少し前ですが、韓国では「朱蒙」(チュモン)などの歴史時代劇が次々と放送されました。私も朱蒙や「ヨンゲソムン」を見て高句麗の歴史を学びましたが、そのドラマはある目的があって作られたということを最近になって知りました。
それは高句麗という古代の国が今の中国に属するのか、韓国や北朝鮮に属するのかが学者の間で問題になっていたからでした。そのため韓国の立場を明らかにするために作られたのが朱蒙やヨンゲソムンなどだったのです。
以下の文章は「高句麗市史の帰属をめぐる韓国・朝鮮と中国の論争」新潟産業大学文学部の資料からコピーしたものです。ネットで「中国から見た高句麗」で検索すると出てきます。
高句麗史の帰属をめぐる韓国・朝鮮と中国の論争
高句麗は紀元前1世紀頃から紀元668年まで中国東北地域と朝鮮半島北部地域にまたがって存在した東アジアの古代王国である。高句麗については、従来、朝鮮の古代史と 見なされてきたが、1980年代頃から中国の歴史学界において高句麗は中国の歴代の中央 政権に隷属・臣属された地方政権であり、そのために中国の歴史に属するという主張が なされた。1980年代頃までは高句麗が中国東北地域だけではなく、朝鮮半島北部地域に までまたがって存在した点が考慮されたため、一方的に高句麗は中国の地方政権である という主張よりは、西暦427年に高句麗が現在の中国境内の国内城(吉林省集安市所在) から平壌へ都を移した後は朝鮮の古代史と見なし、高句麗の歴史は中国史でもあり、朝 鮮史でもあるという、いわゆる「一史両用」論が主流であった。ところが、1990年代の 後半から高句麗は中国の歴代の中央政権に隷属・臣属した地方政権であり、高句麗が領 有していた朝鮮半島北部地域も中国人が建国した箕子朝鮮・衛満朝鮮の故地であり、漢 四郡が置かれたところであるから、朝鮮半島北部地域も中国の縁故地であり、高句麗は 完全に中国の歴史に編入されるべきであるという主張が強まった。特に2002年2月に中 国社会科学院が「東北辺彊の歴史と現状に対する系列研究プロジェクト」(略称「東北プ ロジェクト」、以下本稿ではこの略称を用いる)という研究プロジェクトを立ち上げ、韓 国・朝鮮と歴史論争の素地のある古朝鮮・高句麗・渤海の研究を同プロジェクトの重要 な課題にしてから、高句麗を中国史として見なすべきであるという主張が中国でさらに 強まった感がある。一方、中国社会科学院の「東北プロジェクト」の実体が韓国に伝わ り、中国政府が高句麗史の中国史編入を目的にこの国策研究プロジェクトを推進していると見なされ、2003年12月頃から韓国の歴史学界・言論・市民団体から強い反論・反発 の声があがり、韓国政府も外交ルートを通して中国にこのプロジェクトに対する憂慮を 伝えたと言われる。北朝鮮の反応は現在のところ公式的に出されていないが、北朝鮮の 従来の歴史観から、高句麗史の中国史編入を容認しているとは思えない。
日本と韓国・朝鮮の間では、かつて「任那日本府」の実体、高句麗の「広開土王碑」 の碑文の内容をめぐって歴史論争が起こったことがあり、1980年代には日本と韓国・朝 鮮、中国との間に日本の歴史教科書の記述をめぐって論争になり、外交問題にまで発展 したことがあった。今回の高句麗史をめぐる論争も東アジアにおける歴史論争の一つで あり、中国と韓国・朝鮮の間の歴史認識の問題だけではなく、東アジア史をどういうふうに捉えるべきか、東アジアにおいて歴史をどういうふうに共有すべきなのかという問 題でもあり、今後、東アジアにおいて未来志向的地域共同体を形成していく上でも是非 解決すべき課題である。
それは高句麗という古代の国が今の中国に属するのか、韓国や北朝鮮に属するのかが学者の間で問題になっていたからでした。そのため韓国の立場を明らかにするために作られたのが朱蒙やヨンゲソムンなどだったのです。
以下の文章は「高句麗市史の帰属をめぐる韓国・朝鮮と中国の論争」新潟産業大学文学部の資料からコピーしたものです。ネットで「中国から見た高句麗」で検索すると出てきます。
高句麗史の帰属をめぐる韓国・朝鮮と中国の論争
高句麗は紀元前1世紀頃から紀元668年まで中国東北地域と朝鮮半島北部地域にまたがって存在した東アジアの古代王国である。高句麗については、従来、朝鮮の古代史と 見なされてきたが、1980年代頃から中国の歴史学界において高句麗は中国の歴代の中央 政権に隷属・臣属された地方政権であり、そのために中国の歴史に属するという主張が なされた。1980年代頃までは高句麗が中国東北地域だけではなく、朝鮮半島北部地域に までまたがって存在した点が考慮されたため、一方的に高句麗は中国の地方政権である という主張よりは、西暦427年に高句麗が現在の中国境内の国内城(吉林省集安市所在) から平壌へ都を移した後は朝鮮の古代史と見なし、高句麗の歴史は中国史でもあり、朝 鮮史でもあるという、いわゆる「一史両用」論が主流であった。ところが、1990年代の 後半から高句麗は中国の歴代の中央政権に隷属・臣属した地方政権であり、高句麗が領 有していた朝鮮半島北部地域も中国人が建国した箕子朝鮮・衛満朝鮮の故地であり、漢 四郡が置かれたところであるから、朝鮮半島北部地域も中国の縁故地であり、高句麗は 完全に中国の歴史に編入されるべきであるという主張が強まった。特に2002年2月に中 国社会科学院が「東北辺彊の歴史と現状に対する系列研究プロジェクト」(略称「東北プ ロジェクト」、以下本稿ではこの略称を用いる)という研究プロジェクトを立ち上げ、韓 国・朝鮮と歴史論争の素地のある古朝鮮・高句麗・渤海の研究を同プロジェクトの重要 な課題にしてから、高句麗を中国史として見なすべきであるという主張が中国でさらに 強まった感がある。一方、中国社会科学院の「東北プロジェクト」の実体が韓国に伝わ り、中国政府が高句麗史の中国史編入を目的にこの国策研究プロジェクトを推進していると見なされ、2003年12月頃から韓国の歴史学界・言論・市民団体から強い反論・反発 の声があがり、韓国政府も外交ルートを通して中国にこのプロジェクトに対する憂慮を 伝えたと言われる。北朝鮮の反応は現在のところ公式的に出されていないが、北朝鮮の 従来の歴史観から、高句麗史の中国史編入を容認しているとは思えない。
日本と韓国・朝鮮の間では、かつて「任那日本府」の実体、高句麗の「広開土王碑」 の碑文の内容をめぐって歴史論争が起こったことがあり、1980年代には日本と韓国・朝 鮮、中国との間に日本の歴史教科書の記述をめぐって論争になり、外交問題にまで発展 したことがあった。今回の高句麗史をめぐる論争も東アジアにおける歴史論争の一つで あり、中国と韓国・朝鮮の間の歴史認識の問題だけではなく、東アジア史をどういうふうに捉えるべきか、東アジアにおいて歴史をどういうふうに共有すべきなのかという問 題でもあり、今後、東アジアにおいて未来志向的地域共同体を形成していく上でも是非 解決すべき課題である。