ノート代わりに氣になる記事を集め保存してます私感を加えずに殆どがコピペ資料ですので悪しからず.....
海津波 2:11〜山津波 1:11〜
辰年の元日に大地震……『震』の中に「辰」が含まれてるなんて改めて気付かされる。
「令和6年能登半島地震」と命名された元日(1月1日)の被災『311』『611』『911』=369=ミロクコロナ=五六七=みろく陸上では国道・県道には各県ナンバーの支援車両が被災地へ……自衛隊、緊急車両(消防車)、高電圧車両などが奥能登方面へ向かうも各箇所で寸断されてるため渋滞しながら迂回路経由にて遅延し現地に……停電、断水が未だに復旧せず避難場所によっては真っ暗、大勢の方が排泄後トイレ水が流せない夏のコロナ禍が弛んだと思いきや、冬とはいえ衛生上よろしく無い。クリスマス大寒波のような大雪があったら凍える寒さで難航……海上では各港がひび割れ液状化しており近付けない状態。上空には救済(ドクター、自衛隊)ヘリ、取材ヘリ・セスナがひっきりなしに飛んでいる。
スマホの緊急地震アラームが深夜、暗い中に大音響で鳴り響き数秒後に何度も大きな揺れが……またかと驚き目を醒ます毎晩……日中にガレージから車で出ようにもあちらこちらで電信柱は傾いてるし道が亀裂してるし地滑りしていて段差だらけでまだまだ通行不能箇所が多い初震から間も無く二度目は長〜〜い揺れ震度7で特に書斎の2階は激しく左右の本棚2つを両手両足で必死に押さえたが後ろの大型TVが倒れた……
元日の16:10頃に発生した石川県羽咋市も断水、道路の地割れ・隆起・陥没で被害が起きました……
■沖縄決戦と「大和」の最期 1945年(昭和20年) 国と沖縄を救うために必死の攻撃を行った神風特攻隊。 昭和十九年七月七日、サイパン島の日本軍は玉砕し、多くの民間人が自決した。サイパンからは米大型爆撃機の行動範囲に東京が入る。まともなリーダーシップがある国ならば降伏するところだが、日本にはそれができず、東條内閣が総辞職しただけであった。 同年十月、フィリピンにおけるレイテ湾での戦闘で、初めて神風特別攻撃隊が出現した。それまでも〝決死隊″というのはあったが、“必死隊”という概念は、日本軍にもなかった。だが、すでに日本軍が必ず敵を斃すためにはこれしかなかったのである。続いて硫黄島、次は沖縄であった。多数の民間人の住むところが近代戦の戦場になるということを、日本人は初めて体験した。沖縄戦では、大量の神風特攻隊が出撃した。そのパイロットの多くは空中戦をできるほどの練度をまだ持たない若者たちであった。 アメリカ側が戦後に発表したものに基づく「カミカゼ」の実態は、伊藤正徳『大海軍を想う』によると、日本軍が沖縄戦の期間中「カミカゼ」で失った飛行機は約二千八百機、それによって被害を受けた米海軍の軍艦は戦艦十隻、空母九隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦百十人隻、その他四十隻の百八十二隻である。そのうち沈没したのは十三隻であった。アメリカ艦隊司令官のスブルーアンス捷督の座乗艦もカミカゼの攻撃を受け、二度も別の艦に移らなければならなかった。 沖縄のアメリカ海軍は物質的にも精神的にも打撃を受け、「なお数日、カミカゼの攻撃が衰えない場合は一時退却して、再挙の方法を考えるべし」という説に傾いたという。 特攻攻撃は空中に限らず、水中では魚雷を操縦する「回天」が特攻を行った。そして昭和二十年四月、世界最大、そして史上最大の戦艦「大和」に沖縄への特攻命令が下った。大和と連合艦隊の残存部隊九隻は航空機の援護もなく、帰還用の重油も持たずに米艦隊に包囲されている沖縄に向かった(大和は沖縄の海岸に乗り上げて艦砲射撃する予定だったというほうが正しいだろう)。そして、翌四月七日、鹿児島県南方の東シナ海で、米軍機のべ三百五十機の猛攻を受けて大爆発を起こし、沈没した。 カミカゼも戦艦大和も沖縄を救うことはできなかった。しかし、救うために必死の攻撃を繰り返したことは確かである。日本の最後の戦艦「大和」も三千機に近い特攻機も、沖縄のために出撃したのであり、沖縄の犠牲になったのだ。本土においても戦禍が実にひどかったことは、東京をはじめとする大都市無差別爆撃や原爆でも知られよう。沖縄だけがひどい目にあって、本土は無事だったということはない。一般住民の死傷は沖縄を超えていた。そのことは沖縄の人たちにも無視してもらいたくないと思う。 (⇒特攻隊教官[後に続くを信ず]) (⇒[沖縄集団自決の真実][昭和天皇独白:沖縄戦])
[日本の歴史]を読んで日本の歴史:読む年表より その3 渡部昇一氏の名著[日本の歴史]から個人の好みで抜粋しました。学校で習った日本史が如何につまらないものだったのか、思い知らされました。GHQにより、奪われた日本の歴史について多くを語っています。是非、山本七平[日本人とは]とあわせ原文をお読み下さいますよう。 GHQが抹殺した日本史の真実については[GHQ検閲Ⅰ][GHQ検閲Ⅱ][GHQ検閲Ⅲ]を参照下さい。大東亜戦争については[これだけは知っておきたい大東亜戦争]に丁寧に纏められています。■ミッドウェー海戦 1942年(昭和17年) 第二次大戦全体の分水嶺となった日米機動部隊の激突。 日本軍と互角に戦える敵はアメリカだけであった。イギリスもフランスも、オーストラリアもオランダも、問題にならなかった。日本はまさに破竹の勢いで勝ちまくっていたのである。 その日本軍の命運を分けたのがミッドウェー海戦(昭和十七年六月五日~七日)であった。当時、十隻以上もの航空母艦をもって機動部隊を編成できたのは日本とアメリカだけだった。この海戦は、二国のいわば一騎討ちであった。 普通に考えれば日本は圧倒的に有利であった。日本の主力空母は四隻、アメリカは三隻。しかも一カ月前の珊瑚海海戦のときは第二級の機動部隊が米空母を撃沈している。にもかかわらず、日本はミッドウェーで惨敗した。それは日本が油断しきっでいたからである。 無敵を誇っていた零戦の活躍は、この時もまさに鬼神の如きものであった。三十六機の零戦はアメリカの戦闘機約五十機を叩き落として完全に制空権を握り、敵空母から襲ってきた雷撃機約七十機も殆ど全て撃墜して、わが方の零戦は何と一機も失われなかった。 悲劇は、その直後に雲を利用して来襲した艦上爆撃機による急降下爆撃によって起こった。航空母艦の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったのは、正に油断としか言いようがない。米雷撃機隊は零戦に撃ち落とされる事がわかっていながら、その後の急降下爆撃を成功させるため、進んで囮となったのであった。日本の空母は炎上沈没し、日本海軍は完敗した。 俗に「運命の五分間」と言われる。「米空母の気配なし」と判断した南雲忠一司令長官は、ミッドゥエー島の陸上基地攻撃に作戦を変更、攻撃機の艦船攻撃用魚雷を陸上攻撃用の爆弾に換装するよう命じた。その作業がまさに終わろうとするころ、「敵空母艦隊発見」の報が入ったのである。南雲司令長官は魚雷から爆弾への再換装を命令した。その間に空母は急降下爆撃を受けて、わが軍の攻撃機が次々に誘爆し、手のほどこしようがなくなってしまったのである。あと五分敵艦発見が早ければ、再換装があと五分早く終わっていれば……という訳である。 敵艦隊発見の報を受けた時、空母『飛龍』に座乗していた山口多聞少将は、再換装などせず陸上爆弾搭載のまま攻撃機を発進させるよう進言したが、南雲長官に却下されてしまった。しかし、これは山口少将の一言うように、魚雷でなくても構わないから、とにかく飛行機を発進させて敵空母の攻撃に向かうべきであったろう。攻撃機は狭い甲板と格納庫で身動きがとれないまま、いたずらに爆発していったのである。 山口少将は、他の三空母がもはや沈没寸前なのをみて、ただ一隻となってしまった空母『飛龍』で敢然と米機動部隊に向かって反撃を開始し、敵主力空母『ヨークタウン』を大破させる(後に潜水艦伊168号が撃沈)。だが、奮戦むなしく『飛龍』も戦闘能力を奪われると、山口少将は「総員退艦」を命じ、加来止男艦長(大佐)とともに、自ら艦と運命をともにした。(⇒[闘将-山口多聞中将]) 昭和十九年六月十九日のマリアナ神海戦では、日本側が一方的にやられるだけであった。アメリカは優れた電波探知機と新型の対空用砲弾を開発していた。更に、殆ど無傷で不時着した零戦を手に入れ、これを徹底的に研究して零戦に対抗できる新鋭戦闘機グラマン・ヘルキャットを投入した。しかも日本にはすでに熟練の飛行士が殆どいなかった。零戦の優位性は失われ、零戦を撃ち落とすのをアメリカでは「マリアナの七面鳥撃ち」と称した。あの恐ろしい零戦は、もはや七面鳥なみになった。日本はまっしぐらに敗戦に向かっていく。 もし日本がミッドウェーで勝っていたら、米陸軍は西海岸に集結せざるを得ず、イギリスを援護するどころではなくなっていた。となればドイツがヨーロッパの覇者となっていたであろう。ミッドウェー海戦はまさに第二次大戦全体の分水嶺となったのである。
◆略奪・暴行至らざるなし …ソ連参戦の惨劇 広島に原爆が投下された二日後の八月八日、ソ連は未だ有効期限の切れていなかった日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦を布告して、怒涛のやうな進軍を開始した。 周知のやうにこれには裏があり、同年二月のヤルタ秘密協定により、スターリンはドイツ降伏後三カ月以内に参戦することをルーズヴェルト・チャーチルと申し合せていたのである。当時の日本はこれを全く知らず、必死になって、大真面目でソ連に和平の仲介を求めていた。「日本外交の間抜けさ加減は、凡らく世界外交史上稀有の例に属する」との痛恨の思ひを、筆者も又禁じ得ない。 ソ連軍は総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。その上、“弱り目に崇り日”ではないが、不意をつかれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与へることになった。 八月十四日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行至らざるなしといふ有り様であった。火事場泥棒よろしく手当り次第に略奪し、女性と見ては強姦を続けるソ連軍によって、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥った。そのやうな地獄の日々を綴った手記は枚挙に暇がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分に伝はっていないのを遺憾とする。 例へば、「ロシア批判」といふ理由で不許可になった例。 突然、ソ連軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝきこまれた。 目ぼしい家に押し入っては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、中には着ている着物さえもはぎとってゆく者が現れてきたからである。しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾のもとにやられるばかりである。しかし、それ迄はまだよかった。最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落して、男装をしなければならない、実に悲惨な状態におちいってきたのである。(中略) 突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさっと血の気がひいていった。(中略) 私はもう、何がなんだかわからなかった。唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる真っ赤な血潮をぬぐおうともせず…狂気の如く呼びまわっている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残っているばかりである。 このやうな悲劇が、日本の何倍もある広大な満州の地で幾千幾万となく生起したのである。樺太でも、事態は全く同様だった。同じ理由で不許可になった事例を挙げる。 この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始った。婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に伝わる、…。一方時計一個を拒否したゝめ拳銃弾数発を受け紅に染って絶命した有志、…娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…大泊においてのみでも数十名の犠牲者を出すに至り戦々恐々たる数日を経た。 それだけではない。ソ連軍は武装解除した日本軍将兵約六十万人(一説によれば百方人)をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、約六万人を死に至らしめた。これは、北海道占領をトルーマンに拒否されたスターリンが、腹いせに決断した事だった。「一九四五年八月十四日以後に於ける某国の如き侵略行為は世界史上空前の汚点である」とは、幾多同胞の等しく抱いた実感だったに違ひない。 原爆投下とソ連参戦。幾十万もの犠牲者を出した大東亜戦争の二大悲劇も、検閲の壁に阻まれて、未だに国民全体の共有する正史とはなっていないのである。
◆ 宣戦の詔書 今日、大東亜戦争を語った多くの書物は、この宣戦の詔書に全く触れない。これは一にかかつて、占領軍の手に成った「太平洋戦争」史観に、日本人自身が足元を掬はれた結果だと言はねばならぬだらう。 だが、詔書に込められた陛下の思召に、当時の日本人は誠に敏感に反応したのである。例へば、有名な歌人が開戦に際して詠んだ次のやうな歌を味読されたい。 大詔いまか下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ(吉井勇) 大詔かしこみまつり一億の御民の心炎とし燃ゆ(佐々木信網) たたかひは朕が志ならずと宣り給ふ大詔勅にいのちは捨てむ(川田順) 日の本の大宰相も病む我も同じ涙す大き詔書に(与謝野晶子) 永遠の平和のために戦への勅の前に世界聴くべし(土屋文明)しかしながら、敗戦後の占領下ではかうした日本人らしい感情の発露は一切許されなかった。大東亜戦争は「平和へのやむを得ざる手段で」あった、それは開戦の詔書が端的に示すところであると述べた敗戦直後の次の文章も、「軍国主義的」といふ理由の下に、占領軍の検閲によつて掲載を禁じられた。 一体、戦争は戦争のためするものではない。戦争の目的は恒に必ず侵略に非ずして「平和」でなければならぬ。大東亜戦争といえども戦争自体が目的ではなく、「平和へのやむを得ざる手段で」あったことは、詔書によって明示せられている。
◆日系人強制隔離と人種的偏見 そしてもう一つの大きな要因は、米国人の人種偏見にあった。既に我々はその萌芽を、国際連盟による人種平等案否決(一九一九)と排日移民法(一九二四)に見てきたが、大東亜戦争の勃発時に起った日系人強制隔離ほど、米国人の心に巣くふ人種的偏見を露わにした事件はなかった。次の文章は、その事実を指摘して占領軍によって削除された事例である。(削除理由不明) …今回の戦争について見るも、太平洋沿岸諸州に在住していた十二万の同胞が一九四二年三月以後一斉強制退去令の下に五十年の生活と事業の基礎をすて、莫大な損害と名状し難い内心の苦痛を忍んで戦時中収容所生活を余儀なくせられたが如きは、明白に人種的偏見が其背景をなして居り、これを利用した一部米人の悪質な経済的利得を目的とする宣伝と策動の結果である事は自他共に認められて居る。(中略) …太平洋沿岸諸州、即ちワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州に住居して居た同胞十一万八千がその七割が米国生れの日系市民であるにも拘らず、一世も二世も一人残さず、何等の罪状も示されず、何等法廷の保護も与えられず、一斉に強制退去を命ぜられ、米国西部の山嶺、砂漠地方に急設せられた十ケ所の…一種のコンセントレーション・キャンプ[強制収容所]におい込められた…たとへ立退きその事自体は戦時中国防上の必要から憲法違反に非ずとの判決があったにしても、これが人種的偏見に基づくものである事は、同じ立場にあった独逸人や伊太利人等には、この一斉強制退去は発動せられなかった事実に照らしても明白であるから、心ある米国人の中には、この事件を今度の戦争中米国が国内で犯した最大の非アメリカ的失策であると裁断して居る人もある次第である。■ 日系人は危険…70年前の隔離要請決議取り消し 米ロス:2012/6/8共同 米ロサンゼルスの行政委員会は6日、旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃から間もない1942年1月に、日系米国人が危険だとして隔離するよう連邦政府に求めた同委員会の決議を、全会一致で取り消した。 この日系人強制隔離は、広島・長崎への原子爆弾投下と並んで、戦時中に米国の犯した「最大の非アメリカ的失策」であったが、「今度の戦争中」どころか「アメリカ史において市民的自由が侵害された最大の例」だったとしているのは、米国の歴史家ニューマンである。 一九四二年二月に、ルーズヴェルト大統領は、西部沿岸の政治的要求と軍事上必要だという主張に屈して、陸軍が、これらの日系米人たち…を大量に立ちのかせ、…鉄条網を張りめぐらした収容所に入れることを許可したのである。(中略) 一九四四年に、最高裁判所は、憲法修正第五条によって保証された、適法手続を受けるアメリカ人の権利が、このように大規模に侵害されたことを、合意であると判定した。(中略)しかし、…この行為は、アメリカ史において市民的自由が侵害された最大の例であったように思われる。 だがこの事件に対しては、一九八八年(昭和六十三)八月、レーガン大統領が米政府として公式に謝罪し、補償金の支払ひを決定する等、既に米国側もその非を全面的に認めていることを付記しておきたい。 我々はハル・ノートや原爆投下に対しても、米国側の非は非として、粘り強く歴史の真実を主張する努力を、怠ってはならぬと思ふのである。
◆ 恐慌とブロック経済化で、悲劇の持たざる国 占領下では「持たざる国」の言ひ分は全て、厳しい検閲を免れなかった。例へば次の文章の後半部は、「戦争宣伝の擁護」といふ理由で削除された事例である。 恐慌克服策として試みられた国際的協調手段の失敗は、反転して経済的国家主義の世界的伝播と、これに基づくブロック経済形成運動を促進した。 イギリスによる大英帝国囲ブロックの結成を先鞭として世界は幾つかのブロック的野立の様相を呈するに至り、とりわけナチス・ドイツの台頭、日本の進出を根幹として、所謂「枢軸囲」と「反枢軸国」もしくは「持てる囲」と「持たざる囲」の対立・抗争を惹起したことは尚記憶に鮮明である。かくて国際分業の系脈は分断され、世界経済の梗塞化が招来せられた。 現状打破を企図する「持たざる国」側の意慾は西に東に、侵略的版図拡張活動へと進展し、こゝに世界の政治経済の不断の軋轢と混乱を惹起し、その集積がやがて第二次世界大戦の勃発へと導いたことは多言を要しない。 次も同様の事例であるが、かうした排他的ブロック経済が、イタリア、ドイツ、日本の「ファッショ化」の原因を成したとする記述が、「右翼的宣伝」といふ理由の下に不許可になっている。 だが、大観して恐慌後の世界は各国思ひ思ひの道を進んだ。かくて第一次大戦彼の世界経済の姿は、戦前のそれとは全く一変し、そこには一つの世界通貨なく、一つの物債体系なく、ソ連は勿論、英国も、米国も、その他もそれぐブロックを作って割拠し、計画経済又は多かれ少なかれ統制主義を採用しないものはなく、従ってそれらの間の対外貿易は割当ないし求償主義が一般的になった。而して人口多く資源と市場なき伊太利と、領土と資源を奪はれた独逸にはファシズムが起り、同様の事情にある日本もファッショ化して、満州及び支那に進出した。かくて世界経済は全く四分五裂の状態に陥り、ツイに再び武力に訴うる外なからしめた。 もう一つだけ、同様の例を挙げる。これは「軍国主義及び侵略の擁護」となっている。 世界各国がその天然資源なり、生産品なりを長短相補ひ、有無相通ずべきは、天の道であり、自然の法則であり、世界経済の大道である。独逸の開戦理由の一つに「世界資源分配の再吟味」が有力なる要素であった事は世人の記憶にあらう。
◆ ゾルゲ事件 米国がゾルゲ事件の公表に踏み切つたのは、容易に想像される通り、冷戦の結果としてであり、それまでは占領下でもこの種の言論は一切封殺されていた。例へば、次の記事は昭和二十一年三月号の雑誌に掲載予定のものであったが、占領軍の検閲によつて全文掲載禁止にされている。理由は、「日本人の反ソ感情を喚起する」。 その頃[昭和五年]、コミンテルン極東支局は日本の情勢の変転と睨み合せて容易ならぬ焦燥を感じていた。つまり、三・一五、四・一六と相継いで行はれた共産党弾圧に依って、コミンテルンの日本支部[日本共産党]は、どうやら火の絶えた暖炉の如く余温僅かに留むる寂しき存在となった。(中略) かうなると、一朝一夕に日本支部を再建することは出来ないし、尋常な手段を以ってしてはこのファッショ風を防ぐことも不可能なので、…ともかく反ソ戦争に備えての周到な準備として、コミンテルンはその諜報部を拡大強化する方針を決定した。 かゝる本部の方針に基いて、極東支局の指令を帯びた一人の独逸人リヒアルト・ゾルゲが、所も国際色あでやかな上海に現れたのである。(中略) …ゾルゲは、朝日新聞社上海特派員、尾崎秀実と相知る様になつた。 二人は共産主義を信奉する点で全く一致し世界革命を実現する理想に於て共鳴する所大であった。(中略) ざっと、こんな工合にゾルゲスパイ網も漸く充実して来た所、丁度、昭和十二年七月には支那事変が勃発し、同年十一月六日には、抑々日本が…かのヒットラーに貞操を許した記念すべき防共協定を締結したのであった。(中略) 彼[尾崎]が信念を持つて、日本の侵略プログラムをゾルゲに内通したのはこの時からであった。(中略) …一方、ゾルゲの方は、…オットー独大使の絶大な信頼をかち得、独逸大使館に提供されるあらゆる日本の軍事機密、政治プランを悉く入手してコミンテルンに通報していた。尾崎は当時近衛内閣の嘱託であり、又外務省、参謀本部の御用機関である東亜研究所の嘱託として諸般の情報及資料を多数人手出来る地位にあったので、…尾崎を通じて種々の機密を不用意に洩らし、ゾルゲの手に掴まれた人々には幾多の名士高官が含まれている。例へば近衛文麿[首相〕、風見章[内閣音記官長]、犬養健、西園寺公一[外務省嘱託]、等がそれで、特に後の二人は積極的意志ありと認められ、後に検挙された…。(中略) 兎に角、日本の侵略プランを飾る最高の秘密は政界の最上層部の口から、或は独逸大使の口とかからら、まんまとゾルゲの耳に入り、そしてコミンテルンにつゝ抜けだったのである。※ 登録者、尾崎は拘留中に、共産革命の準備は整ったと漏らしたという。■ 毛沢東を救ったゾルゲ 紅軍の勝利を確定的にしたのは、毛沢東の容赦ない戦略ではなかてた(勝利を決定づけたのは、現在なお殆ど明らかにされていないが、ソ連による援助だった。モスクワはソ連国にトップレベルの軍事顧問団を設けて戦略立案にあたらせ、上海にも軍事委員会を設けてソ連人その他(特にドイツ人)の軍事顧問を置いた。最も重要な役割を果たしたのはソ連軍参謀本部情報総局(GRU)で、中国国内に一〇〇人以上のスパイを配していた。その大半は紅軍根拠地に近い国民党事務局に浸透させた中国人スパイで、中国共産党に対する情報提供が主たる任務だった。 一九三〇年初頭、モスクワはこの任務に当たらせるため、ドイツ人とロシア人の血を引く大物スパイ、リヒヤルト・ゾルゲを上海に派遣した。ゾルゲの最大の手柄は、蒋介石の前線情報司令部を支援するドイツ人軍事顧問団に浸透し、顧問の一人シュテルツナーの欲求不満の妻に近づいて国民革命軍の暗号を盗んだ事だった。ゾルゲが盗んだ暗号の中には、参謀本部と前線との通信に使われる暗号も含まれていた。ソ連のスパイがもたらした情報は、毛沢東にとって非常に大きな助けとなった。同時に、中国共産党のほうでも、国民党情報機関の心臓部に独自にスパイを送り込んでいた。その中の一人、銭壮飛は国民党中央調査課主任徐恩曾の秘密管理秘書となり、毛沢東の勝利に大きな役割を果たした。 ゾルゲは、その後、ヒトラーがヨーロッパ・ロシアに侵攻しても日本にはソビエト極東を攻撃する意図がない、という決定的情報を一九四一年にスターリンにもたらした事で、スパイとして有名になった。ゾルゲの助手の一人に張文秋という女性がおり、その娘二人はのちに毛沢東の生き残った二人の息子と結婚している。張文秋は、コミンテルンのアメリカ人スパイ、アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。