015)ではUSBアルバムにハイレゾ音源を収録するなど、音質へこだわる姿勢は窺えます。しかし、僕は先述した通り改善の余地をミックスの段階に求めているので、マスタリングによる影響は間接的なものであるとの捉え方です。ミキサーの名誉のために明記しておきますと、これは決してミックスが技量不足だと言いたいのではありません。バンドが求めた品質に見合う仕事が適切に行われているからこそ、満を持して世にリリースされているわけですからね。ただ、ミスチルの場合はその求める品質(或いはレコード会社から求められる品質)が、良くも悪くも歌謡曲またはJ-POP的だと感じられ、その結果「ボーカルをクリアに/オケは適度に」の、バンドサウンドとしては物足りないミックスになっている気がします。
スピッツに関してもミスチルについても、たとえオリジナルの古い音源で鑑賞しようと、元よりバンドファーストな聴き方が出来る人にとっては、プレイのハイスキルさにもきちんと意識がいくだけのクオリティにはなっているのですが、そうでないリスナーにとっては、リマスタリングもしくはミックスの影響を受けた表層的なアウトプットのみが全てで、そもそもレコーディング後のステップなど意識したことがないがゆえに、前出した誤解に至るとの推測です。本記事のような長文レビューをわざわざご覧になる方は、そも「出来る人」だとお見受け致しますが、非ファン層やミーハー層との乖離が殊更に大きいのは、国民的バンドの宿命であると言えます。
02. 夏の魔物
1991年リリースの2ndシングル曲で、1stアルバムからのリカットです。AOMORI ROCK FESTIVALの愛称、正確にはその由来としても有名かと思います。曲調やサウンドはセンチメンタルながらもリズムは軽快なナンバーで、バンドが出すシングル曲の括りの中では、充分に良曲であると評せるでしょう。ただ、所謂売れ線かどうかの観点で語ると、メロディラインのニッチさがネックになっていると感じます。
というのも、本曲はBメロとサビの境界が曖昧に聴こえ、じわじわと盛り上がりを見せてBメロらしい振る舞いをしている、"幼いだけの密かな 掟の上で君と見た/夏の魔物に"までの旋律を継ぐのが、"会いたかった"の連呼だけであるところに、悪く表現すれば肩透かし感がある気がするのです。スピッツにハマって慣れてくると、「この地味さが最高!」といった前向きな感想に転化出来ますが、それを当時の段階で掴むのは難しかったかもしれません。実際、今でも本曲のBメロとサビの境目はよくわからなくて、当該のフレーズ全体が地味目のサビであるとも、敢えてAメロとBメロだけで構成されるようなアルバム曲的な作り方でこうなっているとも思えます。元々はシングル曲ではなかったわけですから、トラックメイキングの方法論からして違うのではないでしょうか。
歌詞について言及しますと、未だに検索サジェストに表示されるくらいには長らくの間、流産の歌であるという解釈が幅を利かせていた印象です。しかし、今検索してみると同解釈に対するカウンターも多く見られ、昔ほど有力説ではなくなっているようですね。斯く言う僕も懐疑派で、確かに流産をキーワードにすると納得のいく表現もありはしますが、"幼いだけの密かな 掟の上で君と見た"を素直に解釈して、幼い時分にのみ会うことの出来た存在;イマジナリーフレンドやタルパに関する歌ではないかと考えています。"効かなかった"とはいえ、"呪文"が出てくるのも界隈の概念らしいなと。
03. 魔女旅に出る
1991年リリースの3rdシングル曲。01.およびコラム①で述べた通り、スピッツはバンドとしての地力が元より強固なので、ミーハー層とは逆にバンドサウンドのみのイメージが先行しているファン層もいるかもしれません。しかし、本曲がその好例であるように、初期の頃から早くもバンドサウンド以外の音を積極的に取り入れており、表現に対して柔軟であることが窺えます。TNにも記してありますが、この路線はミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』(1992)で昇華されましたね。
全体的にキュートな音遣いが目立ち、特に2番後の間奏部は装飾過多と思えるほどにラグジュアリーな色付けが施されていると感じますが、表題にある「魔女」延いては「魔法」のイメージに合ったサウンドスケープなので、適切なアレンジだと評します。とりわけストリングスとグロッケンシュピールが重なる部分からは、フィクション作品に於ける往年の魔法付与表現たる、キラキラとしたエフェクトが幻視出来そうなほどです。
04. 惑星のかけら
1992年リリースの4thシングル曲。僕が本曲を初めて聴いたタイミングは、発表から10年経った中学生の頃でしたが、当時の青い感性も相俟って、その歌詞内容から詩人としての草野さんのやばさを痛感した記憶が蘇ってきます。笑 その際に衝撃を受けたのは、"君から盗んだスカート 鏡の前で苦笑い"が象徴する、ダイレクトに変態チックなフレーズでした。しかし、今の感性ではそこよりも、"二つめの枕でクジラの背中にワープだ!/ベチャベチャのケーキの海で 平和な午後の悪ふざけ"に見られるような、ラリった言葉繰りに草野節を覚える次第です。"君の夢"と絡めた表現ゆえの、ぶっ飛んだファンタジックさなのだとは思うけれども。
サウンドはTNでの形容が端的で、グランジライクの骨太な音作りが只管に格好良いです。ロックバンドのナンバーとしては文句無しに良曲と断ずるほかありませんが、歌詞の良い意味での気持ち悪さに加えて、あまりパンチがあるとは言えないメロディラインの曲をシングルとして世に出したのは、なかなかに冒険だったのではないでしょうか。
05. 日なたの窓に憧れて
1992年リリースの5thシングル曲。TNでも言及されている通り、曲を通して鳴り続けるシーケンスフレーズによる、ダンサブルなアプローチが印象的です。現時点から振り返って、スピッツの他の全曲を比較対象としても、なお異彩を放っている楽曲だと認識しています。2000年代まで時を進めれば、後の記事でレビューする「ハネモノ」(2002)や、アルバム曲「ババロア」(2002)などの電子的なトラックも登場してきますが、バンドサウンドとのバランスが良く、ハンドメイド感が残るダンスミュージックとの観点では、本曲に栄冠の座を与えたいです。
90年代前半のスピッツの作品の中では、最も気に入っていると言っても過言ではなく、ポップなアレンジに美しくキャッチーなメロディと前向きな歌詞内容で、売れそうな要素だらけなのに、当時のシーンに刺さらなかったのが信じられません。一言で表せばグリッターな;脳内に光彩や黄色が広がって満ちていくようなサウンドスケープを有しており、その世界の中から放たれる"君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で"のストレートさは、まさに陸離とした様相を呈しています。
一方で、ゲーテの言葉にもあるように、強い光と濃い影はセットで訪れるものです。本曲に於いては、"メリーゴーランド"が木霊するパートが、影の役割を担っていると聴き解けます。とはいっても、闇に落ち込むようなネガティブな意味合いではなく、聖域に立ち入ったかの如き静謐さに満ちた音像を、比喩的に影と表した次第です。より俗っぽく言えば、"二人のメリーゴーランド/ずっと このまま"は妄想の産物というか、理想のビジョンを描いた部分だと思うため、現実とは違うけれどもといったエクスキューズを裏に感じて、影としたいのかもしれません。
06. 裸のままで
1993年リリースの6thシングル曲。本記事の前置き部にリンクした『ソラトビデオCOMPLETE』の記事中にも同様のことを書いていますが、売れ線を狙ったのに外したという哀しき楽曲です。曲の内容は意図したクオリティに到達していると感じるので、運悪く世間一般に響かなかっただけのことでしょう。この説明は以前に披露した際にも正式な出典を探せず、依然ソースは脳内のレベルですみませんが、同じく出典なしとはいえWikipediaにも似たような記述があるため、妄言の類ではないと自己弁護します。
ともかく、有名プロデューサーたる笹路正徳さんを迎えて、アレンジも豪華にしてMVも作ったのに、まさかのオリコン圏外という事実だけを見ても、当てが外れたことを推し量れるはずです。TNにある『「派手」なアレンジに、それまでのファンはとまどいを隠せなかった』も哀愁漂う婉曲的なレビュー文で、当時は一般層は疎かファン層にも響かなかったのだとしたら、本曲に対する同情を隠しきれませんね。
何だかディスり気味の文章になってしまいましたが、本曲の良さをフォローする用意が僕にはきちんとあります。バンドサウンド以外の音;ここではキーボードとストリングスとサックスによるキャッチーな装飾があるからこそ、ボーカルラインの流麗さが対比されて、その一層の美メロっぷりが顕となっていますし、歌詞の"二人ここにいる 裸のままで"や、"どんなに遠く 離れていたって 君を愛してる"に代表されるような、気恥ずかしいくらいの直球さに見合う音作りとして、バンドサウンド以外のアプローチは、功を奏していると言うほかありません。更に言えば、きちんと毒気が残されているのも評価点で、本曲の中では異物感が満載のフレーズ、"地下道に響く神の声を 麻酔銃片手に追いかけた"が存在する意味と意義を、あれこれと考えてみるのも一興です。
07. 君が思い出になる前に
1993年リリースの7thシングル曲で、4thアルバム『Crispy!』(1993)からのリカットです。スピッツが広く世間に認知され出したのは本曲からで、バンドにとって不本意な発売経緯である点で悪名高いベスト盤『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』(1999)の幕開けを飾るナンバーでもあるため、ミーハー層の中には本曲がデビュー曲だと勘違いしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、売れたことから来る結果論のように響くかもしれませんが、タイアップ等の外部要因を排して純粋にサウンドだけを取り立てても、この7thからバンドの印象が垢抜けたものに変わったと感じるので、スピッツのサウンド史に於ける区切りという意味では、メルクマールたり得る楽曲だと評せます。本曲はリカットゆえ、厳密には8thからとするべきかもしれませんけどね。
王道で美麗なメロディラインの出色の出来栄えだけでも、ヒットナンバーの風格を備えていると主張したいくらいですが、草野さんにしてはわかりやすい曲名と歌詞内容であったことも、ヒット要因のひとつであると分析しています。表題の"君が思い出になる前に"は、現在にフォーカスしたシンプルな表現でありながら、同時に「これまで」と「これから」を想像させる余地があって、非常に機能的な一節です。この余地に個々人のエピソードを重ねやすく、誰しもが経験する別れの場面に相応しい音楽となるのでしょう。"優しいふりだっていいから 子供の目で僕を困らせて"という、実に大人な我儘にも共感しきりです。
08. 空も飛べるはず
1994年リリースの8thシングル曲。言わずと知れたスピッツの代表曲ですが、TNにもあるように発売から2年後にドラマ『白線流し』とのタイアップでホームランを放ったのは、5thアルバム『空の飛び方』(1994)に収録の「(Album Version)」のほうで、本作に収録されているシングルバージョンとは異なります。プロデューサーやボーカルテイクの違いこそあれ、ドラマの主題歌に起用される前の段階でも、中ヒットは飛ばしていたと言えるチャート戦績なので、人口に膾炙する曲としての素質は元より充分にあったと言えるでしょう。
ファンではない人でも口遊めるくらいに有名になったがゆえに、もしくはドラマの作品内容のイメージが先行してか、爽やかで健全なラブソングないし感動の涙を誘う卒業ソングとの受け取り方も王道ですが、そのような清い世界観の中に"隠したナイフ"や"ゴミできらめく世界"などの尖った一節が潜んでいることに、もっと言えばそういう曲が売れたことに対して、ファンとしてはにやりとしてしまいます。
09. 青い車
1994年リリースの9thシングル。08.と同様、5thアルバム収録の「(Album Version)」とは異なるシングルバージョンです。感覚的な理解を披露しますと、曲題にある「青」のサウンドスケープを持つナンバーであるとの印象で、ボーカルにもオケにもくぐもった質感が付与されている点が、「水」延いては「海中」のビジョンを想起させると描写します。"君の青い車で海へ行こう"からの、"そして輪廻の果てへ飛び降りよう 終わりなき夢に落ちて行こう"は、まるで精神世界でダイビングを敢行しているようだと解釈したいです。一方で、"潮のにおいがしみこんだ 真夏の風を吸い込めば"は現実の風景を切り取っていて、その"風"にシンクロさせれば"心の落書きも踊り出すかもね"とのサジェストでもって、前出した精神的な心象風景と紐付ける流れが構築されているのかなと思いました。
…と、これは素直に情景を受け取るスタイルでの解釈ですが、裏に潜んだ意味を深読みする路線も昔から一定数の支持を得ているとの認識です。そういった考察好きの人達の間でも、生の歌と取るか死の歌と取るかで割れている気がします。"冷えた僕の手が 君の首すじに咬みついてはじけた朝"や、"そして輪廻の果てへ飛び降りよう 終わりなき夢に落ちて行こう"などは、確かに生死に纏わる表現と解せなくもありません。"輪廻"という生死が表裏一体のワードが象徴しているように、どちらを感じ取ったとしても根源は同じなのでしょうけどね。ただ、"生きるということは 木々も水も火も同じことだと気付いたよ"で真理を得、"愛で汚された ちゃちな飾りほど 美しく見える光"と紡げるのであれば、僕はこれを死へと向かう歌だとは思いません。有り体に言えば、「どうせいつかは死ぬんだから生きてみるか」の境地ではないかな。
10. スパイダー
1994年リリースの10thシングル曲で、5thアルバムからのリカットです。07.では悪名高いと腐してしまった『RECYCLE』ですが、実は僕も最初にふれたスピッツとの思い出の一枚は同盤でして、その中では本曲がいちばんのお気に入りでした。カントリー的な疾走感のあるナンバーで、歌詞の"だから もっと遠くまで君を奪って逃げる"の通りに、逃避行のテーマソングに相応しい仕上がりとなっています。この疾走感または逃避行に関連する楽想上の妙味として、以降にはとてもニッチなツボを紹介しましょう。
言及の対象とするのは、アウトロに相当するフェードアウト(F.O.)のセクションで、具体的にはF.O.部分に新要素があるのを高く評価しています。歌詞で示せばラスサビで新たに登場する、"力尽きたときはそのときで"以降の展開を指しており、ここの途中からF.O.がスタートする点がユニークであるとの主張です。今はF.O.で終わる曲自体の数が減っている気がするので、特に若年層はピンとこないかもしれませんが、昔は曲の締め方としては珍しくありませんでした。これは言わば省略的なテクニックで、既出のフレーズの繰り返しであるからこそ、F.O.でクロージングさせても問題ないといったロジックが、作編曲上の背景にあるものだと推測されます。
しかし、本曲の場合は新出の歌詞が出てきた途端にF.O.が開始するのが意外で、通常であれば聴かせどころとなるであろう部分が消え入る最中に放り込まれるという、チャレンジングな楽想となっているのです。並のセンスであれば、F.O.位置はラスサビ内で4回目の"だから"に設定すると思います。このことの何が疾走感および逃避行に関連するのかについては、詳細な説明を加えていたら内容が非常に長くなってしまったので、続きは以下のコラムを参照してください。
コラム②:フェードアウトクロージングの魅力
僕の認識の中では、F.O.で曲を閉じること自体が逃避のイメージと結び付いています。譜面上に終点を設定せずに曲を閉じることは、音源上でのみ可能なテクニックであるため、純粋な作編曲に於いては、ある種の逃げではないかということです。近年の楽曲にF.O.終わりが少ないのも、たとえばそれがシングル曲ならば、アルバムに収録する際に最後の曲に据える以外の配置が難しくなりますし、ライブ演奏ではなおのことF.O.で楽曲を締めにくくなり、どのみちきちんと閉じるアレンジも考えなければいけない点で二度手間となるので、わざわざ選択されなくなってきたのでしょう。
しかし、この「スパイダー」のように、逃げることそのものがテーマとなっている曲であれば、F.O.は寧ろ打って付けのクロージング方法だと考えます。なぜなら、未だ曲が継続しているのにも拘らず、それをほっぽり出してしまう(ように聴こえるオケにした)のは、主題たる逃避を強調する意味合いになるからです。況してや、新出要素が出て来たばかりなのにF.O.が始まるとくれば、それは驚きを伴った逃避となるため、聴き手としては「やられた!」と唸ってしまいます。逃避行という言葉は駆け落ち的な使われ方;つまり恋愛感情が付随する使用が多いと見ていますが、そう捉えると驚きを伴った逃避とは文脈上或いはストーリー上では、二人の仲を引き裂こうとしている存在(e.g. 両親、恋敵、時勢)に対して一泡吹かせてやったといった解釈が可能となり、この奪取の鮮やかさに疾走感を覚えないわけがありません。この連想が、F.O.と逃避行と疾走感の三者を繋ぐものです。
ここからは余談ですが、F.O.に纏わる個人的な好みを開示してみようと、当ブログ内を「フェードアウト」で検索してみたところ、少なくともこの記事とこの記事に於いては、近年の楽曲にF.O.終わりの楽曲が減っていることに対して、寂しさを滲ませた文章を確認出来ました。後者はフレデリックのエントリーで、詳細は同ブログテーマ内にある他の投稿も参照していただければと思いますが、同バンドは2009年から活動を開始した比較的最近の存在ながらも、サウンドには敢えて80~90年代の懐かしいテイストを取り入れているので、F.O.でのクロージングもよく馴染んでいるのです。こう感じてしまうことから、やはりこの手法は現代らしくないのだろうなと独り言ちます。ちなみに、フレデにはそのまま「逃避行」(2019)と題されたナンバーもありますが、こちらは残念ながらF.O.していません。笑
他にぱっと思い付いた逃避行ソングで例示しますと、APOGEEの「Runaway Summer」(2014)も非F.O.ですし、古くは麻生よう子の「逃避行」(1974)も素直な曲の終わり方をしているので、雑過ぎる推測ながら80~00年代前半あたりまでが、F.O.クロージングの絶頂期だったのではとまとめます。話をスピッツに戻して、当ブログでレビュー済みの楽曲では他に、「あじさい通り」(1995)の記事内にもF.O.への言及があり、そこでは「フェードアウトしつつもきちんと演奏が終了するタイプ」と、合わせ技の閉じ方を絶賛していました。
11. ロビンソン
1995年リリースの11thシングル曲。08.以上の知名度を誇り、後の13.と双璧をなす形で、スピッツの最たる代表曲のひとつと言えます。ただ、それゆえに特に世の男性陣は、次のような罠に陥ったことがありませんでしょうか。周囲にスピッツ好きを公言していた場合、カラオケで女性陣から無邪気に出る「ロビンソン歌ってよ」の一言。…いやいや、無理だから。最高音hiC#(裏声)の存在とhiB(地声)の頻出を含めて、乱高下の激しいラインの歌いにくさを舐めてはいけない。このエピソードは以前にも当ブログ上に書いた記憶があるのですが、現在は非公開となっている日記テーマ内での話だったため、この場を借りて再掲した次第です。ともかく、容易に乗り熟せない旋律というものは、それだけで感動に繋がり得ることを証明する好例として、本曲の凄さを再認識したとしておきます。
歌詞で殊更に好みなのは、"二人だけの国"という表現です。世界ではなく、"国"であるのがポイント。10年以上前に某所でこの独創性についてふれたら、「別にそれは凄くない」と返して来た人がいて、やけに腹が立ったのを覚えています。今改めて歌詞に於ける語彙使用のコロケーション(「二人」と「世界」および「国」との結び付き)をざっと調べてみても、反論者の考えのほうが浅いと断ずるほかありません。二人だけの世界では漠然とし過ぎていて陳腐に響きかねない場面で、統治機構を有した"国"を選んでいるところに特別の意味を見出していたのですが、その点は全く伝わらなかったようです。
おそらく当該人物の認識の中では、世界も国も大差のない概念だったのでしょう。他の言葉の例を挙げて批判を続けますと、この手の認識からは「祈り」と「願い」を同一視していることに似た違和感を覚え、近しい概念の二語の差異を驚くほど意識しない人種は哀しい哉、受け手の側は疎か表現者サイドにすら跋扈しているとの分析です。表現者が言葉のひとつひとつに意識を払って構築した歌詞世界を、このような誤謬の中に引きずり込んで矮小化してしまうのが、この手の混同の罪深さであると唾棄します。今後の内容の先取りですが、後の記事に載せたコラム④は、作詞に於いて表現者と受け手が陥りがちな蒙昧をテーマのひとつとしているため、文章創作に於けるイデオロギーに敢えて塗れたい方には面白いかもしれません。
12. 涙がキラリ☆
1995年リリースの12thシングル曲。歌詞のわかりやすさで言えば、07.に匹敵するほどに一般向けな内容だと捉えています。下手に解釈を捏ね繰り回すよりも、描写通りに受け取るのが吉だと思うタイプのナンバーです。TNにあるように「七夕布教活動」の一環で発売日が7月7日に調整されたそう(水曜ではなく金曜の発売)なので、フレーズの端々に七夕や納涼大会を匂わせる部分があります。お気に入りの一節は、"君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから"で、前向きなのにスケールが小さいところに、"俺"の精一杯の勇気が窺えて素敵です。
メロディもアレンジもポップであるため、正しく売れ線に仕上がっていると評していいと思いますが、終始ベースが楽曲をリードしているとわかる点に関しては、実にロックだなと感心します。ギターの質感もバンドサウンドに寄せてあり、ともするとハードに響いてしまいそうではあるのですが、やはり総合的には聴き易いアウトプットになっており、01.に記したようなJ-POPらしさと洋ロックらしさが、幸福な融合を果たしたがゆえの、これぞスピッツなワークスであると結びます。
13. チェリー
1996年リリースの13thシングル曲。11.では認知度の点で、同曲と双璧をなすと述べた超有名曲です。11.と異なるのは、カラオケでリクエストされても、動揺せずに済むところかもしれません。笑 冗談はさておき、実はこの「動揺せずに済むところ」に本曲の凄さの一端が表れていると考えています。実際の記憶を辿っても想像でも構いませんが、他人の下手くそな歌唱による「チェリー」を聴かされたとしても、それで気分を害する人はそうそういないのではないでしょうか。僕は寧ろ微笑ましいと思ってしまうくらいで、それは即ち楽曲自体の包容力が群を抜いて高いことを示唆しています。誰もが知っているレベルの定番曲となると、上手く歌えなくても許される傾向にそもそもありますが、それでも本曲ほど老若男女に寛容心を芽生えさせるナンバーは、非常に稀有ではないかと主張したいです。この文脈下では反例となってしまいますが、「ロビンソン」は上手く歌えないと楽曲自体が成立しないので厳しいですよね。
知名度が抜群なだけに、サビの歌詞のみが独り歩きしている気がしますが、全体を見れば別れの趣が強い内容だとわかるかと思います。とはいえ、次へと歩みを進めて行くような前向きな言葉繰りが披露されているため、ポジティブな歌であることに疑いはありません。"いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい"と、再会も意識しているわけですしね。ただ、個人的には…というか本曲の意図を察するに、歌詞中の"僕"は二度と"君"と会うことはないのだろうなと感じます。それは"僕"も自覚済みであるので、"君を忘れない"だったり"二度と戻れない"だったりの表現が出てくるのでしょう。"君とめぐり会いたい"はあくまでも願望で、それもおそらく「偶然に」といった側面が強いと捉えています。
だからこそ別離後を想定した心構えの提示が巧くて、"きっと 想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる"、"「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ"、"ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ"などのフレーズが、金言となってリスナーの心に優しく寄り添うわけです。"きっと"に"気がした"と、何一つ断定していないのも切ない。
14. 渚
1996年リリースの14thシングル曲。本曲も01.と同様、特記はないけれどシングルとアルバムでバージョンが異なり、本作に収録されているのは当然前者です。個人的には後者にのみ存在する、イントロの打ち込みパートに於ける「水」の表現力を高く買っているため、前者には物足りなさを感じてしまいます。09.でも『「青」のサウンドスケープ」という形容で、「水」に結び付ける記述を行っているので、以下では引き合いの対象としました。
09.の総合的な印象を「死へと向かう歌だとは思いません」と書いたのとは逆に、本曲については「死の匂いを強く残している」との認識です。歌詞に"行きついたその場所が 最期だとしても"とあるのが、こう思う理由の決定打ですが(「最後」ではないのがミソ)、モチーフが「渚」であること自体も、その根拠になり得ると考えています。この語が陸と海の境界を指していることも一例と見做して、逢魔が時然り三途の川然り、陰陽の狭間を表す言葉には、死のイメージが付き纏うものです。便宜上、陸が陽で海を陰として扱った場合、本曲の歌詞は陰側へと誘う内容であると解釈可能なので、少なくとも陸での生活は捨て去るつもりだと読み解けます。"水になって ずっと流れるよ"を経て"最期"を覚悟する心境に、「再び雨となって陸へ…」的な循環の意識は最早ないものと受け取りました。循環をキーに換言して、09.が"輪廻の果てへ飛び降りよう"ならば、本曲からは「輪廻の外へはみ出そう」とのメッセージ性を感じます。
サウンドメイキングの面でも曖昧の美学が感じられ、曲から受ける全体的な印象を「明るい」にも「暗い」にも絞れない、絶妙なコード感が味わい深いです。ただ、"輝いて…"のセクションで陥る翳りと、アウトロの消え入りそうなギターの物悲しさは、死を思わせるのに充分なグルーミーさに満ちた仕上がりなので、二者択一にするのであれば「暗い」を選びます。
15. スカーレット
1997年リリースの15thシングル曲。8thアルバム『フェイクファー』(1998)収録の「(Album Mix)」ではなく、オリジナルのミックスによるバージョンです。14.とは異なり新規パートが存在するわけではありませんが、先にアルバムのミックスに馴染んでしまったからか、シングルのほうには違和感があります。
今更の案内で恐縮ながら、当ブログ上に於けるメロディの区分方法や使用語彙に関する詳細な解説については、この記事をご覧ください。以降はその内容に沿って、メロディ構成に関連したレビューを展開します。本曲の楽想は至ってシンプルで、二種類のメロディラインが交互に出てくるだけのつくりです。リンク先から個人的に最適だと思う表記法を借りれば、洋楽風に「ヴァース-コーラス形式」で処理したいタイプとなります。
僕がユニークだと評したい要素は、これらの二種のラインのうち、どちらがヴァース(Aメロ)でどちらがコーラス(サビ)なのかが判然としない点です。基準となる呼称として、"離さない"~を仮に甲、"乱れ飛ぶ声に"~を仮に乙と規定しますと、甲がサビで乙がAメロという理解も、反対に甲がAメロで乙がサビという理解も、共にアリな気がしないでしょうか。単純にスタンザ数で比較すれば甲:乙=3:2なので、繰り返しが多い甲をサビとするのが王道だとは思いつつも、甲をAメロとして乙への大胆な変化をもってサビとするのも、これまた王道に聴こえます。つまるところ、甲も乙も役割上は同価値の旋律であるとの認識でいるため、J-POPのフォーマットたる「Aメローサビ形式」では表しにくく、前出した「V-C形式」は便宜的に出した区分案ゆえ洋楽'風'と断っておきましたが、実際にも洋楽的なトラックメイキングになっていると主張したいです。この手の実験的なつくりのナンバーを、バンドが売れに売れている時にリリースした挑戦心が、まさにスピッツらしいと結びます。
以上、Disc 1に収められている全15曲のレビューでした。総括的なことは「その3」の記事でまとめて述べるので、本記事の〆には続きとなる「CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その2」の記事へのリンクを貼るだけにしておきます。
スピッツのシングルコレクション『CYCLE HIT 1991-2017 Spitz Complete Single Collection -30th Anniversary BOX-』(2017)のレビュー・感想です。字数制限のため、記事タイトルではディスク名を省略しました。
※ 上に表示されている価格は定価以上です。
本作はバンド結成の30周年記念として発売されたプロダクトで、シングル曲を中心とした全45曲が収録されています。3枚組のBOX仕様でありながらお値段税抜き3,900円と、破格の設定にまずは驚きました。年内限定出荷の期間制限を設けたことと、Disc 1と2は2006年リリースの『CYCLE HIT』(「1991-1997」および「1997-2005」)と同一の収録内容であること、この二点に鑑みて金額が抑えられているのだと推測します。とはいえ、過去作に相当する2枚分は新たにリマスタリングされていますし、本作が初出となる楽曲も複数存在するという新出要素があるので、これを良心価格と言わなければ嘘でしょう。しかも、新曲が収められているDisc 3(「2006-2017」)だけが欲しいとのニーズも想定して、単体盤まで用意してある優良っぷりです。
過去作は全て揃えてあるため、その単体盤を買ってもよかったのですが、どうせならとBOXを購入したので、レビューも3枚分行います。ただ、全45曲なだけはあって内容の大ボリューム化が避けられず、本エントリーを含めて都合4記事(「その1」「その2」「その3」「その4」)に跨る事態となってしまいました。2019年の改訂時にコンパクトに書き直す案もありましたが、普段どの記事が流入の起点になっているかが不明なため、SEO的なリスクヘッジで3+1記事のスタイルは維持します。寧ろ、MVの追加や大規模な加筆修正により、2017年時の初稿に輪をかけてボリューミーです。
その他の留意点として、以降の文章中に「TN」と出てきたら、これは本作の歌詞カードに記載されている竹内修さんによる楽曲解説;Track Notesの略であるとご理解ください。濫りな引用を避ける意思は念頭に置いていますが、どうしても言及したい裏話がある場合には、TNの内容を適宜引用します。また、昔の拙い投稿で恐縮ながら、当ブログでは過去にMV集『ソラトビデオCOMPLETE 1991-2011』(2011)をレビューしており、その収録曲の多くが本作とも重なっているので、本記事でも同じような記述をしていたり、反対に異なる認識を披露していたりするかもしれませんが、長期間の開きを考慮していただけると幸いです。
Disc 1 CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection
というわけで、本記事ではDisc 1に収められている15曲をレビューの対象とします。1stシングル『ヒバリのこころ』(1991)から15thシングル『スカーレット』(1997)までの表題曲が、通時的に収録されたディスクです。バンドを代表する有名ナンバーが揃い踏みしたラインナップとなっています。
なお、後続の記事も含めたレビューのスタイルとして、以降には適宜「コラム」と称された文章が挿入されることをご了承ください。その内容は勿論スピッツに関係のあるものとなっていますが、本作の収録曲に対して直接的に言及するものではないため、文字サイズは小でお送りします。僕の個人的な音楽イデオロギーが爆発したものが多く、スピッツ以外のアーティストへの脱線も多いので、鬱陶しければ読み飛ばしていただいても構いません。
01. ヒバリのこころ
1991年リリースのメジャーデビューシングル曲。四半世紀以上も前の楽曲でありながら、近年の楽曲と比べても何ら遜色がない、完成度の高い仕上がりにまずは驚かされます。表向きの爽やかさや日本人らしいポップセンスの裏に、源流に近いオーバーシーズのロックスピリットを感じさせる、これぞスピッツと評さずにはいられないエッセンシャルなナンバーです。
草野さんの手に成る独特な歌詞世界も、この時点で既に確立されているとわかりますが、きちんと未来志向の内容になっているところから、反骨精神は抱きつつも一応はメジャーデビューを意識したのかなと妄想しています。たとえば1番サビの"僕らこれから強く生きていこう/行く手を阻む壁がいくつあっても"は、ストレートなメッセージ性と今後のバンドの行く末を占うような示唆的な内容が印象に残る一方、2番サビでは"遠くでないてる 僕らには聞こえる/魔力の香りがする緑色のうた声"と、端的に言ってクレイジーなワードチョイスが光っており、この直球一辺倒ではない点こそが、まさにマサムネワールドではないでしょうか。
ちなみに、本作の音源は1stアルバム『スピッツ』(1991)のものより、演奏時間が30秒ほど短くなっています。シングル集ゆえに当然ながら、これはシングルに収録されているバージョンに準じているからです。1stに於いてはアルバムのラストを飾る曲ということもあって、アウトロが長めに取られているのだと推測しますが、時間を掛けてフェードアウトしていくところに、雲雀に限らず飛び立つ鳥類の情緒が纏綿であると感じるため、個人的にはアルバムバージョンのほうが好みだと補足しておきます。
コラム①:国民的バンドゆえに受ける誤解
細部が曖昧な記憶に基く批判を展開するため、個人名はぼかして書きます。かなりの昔に某お笑い番組の中で、出演芸人達がバンド演奏を披露する企画(そういう設定のコント?)がありました。本業は芸人ゆえに仕方がないのですが、演奏のクオリティは決して高くなく、音をはっきりと出すことすら覚束ないといったレベルだったのですが、それに対してツッコミの何某が「スピッツか!」と突っ込んで笑いにしていたことは、今でも腹立たしく思います。何某のことは芸人としては嫌いでなかったので、正確には怒りよりも残念に感じた気持ちが強くはあるけれども、この高い完成度を誇るデビュー曲を聴くだけでも、その認識は偏に誤解によるものだとわかるでしょう。スピッツに対してネガティブな印象を抱いている人は当然として、ともすればミーハーレベルでは好きだという一般層の中にも、残念ながらこのような誤解をしている方が未だに多い印象です。
同格の存在ではMr.Childrenも同様の被害者であるとの認識で、ボーカル至上主義というかメロディ偏重志向に陥った聴き方しか出来ないリスナーには、彼らがバンドであるという感覚がそもそも欠如しているのだと分析します。ただ、敢えて擁護の立脚地に身を置いて意見を述べますと、時代の古さによる技術的な問題で、音源の真価が伝わりづらくなっている面は確かにあるとの理解です。具体的に言うと、スピッツの場合はマスタリングに、ミスチルの場合はミックスに改善の余地があると、両者を聴き出した20年ほど前から思っていました。とはいえ、このようなことは制作サイドも自覚済みだと推測可能で、その証拠にスピッツは過去作の高品質盤を、2002年には「Spitz 2002 Remaster Series」として、2008年にはSHM-CDで、2017年にはレコードでそれぞれリリースしており、後発のフォーマットほど音質上の不利がない印象です。勿論本作も現状では最新のリマスターCDとなるので、音源をハイクオリティで鑑賞するには充分でしょう。
ミスチルもベスト盤はリマスタリングされていますし、18th『REFLECTION』(2015)ではUSBアルバムにハイレゾ音源を収録するなど、音質へこだわる姿勢は窺えます。しかし、僕は先述した通り改善の余地をミックスの段階に求めているので、マスタリングによる影響は間接的なものであるとの捉え方です。ミキサーの名誉のために明記しておきますと、これは決してミックスが技量不足だと言いたいのではありません。バンドが求めた品質に見合う仕事が適切に行われているからこそ、満を持して世にリリースされているわけですからね。ただ、ミスチルの場合はその求める品質(或いはレコード会社から求められる品質)が、良くも悪くも歌謡曲またはJ-POP的だと感じられ、その結果「ボーカルをクリアに/オケは適度に」の、バンドサウンドとしては物足りないミックスになっている気がします。
スピッツに関してもミスチルについても、たとえオリジナルの古い音源で鑑賞しようと、元よりバンドファーストな聴き方が出来る人にとっては、プレイのハイスキルさにもきちんと意識がいくだけのクオリティにはなっているのですが、そうでないリスナーにとっては、リマスタリングもしくはミックスの影響を受けた表層的なアウトプットのみが全てで、そもそもレコーディング後のステップなど意識したことがないがゆえに、前出した誤解に至るとの推測です。本記事のような長文レビューをわざわざご覧になる方は、そも「出来る人」だとお見受け致しますが、非ファン層やミーハー層との乖離が殊更に大きいのは、国民的バンドの宿命であると言えます。
02. 夏の魔物
1991年リリースの2ndシングル曲で、1stアルバムからのリカットです。AOMORI ROCK FESTIVALの愛称、正確にはその由来としても有名かと思います。曲調やサウンドはセンチメンタルながらもリズムは軽快なナンバーで、バンドが出すシングル曲の括りの中では、充分に良曲であると評せるでしょう。ただ、所謂売れ線かどうかの観点で語ると、メロディラインのニッチさがネックになっていると感じます。
というのも、本曲はBメロとサビの境界が曖昧に聴こえ、じわじわと盛り上がりを見せてBメロらしい振る舞いをしている、"幼いだけの密かな 掟の上で君と見た/夏の魔物に"までの旋律を継ぐのが、"会いたかった"の連呼だけであるところに、悪く表現すれば肩透かし感がある気がするのです。スピッツにハマって慣れてくると、「この地味さが最高!」といった前向きな感想に転化出来ますが、それを当時の段階で掴むのは難しかったかもしれません。実際、今でも本曲のBメロとサビの境目はよくわからなくて、当該のフレーズ全体が地味目のサビであるとも、敢えてAメロとBメロだけで構成されるようなアルバム曲的な作り方でこうなっているとも思えます。元々はシングル曲ではなかったわけですから、トラックメイキングの方法論からして違うのではないでしょうか。
歌詞について言及しますと、未だに検索サジェストに表示されるくらいには長らくの間、流産の歌であるという解釈が幅を利かせていた印象です。しかし、今検索してみると同解釈に対するカウンターも多く見られ、昔ほど有力説ではなくなっているようですね。斯く言う僕も懐疑派で、確かに流産をキーワードにすると納得のいく表現もありはしますが、"幼いだけの密かな 掟の上で君と見た"を素直に解釈して、幼い時分にのみ会うことの出来た存在;イマジナリーフレンドやタルパに関する歌ではないかと考えています。"効かなかった"とはいえ、"呪文"が出てくるのも界隈の概念らしいなと。
03. 魔女旅に出る
1991年リリースの3rdシングル曲。01.およびコラム①で述べた通り、スピッツはバンドとしての地力が元より強固なので、ミーハー層とは逆にバンドサウンドのみのイメージが先行しているファン層もいるかもしれません。しかし、本曲がその好例であるように、初期の頃から早くもバンドサウンド以外の音を積極的に取り入れており、表現に対して柔軟であることが窺えます。TNにも記してありますが、この路線はミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』(1992)で昇華されましたね。
全体的にキュートな音遣いが目立ち、特に2番後の間奏部は装飾過多と思えるほどにラグジュアリーな色付けが施されていると感じますが、表題にある「魔女」延いては「魔法」のイメージに合ったサウンドスケープなので、適切なアレンジだと評します。とりわけストリングスとグロッケンシュピールが重なる部分からは、フィクション作品に於ける往年の魔法付与表現たる、キラキラとしたエフェクトが幻視出来そうなほどです。
04. 惑星のかけら
1992年リリースの4thシングル曲。僕が本曲を初めて聴いたタイミングは、発表から10年経った中学生の頃でしたが、当時の青い感性も相俟って、その歌詞内容から詩人としての草野さんのやばさを痛感した記憶が蘇ってきます。笑 その際に衝撃を受けたのは、"君から盗んだスカート 鏡の前で苦笑い"が象徴する、ダイレクトに変態チックなフレーズでした。しかし、今の感性ではそこよりも、"二つめの枕でクジラの背中にワープだ!/ベチャベチャのケーキの海で 平和な午後の悪ふざけ"に見られるような、ラリった言葉繰りに草野節を覚える次第です。"君の夢"と絡めた表現ゆえの、ぶっ飛んだファンタジックさなのだとは思うけれども。
サウンドはTNでの形容が端的で、グランジライクの骨太な音作りが只管に格好良いです。ロックバンドのナンバーとしては文句無しに良曲と断ずるほかありませんが、歌詞の良い意味での気持ち悪さに加えて、あまりパンチがあるとは言えないメロディラインの曲をシングルとして世に出したのは、なかなかに冒険だったのではないでしょうか。
05. 日なたの窓に憧れて
1992年リリースの5thシングル曲。TNでも言及されている通り、曲を通して鳴り続けるシーケンスフレーズによる、ダンサブルなアプローチが印象的です。現時点から振り返って、スピッツの他の全曲を比較対象としても、なお異彩を放っている楽曲だと認識しています。2000年代まで時を進めれば、後の記事でレビューする「ハネモノ」(2002)や、アルバム曲「ババロア」(2002)などの電子的なトラックも登場してきますが、バンドサウンドとのバランスが良く、ハンドメイド感が残るダンスミュージックとの観点では、本曲に栄冠の座を与えたいです。
90年代前半のスピッツの作品の中では、最も気に入っていると言っても過言ではなく、ポップなアレンジに美しくキャッチーなメロディと前向きな歌詞内容で、売れそうな要素だらけなのに、当時のシーンに刺さらなかったのが信じられません。一言で表せばグリッターな;脳内に光彩や黄色が広がって満ちていくようなサウンドスケープを有しており、その世界の中から放たれる"君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で"のストレートさは、まさに陸離とした様相を呈しています。
一方で、ゲーテの言葉にもあるように、強い光と濃い影はセットで訪れるものです。本曲に於いては、"メリーゴーランド"が木霊するパートが、影の役割を担っていると聴き解けます。とはいっても、闇に落ち込むようなネガティブな意味合いではなく、聖域に立ち入ったかの如き静謐さに満ちた音像を、比喩的に影と表した次第です。より俗っぽく言えば、"二人のメリーゴーランド/ずっと このまま"は妄想の産物というか、理想のビジョンを描いた部分だと思うため、現実とは違うけれどもといったエクスキューズを裏に感じて、影としたいのかもしれません。
06. 裸のままで
1993年リリースの6thシングル曲。本記事の前置き部にリンクした『ソラトビデオCOMPLETE』の記事中にも同様のことを書いていますが、売れ線を狙ったのに外したという哀しき楽曲です。曲の内容は意図したクオリティに到達していると感じるので、運悪く世間一般に響かなかっただけのことでしょう。この説明は以前に披露した際にも正式な出典を探せず、依然ソースは脳内のレベルですみませんが、同じく出典なしとはいえWikipediaにも似たような記述があるため、妄言の類ではないと自己弁護します。
ともかく、有名プロデューサーたる笹路正徳さんを迎えて、アレンジも豪華にしてMVも作ったのに、まさかのオリコン圏外という事実だけを見ても、当てが外れたことを推し量れるはずです。TNにある『「派手」なアレンジに、それまでのファンはとまどいを隠せなかった』も哀愁漂う婉曲的なレビュー文で、当時は一般層は疎かファン層にも響かなかったのだとしたら、本曲に対する同情を隠しきれませんね。
何だかディスり気味の文章になってしまいましたが、本曲の良さをフォローする用意が僕にはきちんとあります。バンドサウンド以外の音;ここではキーボードとストリングスとサックスによるキャッチーな装飾があるからこそ、ボーカルラインの流麗さが対比されて、その一層の美メロっぷりが顕となっていますし、歌詞の"二人ここにいる 裸のままで"や、"どんなに遠く 離れていたって 君を愛してる"に代表されるような、気恥ずかしいくらいの直球さに見合う音作りとして、バンドサウンド以外のアプローチは、功を奏していると言うほかありません。更に言えば、きちんと毒気が残されているのも評価点で、本曲の中では異物感が満載のフレーズ、"地下道に響く神の声を 麻酔銃片手に追いかけた"が存在する意味と意義を、あれこれと考えてみるのも一興です。
07. 君が思い出になる前に
1993年リリースの7thシングル曲で、4thアルバム『Crispy!』(1993)からのリカットです。スピッツが広く世間に認知され出したのは本曲からで、バンドにとって不本意な発売経緯である点で悪名高いベスト盤『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』(1999)の幕開けを飾るナンバーでもあるため、ミーハー層の中には本曲がデビュー曲だと勘違いしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、売れたことから来る結果論のように響くかもしれませんが、タイアップ等の外部要因を排して純粋にサウンドだけを取り立てても、この7thからバンドの印象が垢抜けたものに変わったと感じるので、スピッツのサウンド史に於ける区切りという意味では、メルクマールたり得る楽曲だと評せます。本曲はリカットゆえ、厳密には8thからとするべきかもしれませんけどね。
王道で美麗なメロディラインの出色の出来栄えだけでも、ヒットナンバーの風格を備えていると主張したいくらいですが、草野さんにしてはわかりやすい曲名と歌詞内容であったことも、ヒット要因のひとつであると分析しています。表題の"君が思い出になる前に"は、現在にフォーカスしたシンプルな表現でありながら、同時に「これまで」と「これから」を想像させる余地があって、非常に機能的な一節です。この余地に個々人のエピソードを重ねやすく、誰しもが経験する別れの場面に相応しい音楽となるのでしょう。"優しいふりだっていいから 子供の目で僕を困らせて"という、実に大人な我儘にも共感しきりです。
08. 空も飛べるはず
1994年リリースの8thシングル曲。言わずと知れたスピッツの代表曲ですが、TNにもあるように発売から2年後にドラマ『白線流し』とのタイアップでホームランを放ったのは、5thアルバム『空の飛び方』(1994)に収録の「(Album Version)」のほうで、本作に収録されているシングルバージョンとは異なります。プロデューサーやボーカルテイクの違いこそあれ、ドラマの主題歌に起用される前の段階でも、中ヒットは飛ばしていたと言えるチャート戦績なので、人口に膾炙する曲としての素質は元より充分にあったと言えるでしょう。
ファンではない人でも口遊めるくらいに有名になったがゆえに、もしくはドラマの作品内容のイメージが先行してか、爽やかで健全なラブソングないし感動の涙を誘う卒業ソングとの受け取り方も王道ですが、そのような清い世界観の中に"隠したナイフ"や"ゴミできらめく世界"などの尖った一節が潜んでいることに、もっと言えばそういう曲が売れたことに対して、ファンとしてはにやりとしてしまいます。
09. 青い車
1994年リリースの9thシングル。08.と同様、5thアルバム収録の「(Album Version)」とは異なるシングルバージョンです。感覚的な理解を披露しますと、曲題にある「青」のサウンドスケープを持つナンバーであるとの印象で、ボーカルにもオケにもくぐもった質感が付与されている点が、「水」延いては「海中」のビジョンを想起させると描写します。"君の青い車で海へ行こう"からの、"そして輪廻の果てへ飛び降りよう 終わりなき夢に落ちて行こう"は、まるで精神世界でダイビングを敢行しているようだと解釈したいです。一方で、"潮のにおいがしみこんだ 真夏の風を吸い込めば"は現実の風景を切り取っていて、その"風"にシンクロさせれば"心の落書きも踊り出すかもね"とのサジェストでもって、前出した精神的な心象風景と紐付ける流れが構築されているのかなと思いました。
…と、これは素直に情景を受け取るスタイルでの解釈ですが、裏に潜んだ意味を深読みする路線も昔から一定数の支持を得ているとの認識です。そういった考察好きの人達の間でも、生の歌と取るか死の歌と取るかで割れている気がします。"冷えた僕の手が 君の首すじに咬みついてはじけた朝"や、"そして輪廻の果てへ飛び降りよう 終わりなき夢に落ちて行こう"などは、確かに生死に纏わる表現と解せなくもありません。"輪廻"という生死が表裏一体のワードが象徴しているように、どちらを感じ取ったとしても根源は同じなのでしょうけどね。ただ、"生きるということは 木々も水も火も同じことだと気付いたよ"で真理を得、"愛で汚された ちゃちな飾りほど 美しく見える光"と紡げるのであれば、僕はこれを死へと向かう歌だとは思いません。有り体に言えば、「どうせいつかは死ぬんだから生きてみるか」の境地ではないかな。
10. スパイダー
1994年リリースの10thシングル曲で、5thアルバムからのリカットです。07.では悪名高いと腐してしまった『RECYCLE』ですが、実は僕も最初にふれたスピッツとの思い出の一枚は同盤でして、その中では本曲がいちばんのお気に入りでした。カントリー的な疾走感のあるナンバーで、歌詞の"だから もっと遠くまで君を奪って逃げる"の通りに、逃避行のテーマソングに相応しい仕上がりとなっています。この疾走感または逃避行に関連する楽想上の妙味として、以降にはとてもニッチなツボを紹介しましょう。
言及の対象とするのは、アウトロに相当するフェードアウト(F.O.)のセクションで、具体的にはF.O.部分に新要素があるのを高く評価しています。歌詞で示せばラスサビで新たに登場する、"力尽きたときはそのときで"以降の展開を指しており、ここの途中からF.O.がスタートする点がユニークであるとの主張です。今はF.O.で終わる曲自体の数が減っている気がするので、特に若年層はピンとこないかもしれませんが、昔は曲の締め方としては珍しくありませんでした。これは言わば省略的なテクニックで、既出のフレーズの繰り返しであるからこそ、F.O.でクロージングさせても問題ないといったロジックが、作編曲上の背景にあるものだと推測されます。
しかし、本曲の場合は新出の歌詞が出てきた途端にF.O.が開始するのが意外で、通常であれば聴かせどころとなるであろう部分が消え入る最中に放り込まれるという、チャレンジングな楽想となっているのです。並のセンスであれば、F.O.位置はラスサビ内で4回目の"だから"に設定すると思います。このことの何が疾走感および逃避行に関連するのかについては、詳細な説明を加えていたら内容が非常に長くなってしまったので、続きは以下のコラムを参照してください。
コラム②:フェードアウトクロージングの魅力
僕の認識の中では、F.O.で曲を閉じること自体が逃避のイメージと結び付いています。譜面上に終点を設定せずに曲を閉じることは、音源上でのみ可能なテクニックであるため、純粋な作編曲に於いては、ある種の逃げではないかということです。近年の楽曲にF.O.終わりが少ないのも、たとえばそれがシングル曲ならば、アルバムに収録する際に最後の曲に据える以外の配置が難しくなりますし、ライブ演奏ではなおのことF.O.で楽曲を締めにくくなり、どのみちきちんと閉じるアレンジも考えなければいけない点で二度手間となるので、わざわざ選択されなくなってきたのでしょう。
しかし、この「スパイダー」のように、逃げることそのものがテーマとなっている曲であれば、F.O.は寧ろ打って付けのクロージング方法だと考えます。なぜなら、未だ曲が継続しているのにも拘らず、それをほっぽり出してしまう(ように聴こえるオケにした)のは、主題たる逃避を強調する意味合いになるからです。況してや、新出要素が出て来たばかりなのにF.O.が始まるとくれば、それは驚きを伴った逃避となるため、聴き手としては「やられた!」と唸ってしまいます。逃避行という言葉は駆け落ち的な使われ方;つまり恋愛感情が付随する使用が多いと見ていますが、そう捉えると驚きを伴った逃避とは文脈上或いはストーリー上では、二人の仲を引き裂こうとしている存在(e.g. 両親、恋敵、時勢)に対して一泡吹かせてやったといった解釈が可能となり、この奪取の鮮やかさに疾走感を覚えないわけがありません。この連想が、F.O.と逃避行と疾走感の三者を繋ぐものです。
ここからは余談ですが、F.O.に纏わる個人的な好みを開示してみようと、当ブログ内を「フェードアウト」で検索してみたところ、少なくともこの記事とこの記事に於いては、近年の楽曲にF.O.終わりの楽曲が減っていることに対して、寂しさを滲ませた文章を確認出来ました。後者はフレデリックのエントリーで、詳細は同ブログテーマ内にある他の投稿も参照していただければと思いますが、同バンドは2009年から活動を開始した比較的最近の存在ながらも、サウンドには敢えて80~90年代の懐かしいテイストを取り入れているので、F.O.でのクロージングもよく馴染んでいるのです。こう感じてしまうことから、やはりこの手法は現代らしくないのだろうなと独り言ちます。ちなみに、フレデにはそのまま「逃避行」(2019)と題されたナンバーもありますが、こちらは残念ながらF.O.していません。笑
他にぱっと思い付いた逃避行ソングで例示しますと、APOGEEの「Runaway Summer」(2014)も非F.O.ですし、古くは麻生よう子の「逃避行」(1974)も素直な曲の終わり方をしているので、雑過ぎる推測ながら80~00年代前半あたりまでが、F.O.クロージングの絶頂期だったのではとまとめます。話をスピッツに戻して、当ブログでレビュー済みの楽曲では他に、「あじさい通り」(1995)の記事内にもF.O.への言及があり、そこでは「フェードアウトしつつもきちんと演奏が終了するタイプ」と、合わせ技の閉じ方を絶賛していました。
11. ロビンソン
1995年リリースの11thシングル曲。08.以上の知名度を誇り、後の13.と双璧をなす形で、スピッツの最たる代表曲のひとつと言えます。ただ、それゆえに特に世の男性陣は、次のような罠に陥ったことがありませんでしょうか。周囲にスピッツ好きを公言していた場合、カラオケで女性陣から無邪気に出る「ロビンソン歌ってよ」の一言。…いやいや、無理だから。最高音hiC#(裏声)の存在とhiB(地声)の頻出を含めて、乱高下の激しいラインの歌いにくさを舐めてはいけない。このエピソードは以前にも当ブログ上に書いた記憶があるのですが、現在は非公開となっている日記テーマ内での話だったため、この場を借りて再掲した次第です。ともかく、容易に乗り熟せない旋律というものは、それだけで感動に繋がり得ることを証明する好例として、本曲の凄さを再認識したとしておきます。
歌詞で殊更に好みなのは、"二人だけの国"という表現です。世界ではなく、"国"であるのがポイント。10年以上前に某所でこの独創性についてふれたら、「別にそれは凄くない」と返して来た人がいて、やけに腹が立ったのを覚えています。今改めて歌詞に於ける語彙使用のコロケーション(「二人」と「世界」および「国」との結び付き)をざっと調べてみても、反論者の考えのほうが浅いと断ずるほかありません。二人だけの世界では漠然とし過ぎていて陳腐に響きかねない場面で、統治機構を有した"国"を選んでいるところに特別の意味を見出していたのですが、その点は全く伝わらなかったようです。
おそらく当該人物の認識の中では、世界も国も大差のない概念だったのでしょう。他の言葉の例を挙げて批判を続けますと、この手の認識からは「祈り」と「願い」を同一視していることに似た違和感を覚え、近しい概念の二語の差異を驚くほど意識しない人種は哀しい哉、受け手の側は疎か表現者サイドにすら跋扈しているとの分析です。表現者が言葉のひとつひとつに意識を払って構築した歌詞世界を、このような誤謬の中に引きずり込んで矮小化してしまうのが、この手の混同の罪深さであると唾棄します。今後の内容の先取りですが、後の記事に載せたコラム④は、作詞に於いて表現者と受け手が陥りがちな蒙昧をテーマのひとつとしているため、文章創作に於けるイデオロギーに敢えて塗れたい方には面白いかもしれません。
12. 涙がキラリ☆
1995年リリースの12thシングル曲。歌詞のわかりやすさで言えば、07.に匹敵するほどに一般向けな内容だと捉えています。下手に解釈を捏ね繰り回すよりも、描写通りに受け取るのが吉だと思うタイプのナンバーです。TNにあるように「七夕布教活動」の一環で発売日が7月7日に調整されたそう(水曜ではなく金曜の発売)なので、フレーズの端々に七夕や納涼大会を匂わせる部分があります。お気に入りの一節は、"君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから"で、前向きなのにスケールが小さいところに、"俺"の精一杯の勇気が窺えて素敵です。
メロディもアレンジもポップであるため、正しく売れ線に仕上がっていると評していいと思いますが、終始ベースが楽曲をリードしているとわかる点に関しては、実にロックだなと感心します。ギターの質感もバンドサウンドに寄せてあり、ともするとハードに響いてしまいそうではあるのですが、やはり総合的には聴き易いアウトプットになっており、01.に記したようなJ-POPらしさと洋ロックらしさが、幸福な融合を果たしたがゆえの、これぞスピッツなワークスであると結びます。
13. チェリー
1996年リリースの13thシングル曲。11.では認知度の点で、同曲と双璧をなすと述べた超有名曲です。11.と異なるのは、カラオケでリクエストされても、動揺せずに済むところかもしれません。笑 冗談はさておき、実はこの「動揺せずに済むところ」に本曲の凄さの一端が表れていると考えています。実際の記憶を辿っても想像でも構いませんが、他人の下手くそな歌唱による「チェリー」を聴かされたとしても、それで気分を害する人はそうそういないのではないでしょうか。僕は寧ろ微笑ましいと思ってしまうくらいで、それは即ち楽曲自体の包容力が群を抜いて高いことを示唆しています。誰もが知っているレベルの定番曲となると、上手く歌えなくても許される傾向にそもそもありますが、それでも本曲ほど老若男女に寛容心を芽生えさせるナンバーは、非常に稀有ではないかと主張したいです。この文脈下では反例となってしまいますが、「ロビンソン」は上手く歌えないと楽曲自体が成立しないので厳しいですよね。
知名度が抜群なだけに、サビの歌詞のみが独り歩きしている気がしますが、全体を見れば別れの趣が強い内容だとわかるかと思います。とはいえ、次へと歩みを進めて行くような前向きな言葉繰りが披露されているため、ポジティブな歌であることに疑いはありません。"いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい"と、再会も意識しているわけですしね。ただ、個人的には…というか本曲の意図を察するに、歌詞中の"僕"は二度と"君"と会うことはないのだろうなと感じます。それは"僕"も自覚済みであるので、"君を忘れない"だったり"二度と戻れない"だったりの表現が出てくるのでしょう。"君とめぐり会いたい"はあくまでも願望で、それもおそらく「偶然に」といった側面が強いと捉えています。
だからこそ別離後を想定した心構えの提示が巧くて、"きっと 想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる"、"「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ"、"ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ"などのフレーズが、金言となってリスナーの心に優しく寄り添うわけです。"きっと"に"気がした"と、何一つ断定していないのも切ない。
14. 渚
1996年リリースの14thシングル曲。本曲も01.と同様、特記はないけれどシングルとアルバムでバージョンが異なり、本作に収録されているのは当然前者です。個人的には後者にのみ存在する、イントロの打ち込みパートに於ける「水」の表現力を高く買っているため、前者には物足りなさを感じてしまいます。09.でも『「青」のサウンドスケープ」という形容で、「水」に結び付ける記述を行っているので、以下では引き合いの対象としました。
09.の総合的な印象を「死へと向かう歌だとは思いません」と書いたのとは逆に、本曲については「死の匂いを強く残している」との認識です。歌詞に"行きついたその場所が 最期だとしても"とあるのが、こう思う理由の決定打ですが(「最後」ではないのがミソ)、モチーフが「渚」であること自体も、その根拠になり得ると考えています。この語が陸と海の境界を指していることも一例と見做して、逢魔が時然り三途の川然り、陰陽の狭間を表す言葉には、死のイメージが付き纏うものです。便宜上、陸が陽で海を陰として扱った場合、本曲の歌詞は陰側へと誘う内容であると解釈可能なので、少なくとも陸での生活は捨て去るつもりだと読み解けます。"水になって ずっと流れるよ"を経て"最期"を覚悟する心境に、「再び雨となって陸へ…」的な循環の意識は最早ないものと受け取りました。循環をキーに換言して、09.が"輪廻の果てへ飛び降りよう"ならば、本曲からは「輪廻の外へはみ出そう」とのメッセージ性を感じます。
サウンドメイキングの面でも曖昧の美学が感じられ、曲から受ける全体的な印象を「明るい」にも「暗い」にも絞れない、絶妙なコード感が味わい深いです。ただ、"輝いて…"のセクションで陥る翳りと、アウトロの消え入りそうなギターの物悲しさは、死を思わせるのに充分なグルーミーさに満ちた仕上がりなので、二者択一にするのであれば「暗い」を選びます。
15. スカーレット
1997年リリースの15thシングル曲。8thアルバム『フェイクファー』(1998)収録の「(Album Mix)」ではなく、オリジナルのミックスによるバージョンです。14.とは異なり新規パートが存在するわけではありませんが、先にアルバムのミックスに馴染んでしまったからか、シングルのほうには違和感があります。
今更の案内で恐縮ながら、当ブログ上に於けるメロディの区分方法や使用語彙に関する詳細な解説については、この記事をご覧ください。以降はその内容に沿って、メロディ構成に関連したレビューを展開します。本曲の楽想は至ってシンプルで、二種類のメロディラインが交互に出てくるだけのつくりです。リンク先から個人的に最適だと思う表記法を借りれば、洋楽風に「ヴァース-コーラス形式」で処理したいタイプとなります。
僕がユニークだと評したい要素は、これらの二種のラインのうち、どちらがヴァース(Aメロ)でどちらがコーラス(サビ)なのかが判然としない点です。基準となる呼称として、"離さない"~を仮に甲、"乱れ飛ぶ声に"~を仮に乙と規定しますと、甲がサビで乙がAメロという理解も、反対に甲がAメロで乙がサビという理解も、共にアリな気がしないでしょうか。単純にスタンザ数で比較すれば甲:乙=3:2なので、繰り返しが多い甲をサビとするのが王道だとは思いつつも、甲をAメロとして乙への大胆な変化をもってサビとするのも、これまた王道に聴こえます。つまるところ、甲も乙も役割上は同価値の旋律であるとの認識でいるため、J-POPのフォーマットたる「Aメローサビ形式」では表しにくく、前出した「V-C形式」は便宜的に出した区分案ゆえ洋楽'風'と断っておきましたが、実際にも洋楽的なトラックメイキングになっていると主張したいです。この手の実験的なつくりのナンバーを、バンドが売れに売れている時にリリースした挑戦心が、まさにスピッツらしいと結びます。
以上、Disc 1に収められている全15曲のレビューでした。総括的なことは「その3」の記事でまとめて述べるので、本記事の〆には続きとなる「CYCLE HIT 1991~2017 / スピッツ その2」の記事へのリンクを貼るだけにしておきます。
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