moto MEMO BOX
出口王仁三郎、スサノオ、言靈學、靈界物語、大本裏神業、裏の大本、
皇教、皇學、皇道三学(天津金木學、天津菅曾學、天津祝詞學)、
三種の神器、神道、古神道、記紀(皇典古事記、日本書紀)、
大和言葉、言語学、超古代文明、聖書、太陰(月)を中心に.....
  • 14Nov
    • 炒り豆の花(1)第一章5

      丹波の山猿 丹波篠山山家(やまが)の猿が花のお江戸で芝居する――と田舎者の場ちがいなおかしさをはやし立てるにはころあいな丹波の山猿。今日だって、丹波と聞けば、口辺にうすら笑いを浮かべる人は、 まだまだいつぱいいる。丹波や丹波人に対する値ぶみは、なぜ にこうまで不当に低いのか。丹波は鬼も棲まぬし、たしかに、ひけらかすほどの風俗も景趣ももたぬ。京の都近くに位置しながら兎も角控えめ目で、 その地理的利点は、逆に他国の人たちに利用されるばかりだった。歴史の流れを変えようと、みずから積極的に身をのり出したことはついぞなく、天下国家を動かすほどの人物を生み出したことすらない。足利尊氏や明智光秀が丹波を足台に天下に手をのばしたことはあるが、彼らも他国からきた人であつた。尊氏には綾部市安国寺町で生まれたという伝承があるが、仮にそれが事実だとしても、丹波で育ったわけではない。所詮丹波は花道であり、目ざす舞台は王城の地・ 京の都にあった。丹波は常に受け身であり、アウトサイダーであった。それだけに、たまりたまったエネルギーは、いつか爆発を見ねばすまぬ。霧の海の底、この丹波の山野から放たれた「 三千世界の立替え立直し」の人類史上未曽有の大宣言は、まさにその産声であろう。

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    • 『古事記傳』14 -1(17)

      ○ 治賜者(あさめたまわば)。「治」の意味は、前に「治2我前1者(アがまえをおさめば)」とあったところで述べた通りである。○ 百不足(ももたらず)はこの次に「八十」と言うための枕詞で、そのわけは冠辞考に出ている。○ 八十クマ(土+冂の中に口)手。「クマ」は「隅」の意味である。この記では、この字を書くことが多い。【「クマ(土+冂の中に口)」の字に「隅」という意味はない。爾雅に*「林外、これをクマ(土+冂の中に口)と言う」とあり、この意味から「くま」に用いたのだろうか。中巻では「クマ(石+冂の中に口)」の字も書いている。この字にも「隅」の意味はない。あるいは「回」の字に、わが国で土へんや石へんを加えて作ったのかも知れない。そういう例もよくある。また「クマ」は土へんのない「ケイ(冂の中に口)」と同じ意味の字で、「回」と字形が似ているので、誤って「回」の意味に使ったのか。さらに調べる必要がある。】書紀では「百不足八十隈」と書き、「隈、これを『矩麿デ(泥の下に土)(くまで)』と読む」という註がある。【このデ(泥の下に土)の字を「ヂ」と読んではいけない。「デ」の仮字である。】「手」は「道(ち)」の意味である。【「て」と「ち」は通音である。】万葉に「道之永手(みちのながて)」という語がしばしば見えるのと、「道之長乳齒(みちのながちは)神」の名を考え合わせて「永手」は「永道」であると知り、ここに出た「手」も「道」であると理解すべきである。万葉巻一【二九丁】(79)に「川隈之八十阿不落(かわくまのヤソクマおちず」」、巻二【十九丁】(131)に「此道乃八十隈毎(このみちのヤソクマごとに)」、巻十三【七丁】(3249)に「道前八十阿毎(みちのくまヤソクマごとに)」などもある。また巻三【四十七丁】(427)に「百不足八十隅坂爾手向爲者、過去人爾蓋相牟鴨(ももたらずヤソすみさかにタムケせば、すぎにしひとにケダシあわんかも)」とある「隈坂(すみさか)」も、「隈路(くまじ)」の誤りだと師は言った。その通りだと思う。【この歌は、特にこの段に関係が深いように思う。これは人が死んだときの歌であって「八十隈路」と言えば黄泉路(よみじ)を言うからである。】ここの「八十クマ手」は、多くの隅々(くまぐま)を経て、非常に遠いところということで、行き着くところはつまり黄泉の国である。【「八十クマ手」と「堅洲国」、「底の国」と言うのとは、同じ意味だ。名の意味は前述した。】本来この神は須佐之男大神の子孫であり、一度はその大神の住んでいた黄泉の国に自分もいたことで大功を立てて、天下を経営したことは、これまでに述べられている通りであって、ここで御国を天神の御子に譲り引き下がって、再び元の国に隠れるのは、深い由縁のあることだ。事代主神が海底に隠れたのも、明確には言っていないが、同じく黄泉の国に隠れたのである。<*「クマ(土+冂の中に口)」は、諸橋漢和辞典によると「林外十里の地、国境に隣接した地」、「都から遠く離れたところ、遠野」、また「冂と同じ」とあり、「冂」は「国邑から遠く離れた土地」、「遠い」「空しい」とあるので、いずれにしても人外絶遠の地ということである。音はケイまたはキョウで、訓はない。「石+冂の中に口」の字は「石の打ち合う音」とあり、「回」に土へんなどを付けた字はない。>○ 隱而(かくりて)は、ついに顕国(うつしくに)を去って、黄泉の国に隠れるのである。【海島に隠居した、などというのは漢意であり、間違っている。】

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    • 『道之大本』(6)

      第6章一、王仁かつて穴太あなをなる産土うぶすなの神殿かんなびに夜毎よごと参りて三條の教をしへの旨を授かりければ、ここに始めて百万の味方を得たる心地して勇気頓とみに加わり、いよいよ道のため賤いやしき一つの身を捧げんことを思ひ定めたりき。ここに王仁、三條の神則みのりの旗を押し立てて世の中の哲学を改めしめ、宗教を立直さんものと、身を忘れ家を忘れて、学者、宗教家を尋ね、神の御則みのりを説き廻まはしたりしが軽薄なる世の中の事とて、一人としてこの道の旨を覚り得る者なかりしのみならず、かへつて王仁を気狂人きちがひとなし、偽り者と誹そしり遂には狐使いなどと悪しくいふ者のみなりき。日頃親しき友達も親族も親も兄弟も飽くまで疑へり。山子やまこ飯綱いづな天狗狸たぬきなどと罵りて神の道を破らんとする枉津神まがつかみ五月蠅さばへの如く群むらがり起おこりて大いに妨げをなす。二、神の言葉は泰山たいざんよりも重し。いかで小人せうじん等らの妨げに心を飜ひるがへさんや。たとへ絶壁前に聳ゆとも頭上に剣閃ひらめくとも、真理の為には恐るべけんやと、自ら荒魂あらみたまに依りて能よく忍びたりき。王仁は心を岩の如くに固め、寄せ来くる悪魔の敵を防ぎつつ真理を開き明かさんと万よろづの妨げを押し分け掻い潜り、神国の為めに人生のために、世界の哲学を一変し麗しき惟神かんながらの大道だいだうを現はし開ひらかずんば止やまざるの決心をもつて、虎の如く龍の如くに奮ひ進みぬ。

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    • 『大本の道(愛善の道)』(6)

      第6章 祭 ─ 惟神の大道二八、祭(祈願)眼めに見えぬ己おのが心霊こころを眼に見えぬ神にささぐる幽斎いうさいの道見るを得ず聞く声もなき神のまへに祈る心は神なりにけり善よきにつけ悪しきにつけて天地あめつちの神にいのるは人の真心まごころ雷電いかづちのはげしきときと地震なゐふるの揺ゆるとき神に祈らぬはなし天地あめつちを祈るこころは人草ひとぐさの道にかなひしまことなるべし手を拍うちて祈るはよけれ皇神すめかみの心汲くまずばいさをしもなしいのるとも心に曲まがのある時は神の救ひの如何いかであるべき世のためと祈る真人まびとぞすくなけれ底の心はわが身のためのみ太祝詞ふとのりとながなが称となへ私利しりをのみ祈るは誠の信徒しんとにあらず礼ゐやなくて黒き心もつ人のいのる言葉にしるしあらめやむらきもの心きよめて大前おほまへに祈るまことを神は受けなむ心をも身をもまかせて祈りなば神はまことの力たまはむ大前おほまへに朝夕いのる神言かみごとにひらけゆくかな心の闇やみの戸と天地あめつちも家もわが身も人の身も清めきよむる神の祝詞ほぎごと真心まごころをこめし祈言のりごとみじかくも恵みの神は聞きこしめすらむ今日けふもまた真幸まさきくあれと大前おほまへに心きよめて祈る人の世惟神かむながら霊たま幸ちはへませと大神おほかみを祈る言葉のすがすがしかも皇神すめかみの御前みまへにまをす言ことの葉はは清く美しく称となへまつらな二九、祭(感謝)宮柱みやばしら太しき建てて幣吊みてくらをささげまつるを顕斎けんさいといふ神殿かむどのに神はまさねど人々の斎いつかむたびに天降あもりますかもあし原の瑞穂の国は天地あめつちの神いつかずば治まらぬ国天津あまつ御神みかみ国津くにつ御神みかみを斎いつかずば世はいつまでも乱れはてなむ神々の恩頼みたまのふゆにむくいむと御祭みまつりするは御代みよの国風くにぶり天地あめつちの神のめぐみに生おひながら神を斎いつかぬ人の多き世起臥おきふしのその度たびごとに思ふかな海より深き神のめぐみを人の親の愛と恵みはかぎりあり限りなきこそ神のみめぐみ言ことの葉に称たたへつくせぬ皇神すめかみの恵みにむくふすべもなきかな皇神すめかみに初穂はつほささげて御恵みめぐみの千重ちへの一重ひとへにむくいまつらむ皇神すめかみに捧ささぐるものはことごとく神より受けし御賜みたまものなり大前に供へまつらむものもなしただ赤心まごころの清きのみなるちはやふる神の祭りを第一につとむる家は永久とはに栄えむ朝夕に神のみ前に太祝詞ふとのりととなふる家は安らかなりけりゑらゑらにゑらぎ賑にぎはふ人の家は朝夕あさゆふ神の御前みまへにぬかづく礼拝らいはいをいそしむ人は愛善の道をたどれる神の御子みこなり目に見えぬ神の御姿みすがた朝夕に拝をろがみつかふる吾われとなりけり一日の業わざなしをへて大前に祝詞まをせばこころすがしも一日の業わざををはりしたそがれに御前みまへにいのる心たのしさ吾われもなく現世うつしよもなくただ一人ひとり神の御前みまへに平伏ひれふしをろがむ三〇、産土神と祖霊産土うぶすなの神の御前みまへにおのもおのも御栄みさかえいのる神国かみくにのたみふるさとの産土神うぶすながみをたふとみて道に仕つかふる人のつましさ寝ねいるまも人の身にそひ家に添ひ心にそひて守る氏神うぢがみ氏神うぢがみは祖先の霊と知らずしてから神いつく人の多かり遠とほつ祖おやの御祭事みまつりごとをうるはしく仕へまつるは御代みよの国ぶり祖祖おやおやのいづの魂みたまを春秋はるあきにいつきつかふる神国かみくにの道とつ国くにの式のりあらためて霊たま幸ちはふ神の御式みのりに祖霊みたま斎いつかな累代るいだいの祖先の霊を天国にすくふは子孫が愛善の徳遠津神とほつかみ代々よよの祖おやたち斎いつかずば人も獣けものとかはらざるべし三一、惟神の大道いろいろと世は紫陽花あぢさゐの七変化ななかはりかはらぬ道は惟神かむながらの道迫り来る世の荒浪あらなみをやすやすと凪なぎて治をさむる惟神かむながらの道人の子の朝な夕なに守るべき務めは神にしたがふにありかむながら神の心にまかすこそ人の誠のつとめなりけりかむながら誠の道は大衆のこころに通ふ真道まみちなりけり惟神かむながら道のまことの尊さは踏みてののちに悟りこそすれ惟神かむながらまことの道を悟りつつ行ひなさばこの世やすけし私利私欲一いつさい捨てて惟神かむながらかみの大道おほぢにすすむべき時かむながら道の光を地の上にあまねく照らす時は来きにけり

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    • 道の大本『裏の神諭』第五章

      第五章一、神は霊であり、幽体であり、隠身かくれみであるから、人の眼まなこには隠れて、をがみまつることは出来ぬのである。二、霊なる真まことの神に対する時は、己もまたその霊魂みたまを洗ひ清めて、正しき霊をもつて対し奉らねばならぬのである。三、教をしへの子よ、力つとめて道を守り、心を清め、神に親しみ、もつて真の神の太き御恵みを享けよ。四、神の力と恩恵めぐみ、汝等が心に下るにおいては、現世うつしよにも、幽界かくりよにも、露つゆ恐るべきものは無し。五、神の御恵みを享けしものは、苦しみをも苦しみとせず、災禍わざはひをも災禍とせざるに至るべし。六、神は人々を幸さいはひならしめんとし、救ひ玉はんとして、夜も昼も別わかち無く、御心を砕き給ひつつあることを忘るるなかれ。七、神は汝ら教子をしへご、または世の中のあらゆる人々を、苦しめんとは夢にも思ひ玉はず。汝等の苦しむは、神の御業にあらず、汝等の心の中うちに棲める鬼のなせるわざなりと知るべし。慈愛深き神はそれを眺めて、痛く歎なげかせ玉ひつつあることを思へ。八、雲の上なる大宮人おおみやびとより、下しも国民に至るまで、憂きと、悩みと、苦しみとに漏れし人は無い。九、現世うつしよはかくの如く果敢はかなき、亡ぶべき国なれど、常永とこしへに栄えて亡びざる国は、霊魂みたまの故郷ふるさとなり。一〇、天津御空も、天あめが下にも、神の恵みは普あまねく充ち足たらひつつあり。然るに、神の恩恵の中に育ちながら、口惜くやんで暮し、煩ひ暮すは、皆心の罪の仕業なり。一一、罪を悔い、過ちを改めて、四魂よつのみたまを洗ひ清めよ。一二、信仰の力は、涙の雨を晴らすところの科津しなづ彦なり。栄えの門を開くところの鍵なり。一三、歓喜よろこびの太陽は、信仰の天に輝き、穏やかの風は、誠の家に吹く。

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    • 新生への準備(0)

      3 新生への準備 一九四五(昭和二〇)年は日本にとって苦難にみちた年であった。しかしそのなかで大本新生の準備は続けられていった。元旦には、二代すみ子によって、〝ふけいざいちいほういはん(不敬罪洽維法違反)さらになしこころもちよきけさのかちくり〟〝おうそらにふさかるくもをふきはらいかちくりゆわ(祝)うとり(酉)のがんちょう(元朝)〟と染筆された色紙が信者にあたえられているが、その歌には新生の意気込みが躍動しているといってよい。 大本の新生に当たってまず注目すべきことは、聖師による楽焼の手造りであろう。聖師が精魂をこめたその強烈な意欲と色調の潤沢・明朗・滋味・鮮麗な冴えは、信者に新生の息吹きと情熱を与えずにはおかなかった。〈聖師の楽焼〉 楽焼は大正一五年から始めていたが、楽焼に天国のすがたを色彩で表現したいという意欲は未決勾留中から密かに抱かれていた。出所後もその希望があったが、なにぶん戦時下でもあり、統制のため材料が手に入らず、陶工が転廃業してゆく時世でもあったので、遠慮されていた。その後、京都清水の窯元佐々木松楽が、亀岡の下矢田に転居していることを知った聖師は、一九四四(昭和一九)年暮の一二月二八日、はじめて松楽の宅を訪ね、土をひねって見本をつくり、松楽の窯で下焼きがなされた。明けて昭和二〇年の元旦、その茶わん(赤楽)に鳥の一筆画を染筆し、一月三日には釉薬をぬり、初めて約六〇個の楽茶盌が出来上がった。それ以来聖師の楽焼の作業はほとんど連日のように続けられた。 材料としての土は、松楽が京都から少しずつ背負って運び、一月一八日からは、中矢田にある家護池の土をこれに混ぜて用いた。京都では割木が月に二、三束しか配給されないころであったが、亀岡で特別に買入れてこれにあてた。絵具は松楽が京都から多量に運んだ。その後石川県小松の瀬領貞通は、聖師から九谷焼の釉薬を求められた。しかし統制下で入手は困難であった。そこで九谷の陶工である西村仁太郎(大本寺井支部長)その他の釉薬を譲り受けて、亀岡へ届けてきた。また、嵯峨保二らからも多量に届けられ、これらの釉薬が茶碗の色彩に独特の役割を果たした。 楽焼の作業については、松楽は土ねりと窯たきをし、内海健郎は七〇才を越えていたが、「神ながらたまちはへませ」と称えつつ陶土の土はたきをなし、山川日出子は絵の具皿を担当した。聖師の仕事は深夜の一二時、一時にも及ぶことがしばしばあったが、終始この三人が奉仕した。二月の一〇日から、楽茶盌のほかに水指・杓立・蓋置・香炉・香合・皿・菓子鉢・干菓子鉢・建水・湯呑・神笛などがつくられている。五月以降は楽焼の作業は少なくなった。 聖師はこの楽茶盌つくりに精魂を集注した。それだけに窯出しの日、焼きあがった楽茶盌が運ばれてきた時は、得意満面の大変な御機嫌であった。そしてたまたまその場に来あわせていた者に、惜し気も無く与えられた。聖師の健康を案じて無理をされぬようと、すみ子からしばしば注意がなされていたが聞き入れられなかった。その後しだいにその疲労がみえ、〝ふとふれし土まみれなる師の御手の氷のごとくつめたかりけり〟と山川は回想しているが、「腕がうごかん」といって、手づくり中にも休息されることがおおくなった。保釈出所後の聖師は高血圧症状が続き、楽焼制作中にも寝込んだことがあったほどである。作業は一九四六(昭和二一)年の三月に、三六回目の窯をもって終わりとなり、焼きあげられたものは実に三〇〇〇個に達っした。のちにこれが「耀盌ようわん」として絶賞されるのである。このように聖師の楽焼は、苦しい時代の中で自己の全身全霊を打ち込んで生み出されたものである。なお、このほかに彫刻の用意もされたが、健康のためその着手が見合わされた。〈内外の動き〉 一九四五(昭和二〇)年の一月一〇日から二月の二日までを鳥取県の吉岡温泉で過ごした二代すみ子は、二月三日(節分)六二才の誕生日をむかえた。中矢田ではその祝として謡や仕舞の会が催された。中野岩太の指導によって、すみ子・直日をはじめ一族総出で賑わった。このころ元男・直日の家族は竹田に住居し、中矢田とも絶えず往来がなされていた。 綾部では町の有力者たちが、聖師夫妻に綾部で居住してほしいと願い出て、居宅の斡旋に奔走した。その結果、綾部植松にある永井所有の屋敷(宅地一六四坪・田二畝八歩)と二階建の家屋(建坪延五九坪)を、三月一五日に出口家で買収することになった。この建物は山水荘と命名され、聖師夫妻はときどき山水荘に帰った。一方亀岡でも、信者の面会が次第に多くなり、聖師の居宅(現出口うちまる宅)が狭くなったので、聖師夫妻の居間として屋敷の東北隅に建坪約一四坪の別棟平家建(二室)を増築することとなり、この年四月一六日に完成した。なお、そののち伊佐男・八重野の一家が聖師宅に同居することとなった。 四月一六日には聖師宅の神前において、直日の長女直美と家口栄二と、むめのの長女操と角田光平との二組の結婚式が同時同席でおこなわれ、その祝がなされた。昭和二一年二月一日には栄二の出口家入籍の手続きがとられている。 中矢田農園では出口一族をもって隣組をつくり、伊佐男が組長となり、この年四月一日からは新衛が南古世の町内会長に推された。空襲に対する防空の備え、金属類の徹底的回収、竹藪の開墾、草刈、ヒマの播種、松根油の採取など隣組に課せられた作業が相次いだ。在郷軍人会からは木材搬出の指令があり、五月には亀岡町国民義勇隊が結成されて幾たびか出動命令がくだり、亀岡駅での積荷の手伝い、幹部訓練などがおこなわれた。婦人会では忠霊塔の清掃、防空訓練、出征軍人の見送り、英霊の出迎えと「銃後のつとめ」に休む間もなかった。また農園としては畑の草とり、麦刈、田植と、出口一族総出の農作業が続き、米・麦・いも・卵・干草などの供出もあって、多忙を極めた。 時局がら早くから食糧増産の研究を奨めていて、一九四二(昭和一七)年ごろから稲作の並木植えを試み、昭和一八年からは裏作としての麦の栽培や、蔬菜類の改良にも努めた。昭和二〇年一〇月には酵素利用の講習会を二回、一一月には馬耕講習会を開催した。 前にのべたように、日本の敗戦によって内務官僚を頂点とした一連の弾圧機構や法令は撤廃された。第二次大本事件は解消し土地返還訴訟も大本に有利に解決した。もはや大本の新生を阻む隘路はなくなったのである。しかし敗戦後の国民生活は物心ともに混乱を極め破滅の寸前にあった。生産は昭和一二年のわずか二八・五%に下落し、戦時利得者・財閥・特権階級などによる物資の隠退蔵・売おしみ・買溜めがこれに拍車をかけて、生活物資の出回りは最悪状態となった。配給とは名ばかりでヤミ物資が横行した。その上政府は膨大な軍需補償をはじめ無制限な支出をおこない、終戦時に三〇〇億円だった通貨の流通高が、翌年二月はじめには六〇〇億円を超えた。このため戦時中にすすんでいたインフレは一挙に爆発し、物価は一日一日うなぎのぼりに暴騰した。しかも勤労大衆の賃金は依然として低く、家計は赤字と借金が累積し、売るべきものは全て売りつくし生活はドン底に落ち込んだ。 とりわけ米の不足は深刻であった。一人一日二合一勺となっていた主食配給も、ジャガイモ・サツマイモ・豆カス・トウモロコシなど代用品の量が増え、それも昭和二〇年産米の大凶作・供出の停滞・買溜め・売おしみに政府の無為無策が重なって、遅配・欠配が慢性化した。都市の「浮浪者」や「三食外食者」のなかで、餓死する者が次々とあらわれ、「栄養失調」が流行語となったほどである。戦後はじめての正月に配給された餅米は、一人当り三〇〇グラム以内(小もち六、七個分)という惨めさで、それも遅配・欠配のところが多かった。米に限らず他の生活物資も同様であった。調味料として大切な家庭用食油を一例にとってみても、三人世帯まで一合、五人世帯まで二合、八人世帯まで三合、一〇人世帯まで四合、一一人世帯五合といった状況で、それも現物の入荷が遅れたり、不足したり、月々きまって配給されるのではなく極めて不安定であった。昭和二〇年における一人当の消費量を昭和一二年と比べてみると、砂糖は一七・八%、肉類は二二・二%、蔬菜は五八・六%、衣類繊維品は一〇・五%という惨憺たる有様で、「農家が芋類、野菜等売り不申、尤も拝む頼かで漸くサツマ一貫目位十五円にて買求むる位にして米の配給は全然無し、三度々々サツマだけ、塩は砂ダラケの岩塩少々、味噌も醤油も時々無くなり、其岩塩にて煮物をするのでマヅイ事滅法界に候」(「富沢書簡」昭和20・11・9)と訴えられているように、大衆は日々食を求めて不安と焦燥に駆り立てられていた。 大本再建をめぐる社会的環境はこのように極めて厳しかった。だが綾部・亀岡両聖地の土地返還を契機として、大本新生への準備は急速に整えられていった。 亀岡町から返還された天恩郷の土地は、ひとまず出口元男・むめの・伊佐男・貞四郎・新衛の共同所有の名義としてこれを管理することになり、ついで一〇月一七日には東尾吉三郎を天恩郷の主事に任命し、土井三郎・土居重夫・山川石太郎を係とした。食糧事情の困難な時であるから天恩郷の広場を整理し一定期間を畑地として貸すこととし、同月ニ一日より一般町民一八三件、国民学校・女学校および在住信者等からの申入れを一週間にわたって受付け、地面の割当てをした。綾部でも田畑など貸地の回収について協議がすすめられた。民事事件も解決したので、一〇月下旬聖師は初めて天恩郷に足を踏み入れた。破壊の跡は一面に雑木・雑草が生い茂り道さえもわからず、高台の大銀杏のみが昔日の面影を残しているだけであった。ついで十一月下旬には綾部の神苑跡に入り、本宮山にものぼられた。聖師は「全部たたきつぶされたが、木だけは大きくなったなあ」としみじみと語られたが、その短い言葉のなかには、過去一〇年の生々しい感懐と輝かしい未来への決意が秘められていた。そのころ綾部在住信者の手によって「お山」(本宮山)の清掃がおこなわれていたが、聖師がのぼられてからは本格的となった。 敗戦によって新聞の報道内容も一変した。過去の反省にたって、日本の再建・民主化に繋がる明るいニュースが報道されるようになり、各新聞社の大本に対する態度も積極的になった。「大阪新聞」は一〇月三一日付同新聞の一頁全面(当時は二頁)に「『大本教』如何に起ち上るか 宗教自由へ出口一族逞しい意欲」との大見出しを掲げ、「全人類の愛善へ 宗教的世界の建設目ざす」との見出しについで、「好々爺の〝生き神〟さま」のなかで聖師夫妻や伊佐男とのインタビューの記事をのせ、「天恩郷一族の手に」として、返還された旧城址を紹介した。これだけ大掛かりな明るい報道がなされたのは、一〇年ぶりのことであった。 「大阪毎日新聞」は一一月七日の「雑記帖」欄で「晴天白日の身となった元大本教統監出口王仁三郎氏は、いま子息伊佐男氏を生産主任とし、八世帯五十余名といふ大家族の兵站基地である京都亀岡町の中矢田農園で増産に奮闘、最近府農業会主催の多収穫競作で大麦反当り四石六斗九合を挙げて二等に入選、野菜の供出でも常に百パーセントを完遂、亀岡、綾部両町所在敷地の所有権回復も円満解決したので、疎開者たちにただで貸付けるなど、食糧事情の緩和に何かと寄与している。昭和十年暮の弾圧以来雌伏十年、大本教再建の胎動もこのごろになってやっと活溌化しつつある」としるしている。 信者の動きもますます活発となった。神書研修会は頻繁におこなわれ、祭式講習会を始めたところもあった。入信を申し出る者もあらわれ、信者は入信者を中矢田の聖師のもとへ案内した。アンケート(昭和39年)によれば、第二次大本事件中に全国で二七四人の入信者が記録されている。入信者には、単に大本の予言や警告に感動したというだけでなく、そこには、戦争から敗戦という事態に直面して、人生の真意義・指針を求めようとする切実な願いが見受けられる。来訪する信者・入信者には聖師の染筆による「大天主太神」「神」「神 天地之太柱」などが与えられ、ご神体としても下付された。また『霊界物語』第六〇巻にある祝詞をもちうることが、信者にゆるされた。 地方組織の再建も積極的にすすめられた。事件中の同志的結合を中核として縁故知友を訪ねたり、また事件前の名簿を頼りにして次々と連絡がとられ、機関誌「愛善苑」の購読者数や信者名簿が整えられていった。だが当局の監視は依然として続けられていた。一九四五(昭和二〇)年二月には鳥取県吉岡で、信者ら八人が八日から二週間も留置され、厳しい取調べを受けた。これはこの年の一月に二代すみ子が吉岡に滞在したことにかこつけて、造言蜚語・再建運動として事件にしようとしたものであった。また終戦後の一〇月二日には島根県で藤原勇造が、そのころ流されていた二、三の流言の疑いをかけられて取調べを受けている。しかし当局がいかにあがこうとも、奔流と化した大本の新生の息吹きは、もはや阻止しうるものではなかった。 一一月五日、天恩郷に最初に建設する建物として瑞祥館が決定した。大本再建の構想は着々と途につき、一二月八日には大本事件解決奉告祭をおこなうことが、信者に伝達された。また信仰のともしびとして雑誌「愛善苑」をいよいよ発行することになり、早くも一一月一一日と二八日には編集会議が開かれた。 それより先一〇月一九日、宗教新聞の中外日報社主真溪涙骨より、伊藤栄蔵を使いとして出口伊佐男に対し、京都にある中外日報社の印刷所を譲渡したいとの申し出があった。そこで土井三郎を北国新聞社に派遣し、印刷所の経営について同社社長嵯峨保二らの意見を聞いたところ、一応の調査をした上で入手すべきであるとの結論を得て帰って来た。そこで、印刷所を申し出のとおり五〇万円で譲り受けることに決定し、資金工作にかかった。東尾は愛知県稲沢町の桜井信太郎を訪ね、相談をした結果、桜井はその献金を快諾したので、中外印刷所を譲り受けるむね真渓へ伝達した。一一月一六日、その譲受金として第一回分一五万円を真溪へ渡し、残額は申し出に応じ支払う事とした。 終戦後の日本の新聞界は戦災によって印刷工場を失い、工場を持たぬ新聞社が続出していた。東京でもまともな印刷工場をもっものは朝日・毎日・読売・東京・日本経済の五社にすぎなかったといわれる。原稿用紙と鉛筆だけで創刊した新興・復刊の小新聞が、これらの大新聞のいずれかに依頼してようやく発刊を続け、また大新聞もその苦しい経営を補うため、所謂賃刷りに依存していたという状況であった。紙面は用紙の不足で二頁を維持するのが精一杯であった(『朝日年鑑』)。こうした新聞業界の停滞の中で、すでに出版活動への準備がすすめられていたのである。なお真渓の希望により、土井三郎は中外日報社事業相談役に嘱託された。 「中外日報」については、一九二四(大正一三)年聖師が入蒙に際し書き残した『錦の土産』のなかにも、「中外日報との関係を益々濃厚なるべく努むべし」としるされているほど関心がふかく、はやくから聖師は陰に陽にたえず中外日報社を支援していた。一九三二(昭和七)年ころ、同社にながく保存されていた創刊以来の「中外日報」の合本(唯一のもの)が聖師におくられたが、これは貴重なものであるから私有すべきでないとして、聖師はこれを京都大学付属図書館に寄贈した。 信教自由の実現は、「日本占領の第一目的の一つ」として、「占領軍の使命の中でも顕著な地位」があたえられていた。そのため一一月二八日には、はやくも民間情報教育部に宗教課が設置された。「神道」および「宗教の美名」にかくれた「極端な国家主義且つ軍国主義的組織と運動」に対する厳しい措置は、日本の民主化を促進するために、また日本の軍国主義を絶滅してアメリカに対する直接的脅威を取り除く上からも、当然予測されるところであったが、しかし宗教・思想団体のあり方についての占領軍の意向がなお明確でなかった。宗教団体法はすでに撤廃され文部省宗務課や日本宗教会(大日本戦時宗教報国会を改称)は、よるべき根拠を失って暗中模索の状態であった。 こうした社会情勢の中で、大本をどのような形で再建するかは極めて重要な問題であった。昭和二〇年一一月一八日、まず大本再建の具体的方法についての研究がなされ、一一月二一日と一二月二日に協議を重ねた結果、聖師の指示によって、とりあえず「愛善苑」の名のもとに新発足することとなった。一二月四日には、綾部在住信者がはじめて彰徳殿(旧武徳殿)に招集された。そこで出口伊佐男から土地返還の経過報告と今後の方針についての内示があり、綾部に連絡の機関としての「組」の組織がつくられた。そして翌五日には亀岡においても初めて在住信者が集められ、伊佐男から前日同様の報告や内示があって、亀岡でも「組」をつくった。 聖師は昭和一七年保釈出所以来、数おおくの歌を詠まれたが、国内各地はもとより、外地からもはるばる訪ねてくる信者などの氏名を読み込んだ和歌は七五〇〇首を超え、そのほかに道歌・随想歌などをしるした色紙や短冊で現在本部に保管されているものは、さらに七五〇〇枚にも及んでいる。 苦節一〇年、一二月八日を目前にして信者の心はよろこびに湧き立っていた。綾部では在住信者だちが集まり、聖師の現地指図によって、鶴山(本宮山)をはじめ神苑内の片付けや草取り、掃除をおこない、祭典の調度品が整えられた。こうして大本事件解決奉告祭をむかえる準備が、心も軽く、着々と続けられていった。〔写真〕○不屈の信念とたくましき新生の息吹き……出口すみ子筆 p681○新生への準備は弾圧直後から密かに練られ 奔流となって溢れ出た 中央は楽焼の制作にいそしむ聖師 亀岡下矢田 p682○耀盌 不二 胴径四寸四分 高さ三寸二~五分 出口王仁三郎作 p683○山水荘 綾部での聖師夫妻の住居 植松 p684○中矢田農園での稲刈り 左から出口伊佐男 八重野 聖師 住ノ江 p685○やけあとの外食券食堂に行列し雑炊で飢を凌ぐ国民大衆 p687○マスコミは大本の再建に注目しはじめた 全面記事を掲げた大阪新聞 p688○鍬をとって食糧増産に励む聖師 p689○出口王仁三郎 すみ子夫妻 亀岡中矢田農園の自宅 p691○出口直日 昭和19年正月 竹田別院 p692○よろこびに胸はおどり信者は聖地の再建にうちこんだ 綾部の神苑 p693

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    • 三鏡 496 女は神の傑作

      玉鏡 496女は神の傑作 神様かみさまは、すべての物ものを創造さうざうしたまひしが、其中そのうち一番いちばんの傑作けつさくは女をんなの肉体にくたいである。曲線美きよくせんびの柔やはらかい肉体にくたい、次つぎが男をとこの肉体にくたい、次つぎが馬うまである。動物どうぶつの中なかでは馬うまが一番いちばんよく出来できてゐるのである。それだから神様かみさまに馬うまはつきもので、何処どこのお宮みやにも神馬しんめといふものが居ゐるのである。

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  • 13Nov
    • 『霊界物語』大木の繊維により風水火の醗酵作用によつて人が生れ出た

      霊界物語 第33巻第4篇 理智と愛情第26章 若の浦より 近代きんだいは余あまり大木たいぼくは少すくなくなつたが、太古たいこは非常ひじやうに巨大きよだいなる樹木じゆもくが木きの国くにのみならず、各地かくちにも沢山たくさんに生はえてゐたものである。植物しよくぶつの繊維せんゐが醗酵はつかう作用さようによつて虫むしを生しやうじ、其その虫むしは孵化ふくわして甲虫かぶとむしの如ごとき甲虫族かふちうぞくを発生はつせいする如ごとく、古いにしへは大木たいぼくの繊維せんゐにより風水火ふうすいくわの醗酵はつかう作用さようによつて、人ひとが生うまれ出でた事ことも珍めづらしくない。又また猿さるなどは随分ずゐぶん沢山たくさんに発生はつせいしたものである。 天狗てんぐを木精こだまといふのは木きの魂たましひといふ事ことであつて樹木じゆもくの精魂せいこんより発生はつせいする一種いつしゆの動物どうぶつである。天狗てんぐは人体じんたいに似にたのもあり、或あるひは鳥族てうぞくに似にたのもある。近代きんだいに至いたつても巨大きよだいなる樹木じゆもくは之これを此この天狗てんぐの止とまり木ぎと称となへられ地方ちはうによつては非常ひじやうに恐おそれられてゐる所ところもある。現代げんだいに於おいても大森林だいしんりんの大樹たいじゆには天狗てんぐの種類しゆるゐが可かなり沢山たくさんに発生はつせいしつつあるのである。 斯かくの如ごとき事ことを口述こうじゆつする時ときは、現代げんだいの理学者りがくしやや植物学者しよくぶつがくしやは、痴人ちじんの夢物語ゆめものがたりと一笑いつせうに付ふして顧かへりみないであらうが、併しかし天地てんちの間あひだはすべて不可思議ふかしぎなものである。到底たうてい今日こんにちの所謂いはゆる文明人士ぶんめいじんしの智嚢ちなうでは神かみの霊能力れいのうりよくは分わかるものではない事ことを断言だんげんしておく。

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    • 『道之大本』(5)

      第5章明治三十八年の正月の九日 出口の澄子、緑の黒髪ふつと切り神の御前に供へ奉たてまつる。王仁おに怪しみてその故を問ふ。彼答へず。王仁頻しきりに問ふて惜かず。すなはち徐おもむろに答へて曰く、吾が髪を切りしは神の為め道の為めはたまた救すくひの為なり。ある人の深き迷ひを覚さまさんが為なり。その人の目覚めざるに於ては神の道は明かなること能あたはじ。また迷へる羊を救ふ能はじ。またわが夫の踏み給へる道を立つる事能はず。これ妾わらはが心の誠を証して神に第一に、ある人の深き罪を謝し、道の栄えを祈りたるなりと。祈病癒やまひのなほるをいのる祝詞 掛巻くも畏かしこき吾あが皇神すめかみの大御前おほみまへに恐かしこみ恐みも白まをさく、何国何郡何村何某なにがし(何々の)病ありて月日つきひ佐麻さま禰久ねく病臥やみこせり。彼これをもつて(斎主名)に事計ことはかりて畏こけれども、吾わが皇神すめかみの大前を斎いつき奉まつりて、蒼生あをひとぐさを恵み給ふ恩頼みたまのふゆを祈願こひのみ奉まつらんとして、今日の吉日よきひの吉時よきときに(名)に礼代いやしろの幣帛みてくらを捧げ持ちて恐み恐みも称辞たたへごと竟おへ奉まつらしむ。掛巻くも畏き皇神この有様を平たひらけく安らけく聞食きこしめして、(病人名)が悩む病を速すみやかに直し給ひ癒し給ひて、堅磐かきはに常磐ときはに息内いのち長く夜よの守り日の守りに守り給へ幸さきはへ給へと畏み畏み白まをす。祈家内安全かないあんぜんをいのる祝詞 掛巻くも畏き吾あが大神の大前に恐み恐みも曰まをさく。(何国何郡何村何某なにがし伊い)、吾あが大神の恩頼みたまのふゆに依りて、その家の弥いや益々に立栄たちさかえんことを祈願こひのみ白まをさんとして、(斎主名)に礼代いやしろの幣帛みてくらを捧げ持ちて恐み恐みも称辞たたへごと竟おへ奉まつらしむ。この状さまを平たひらけく安らけく聞食きこしめして、(何某なにがし)が家内やぬちには八十やそ枉津霊まがつひの枉事まがごとあらしめず、家業なりはい撓たゆむことなく怠る事なく勤いそしみ勉めて、その家門いへかどを起おこさしめ給ひ広めしめ給ひ、堅磐かきはに常磐に息内いのち長く子孫うみのこの八十連やそつづきに至るまで、五十橿いかし八桑枝やくはえの如く立栄たちさかえしめ給ひ、過あやまち犯す事のあらむをば見直し聞直し坐まして、夜よの守まもり日ひの守まもりに守り給へ幸さちはへ給へと恐み恐みも白まをす。

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    • 『大本の道(愛善の道)』(5)

      第5章 義と正欲二四、裁制断割奇魂くしみたま智さとりの道のほどほどに世のもの事ごとを義ただしくさばくも(裁)おほきみの御政事みまつりごともおだやかに制おきて義ただしくすすむ御代みよかな(制)ためらひの心うち捨て勇ましく思ひし善事よごととぐるは義ただし(断)国人くにびとをさちはふために身をわすれ難なやみに殉となふこころは義ただし(割)二五、名位寿富名めい位ゐ寿じゆ富ふうこれぞ神賦しんぷの正欲せいよくぞ働かざれば名なも富とみもなし名なも位くらも寿いのちも富とみもすめ神かみは人の所業しわざによりてたまはむ名なも位くらも富とみも寿いのちもちはやふる神のたまひし宝なりけりかむながら真まことの道をさとりなば名位寿富もののたからはひとりそなはる名めい位ゐ福ふくたとへ世人よびとに劣るともまことの道に富む人とならむ垂乳根たらちねの親の名までも世にあげて身を立つるこそ子の務つとめなる雲井くもゐなす高き位くらゐにのぼるとも下しもいつくしむ道をわすれなたまきはる人の命はかぎりあれど一日ひとひもがもと祈る真心微弱なる人の生命いのちもこころして用もちふる時は強きものなり白銀しろがねも黄金こがねも玉たまもかずならず身の健康すこやかにまさるものなき身労は身健しんけんとなり心労は心健しんけんを得うるもとゐなりけりたまきはる人のいのちは天地あめつちの神のまにまに保ちこそすれむつまじく家いえ富みさかえ玉の緒のいのち長きは信仰あななひの徳子孫うみのこのいやつぎつぎに栄えかし天地あめつち日月ひつきのつづく限りを二六、富と慈しみ愛善の誠の徳にみつるならばたちまち富はあつまるものなり誠心まごころをつらぬく時は世の人のしたふ力に富みさかえゆく今日けふの糧かて明日あすに喰くらふは富めるなり貧しき人は今日に明日あすをくふ奢おごらずに日々ひびの生計くらしをつつしめばこれに越したる収入はなし足ることを知りて奢おごらぬ人の家はいや遠永とほながに立ち栄えゆく足ることを知りたる人は天地あめつちの神の仁慈めぐみをさとりたるなり家おこす人の行為しわざをうかがへば紙一枚もおろそかにせずくさぐさの冗費つひえを省き貧しきに苦しむ人をひそかに足らはす富むとても貧しき時を忘れずに乏とぼしき人を見ればほどこせ望月もちづきの欠けたることのなき人は足らはむ人を慈いつくしむべき左手ゆんでにて施ほどこしするを右の手に知らせざるこそ神にかなへる二七、宝と徳貯たくはふるよりは宝はほどほどに使ふが効力おほきものなり貯たくはへて世人よびとのために用もちゐざる黄金こがねは瓦石ぐわせきとなにかえらばむ黄金わうごんを積みて心を悩むより天地てんちのあひだに徳をつむべしさび腐りほろぶ宝を積むよりもまことの徳を神国かみくににつめすめ神に受けし宝をおとさずに清くもちゐよ道の信徒まめひととこしへに朽ちぬたからは皇神すめかみの道に尽くせし誠なりけりとこしへの霊たまの御宝みたからよそにして朽つる宝をもとむる人かな財宝をあつめて庫くらにをさむより身を修むるぞ宝なりけりいかほどに智慧ちゑや宝を持つとても神を知らねば貧しき人なり現世うつしよに学びし智慧は剥ぎとられ富は消えゆく元もとつ神国みくになりただ神の言葉によりて悟り得し智慧と富とは永久とはに栄えむ

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    • 道の大本『裏の神諭』第四章

      第四章一、誠の神徳を授けらるる前には、その服装みなりやつれ、人に笑はれ譏そしらるべし。衣は破れ、喰ふものは乏しく、世の中の訳知らぬものよりは、怠りものと譏そしられ、仕事嫌ひと笑はれることも度々あらん。また鼻の下の建立こんりふなどと申し、誠の心を知るものは無し。二、神の道を止やめて、何なりと商売あきなひ、職業、農業つちかいなどをせよと、一家親類兄弟友達より忠告さるること度々なるべし。三、美うるはしき衣類を得んが為に、甘うまきものを喰くらはんが為に、小遣を豊かに得んが為に、神を離れて肉体の欲に迷ふことなかれ。四、阿呆と言はれ、馬鹿と言はれても、欲と言はれても、怠けものと言はれても、山子と言はれても、誠の道の為には撓たゆむことなかれ、屈することなかれ。五、神は汝と倶ともに在り。世の中の事に心牽ひかるるものは、自ら道に遠ざかるべし。六、警察署に引かれ、裁判所に呼出され、疑ひの眼まなこもて裁かるることもあるべし。七、されど、誠の道を踏める者よ、夢怖るるなかれ。警察よりも、裁判所よりも、いと優れて大いなるもの、誠ある汝の体内に宿れり。何を言はんとて案じ煩わづらふなかれ、神汝等なんじらの口を籍かり、もつて道の証明あかしをなし、汝をしていとも強き賢きものとなしたまふべし。八、汝等は神の道の戦士いくさびとなり。九、神の戦士よ、直霊なほひの魂みたまをもつて国となし、厳いづの魂みたまを大元帥と仰ぎ、瑞みづの魂みたまを参謀総長と仰ぐべし。勇をもつて帯おびとなし、固く腰に纏まとひて勇み進め。愛をもつて御旗となし、智をもつて大砲おほづつ小銃こづつとなし、親しんをもつて鉄砲丸たまとせよ。道をもつて進撃し突貫せよ、義ただしきと誠をもつて上うへの官つかさとすべし。枉津まがつ国軍士いくさの亡ぶまで、進めや進め、一歩も退くことなかれ。

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    • 炒り豆の花(1)第一章4

      民家いやし 「丹波越えの身となりて、道なきかたの草分衣、茂右衛門おさんの手をひいて」(『好色五人女』) 不首尾して京から山越えに丹波に逃げることを「丹波越え」 といい、かけ落ちの代名詞とされる。 上田秋成は『胆大小心録』で丹波を揶揄の種にする。「丹波太郎といふ雲が出るとて、何やらおそろしい所のやうにいへど、腹さもしい故こはいことはなし。酒呑童子がありし時こそ、京奉公人を引つかんで去(い)に、酒は奈良からや、京からや、池田からや、ただとり山のほととぎす、そんな事あつたらよからうと、丹波の人はいふべし」 貝原益軒は冬の丹波路を旅し、亀山では「民家いやし」と軽くけなしながら鳥羽につき、「今夜は鳥羽に宿す。京より是まで八里有。およそこの国は京に近くして、大江の坂の山、 一つへだたりなりぬれば、民俗人家、すべて畿内には大いにかはりて、いぶせくいやし」と『西北遊記』に書く。 『人国記』の丹波人に対する評価もまた痛烈である。「丹波は人の気堕弱、面々各々にして十人十様、わが身を自慢し、人を誂(そし)り、人の誉れあるを誉むべしとはせず。 而(しか)して余の人のそれより誉れ多きにくらべて是を誂るの類にて、悉皆(しっかい)女人の風俗に異ならず下劣なり。従つて己が日夜つとむるところの耕作の道は第二にて、商売を本とすること偏(ひと)へに身の栄華せんことを常にたくらみ、すべて勇寡(すくな)うして諂(へつら)ひ強く、昨日は味方にありし人も今日は敵となり、また前になりかはり渡世する類の風俗もつとも哀れなる形儀なり。然れども自然に能(よ)き人出生せば、気柔かくなる意地より成り立つ風俗なれば、双(なら)ぶ方なきほどの人もできざるべし。天下乱れてこの国を治めば、五日のうちに従ふべきなり」(『人国記』)「按ずるに、丹波は四方山々にて、皆名門の人家なり。寒雪も北国ほどはなけれども、もつとも烈し。山谷の内の民なれば偏屈に狭かるべきことなれども、懦弱(だじゃく)なる所以はこの国山城に隣りて都近きが故に、上邦の風俗を見るに慣れて自気の精出で、本強の質を失へり。婦人の風俗一しほ取しめなくて粗末なるところなり」(『改正人国記』) たしかに丹波人の弱みを的確についているが、しかしそれは、丹波に限らずとも、都会に近い里に住む人のもつ共通の習性ではないだろうか。

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    • 『古事記傳』14 -1(16)

      ○ 登陀流天之御巣(とだるあめのみす)とは、以前は単に御殿のことを言っていると思ったが、そうではないようだ。次にまた同じ言葉が出てくるが、そこで凝烟(すす)のことを言っているので、よくよく考えると、これは御厨【俗に言う台所】の竈の上にある煙出しのところを言うのだろう。その構造は、上代にはどうなっていたか、知ることはできないが、御巣とあることから想像して、煙出しのために竈の上の屋根を少し葺き残して、窓のように明けていたのではなかろうか。しかしそこには葦を切った端の部分が不揃いに露出して組み合わさり、「簀(す)」のような部分なので、【一般に、竹などを編んで、間が透けたようなのを「簀」と言う。簾(す)も同じ。】御簀(みす)と呼んだのだろうか。【「巣」は借字】天之(あまの)と言うのは、今の世で竈の上の煙がかかる部分を「あま」【「尼」の音のように言う。】と言うから、それだろう。體源抄に、昔日吉への行幸で鞨鼓(かっこ:鼓類の楽器)の筒胴が社頭でなくなってしまい、二十余年を経て大津のほとりで見つけたときの話に、「あまというものに乗りかかっていたので、すすが付いていたが、少しも損傷はなかった」と言っている。【そのため、他の例のように「あめの」と読まず、「あまの」と読んでおいた。しかし普通の語のように「あめの」と読むのも悪くはないだろう。】ところで「登陀流」は非常に難解だが、例によって強いて言うなら、富足のことではないか。【「富(とみ)」は「み」を省いた例がある。】それは、昔も今も、人の家の富み栄えることを表現するには煙が盛んに立つことを言い、貧しいことは煙が立たないと表現する。下巻高津の宮(仁徳天皇)の段で、「国中に煙が立っていない。民が貧窮に陥っているからだ」、「国中に煙が満ちている。人々が富んでいるのだ」などとあるように、煙が盛んに立つことを祝福して、すなわち富足と言い習わしたのだろう。するとここは、煙が盛んに立ち上る「天之御巣」ということだろうか。上代には、この煙の立ち上るところを重視したので、「然富足る(しかとみだる)」という祝言(ほぎこと)もあった。ここでも、そのことを主眼に置いて言ったのだろう。明の宮(應神天皇)の歌に「毛々知陀流、夜邇波母美由(ももちだる、やにわもみゆ:百千足る、家庭も見ゆ)」という句があるが、この「ちだる」は「とだる」と同じで、「とみ」を縮めて「ち」としたのではないだろうか。【「百千足る」という文字の意味ではない。】とすると、盛んに煙の立ち上る、百の家屋の庭が見えるという意味である。【煙が盛んに立つので、富が足りていると思った、という意味に解するのも同じである。】大殿祭の祝詞に「此乃敷坐大宮地、底津磐根乃極美、下津綱根、波府蟲能禍無久、高天原波、青雲乃靄久極美、天乃血垂、飛鳥乃禍無久(このしきますオオミヤドコロ、そこついわねのキワミ、したつつなね、はうむしのワザワイなく、たかまのはらは、あおくものたなびくキワミ、あまのチダリ、とぶとりのワザワイなく)」とある「血垂」も同じである。ただしこちらは、すなわち煙の立ち上るところの名として言うので、「ちだり」と読むべきである。【今の本でもそう読んでいる。「登陀流天之御巣」を縮めて、「天のちだり」と言っている。】「飛ぶ鳥の災い」というのは、この「血垂」の部分は屋根を葺き残して明けてあるので、空を飛ぶ鳥があるいは有毒なものなどを咥えて来て落とし込むとか、糞などを落としたりすることがあるかも知れないということだろう。【師の祝詞考では、この血垂の説明は、大きく間違っている。ここの文をよく見ると、御殿の上方と下方を対照して書かれているのである。底津磐根の極みというのと、高天の原云々の極みという語句を対置してあるのだから、その次の下津綱根に対する天之血垂も、御殿の上方、つまり屋根に関して言っていることは明らかだ。】書紀の神武の巻に、「細戈千足國(くわしぼこチダルくに)」とある「千足」も同じことで、煙が盛んに立ち上って富が十分にある国である。【前記の「ももちだる云々」という歌と考え合わせよ。「細戈」は枕詞で、「玉鉾の御路(たまぼこのミチ)」と同じように、「ち」という言葉にのみかかっている。】これらを思い合わせて考えよ。ここで大国主神が自分の住むべき御殿の造りをこのように述べたのは、もっぱら御膳のことについて言ったので【続く部分に「櫛矢玉(くしやだま)神を膳夫(かしわで)として」とあるので分かる。】その御厨の造りを特に乞い願ったのである。とすると、上記の「天津日継所知(あまつひつぎしろしめさん)」とあるのも、日給(ひつぎ)の稲で調理する御膳を食べる、その御厨のように、という意味になることは明らかだ。【天慶六年の日本紀竟宴で、大鷦鷯(仁徳)天皇を題とした橘師輔の歌に「大鷦鷯、須女羅賀與々利、多津氣敷里、阿麻能比都幾仁、裳江萬散留賀奈(おおさざき、すめらがよより、たつけぶり、あまのひつぎに、もえまさるかな)」。この歌で煙にからめて「天の日嗣」のことを言っているのは、古意を知って詠んだのか、偶然に古意に合致したのかは知らないが、いずれにせよ上述したことに関係がある。】またその御厨でも特に煙の立ち上るところを重視したので、「天之御巣」に言及したのである。それを「天神の御子の御巣」と言ったのは、その構造が普通の人々の家の造りとは違ったところがあったのだろう。中巻の玉垣の宮(垂仁天皇)の段でも、出雲の大神の言葉に「私の宮を天皇の御殿のように造ってくれたら、(ホムツワケの皇子は)正常に話せるようになるだろう」とある。この段のことと合わせて考えると、深い理由があると思われる。

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    • 事件の解決(3)

      土地返還訴訟の解決 一九四〇(昭和一五)年の六月一五日に、京都地方裁判所民事部あて、綾部・亀岡における出口王仁三郎・すみ子名義の土地返還請求の訴状を提出した民事事件は、第二審・上告審と併行して審理がすすめられていた。昭和一六年八月に第九回の準備手続きをおわり(四章一節)、同年一〇月一日から、第一回の口頭弁論(公判)が開始された。公判は京都地方裁判所の第一民事部法廷で開かれ、裁判長は第一回より四回まで石井平雄、第五回より一〇回まで原田左近、第一一回より終結までは中治武二の各判事があたった。 第二回の公判から証人の取調べとなり、中村純也・福田つな・五十嵐定七(元綾部警察署長)・木下和雄(元亀岡警察署長)・赤塚源二郎・三木善建らが出廷した。ついで佐賀では高橋誠治(元京都府警部)、仙台では杭迫軍二(元京都府特高課長)、米子では山口利隆を各裁判所法廷で訊問した。さらに湯口善之助(前亀岡町長)・遠坂憲治(綾部町長)の取調べののち、昭和一七年の一一月五日には、原告である出口王仁三郎を、昭和一八年の七月二八日には同じく原告の出口すみ子の訊問がおこなわれた。その間、原告側から九回、被告側の綾部町から五回、亀岡町から三回にわたり、準備書面を提出し、それぞれ代理人が、これに基付く陳述をした。 昭和一九年四月一四日には、原告代理人として清瀬・前田・小山・今井・林の各弁護士の弁論がおこなわれ、同月二六日には、被告代理人として綾部町からは竹田、亀岡町からは守屋の両弁護士の弁論があり、これに対して原告側から前田・小山の両弁護士が演述した。原告側の提出した準備書面や証拠をはじめ、証人訊問・本人訊問・代理人の弁論等によって、警察官の暴圧的事実や不法事実が明るみに出されたことはいうまでもない。 民事事件の判決は、はじめ昭和一九年の五月末に申し渡される予定であったが、裁判所の都合によって延期された。ところが翌昭和二〇年の六月にいたって、京都地方裁判所長より突如民事和解に関する申入れがあり、七月一〇日・二八日、八月一〇日と和議についての会合が重ねられ、原告・被告ともにその代理人たる弁護士が出席した。 原告(大本)側が綾部・亀岡の土地返還が根本条件であることを主張したのに対し、被告の綾部町は小学校の敷地・広場および、水道利用のため本宮山を相当の代金をもって譲渡されたいと希望し、被告の亀岡町は広場三〇〇〇坪を町の名義で海軍に献納し、他は返却するとの申出であった。このような条件には応諾することが出来ないとして、大本側は和議の会合を打ち切り、公正な判決を待つこととした。しかし終戦となり、九月八日大審院での大本事件に対する上告棄却の判決によって、民事事件の状勢は急変した。警察・町当局の態度は一変し、当事者間の和解によって、解決に拍車が加えられることになったのである。 昭和一九年の二月に亀岡警察署長に着任していた山崎英雄警部は、大検挙後の警察における出口伊佐男らの取調べに当たったことがあったが、暴行・強圧には一度も関わらなかった。そうしたことから伊佐男との間に親交があったが、大審院の判決が伝えられると直ちに、土地問題の解決について伊佐男と内談し、土地の返還を亀岡町側に勧告した。町議会ではこれを受け入れ、九月二六日に町長南江禎治・助役中田安次の両人が伊佐男に面会して、無条件土地返還を申し入れた。これに対して大本側では、弁護士だちと協議のうえ、登記および引渡費用は町側の負担とすることを条件とし、山崎署長の斡旋によって示談は成立した。一〇月一五日町会で正式にこれを決定し、同月一八日に土地移転の登記が完了したので、大本側では即日亀岡町に対する民事訴訟を取り下げた。なお昭和一一年四月の強制売渡しの際、亀岡町が大本側に支払った代金は、大本から町側へ返却した。 ついで一〇月二二日には、綾部の商工経済会何鹿支所長木崎良吉と町会議員広田久太郎とが伊佐男に面会し、土地返還について話しあった。この二人と樋ノ本綾部警察署長が斡旋にたち、一〇月三一日に綾部町議会および何鹿郡町村長会が、大本への無条件土地返還を可決した。一一月二日には綾部の山水荘にて、綾部側の赤見坂綾部町長ほか三人と樋ノ本署長の立会いで、土地返還の申し入れがあり、大本側からは出口すみ子・伊佐男・東尾・桜井同吉らが応接し、これを受諾した。一応無条件返還のうえ、大本側より綾部町に対し体育館の敷地を寄付し、町からは武徳殿(現在の彰徳殿)と弓場(現在の要荘の一部)の建物を寄付することとした。こうして一一月一三日には、綾部に対する民事訴訟を取り下げ、同月一五日には土地返還の登記を完了した。なお大本からは綾部町からの建物寄付に対し金一万円を、郡設グランドに対し同じく一万円を寄付した。これで土地問題は両者合意のうえで全部解決したので、聖師夫妻と伊佐男・桜井の四人は、一一月二四日に赤見坂綾部町長はじめ綾部の有志者の招待をうけ、並松の「現長」(旧祥雲閣)において、土地問題解決祝賀の宴に列した。亀岡では一一月二九日に鍬山神社の社務所で南江亀岡町長はじめ有志者よりの招待をうけ、大本側より伊佐男・東尾が同じく土地問題解決の宴に出席した。その後、町側の大本に対する協力は積極的となった。 「京都日日新聞」は一〇月一八日に、「大本教天恩郷還る」と三段記事をかかげ、「大阪毎日新聞」も一一月四日に「大本教土地事件解決」との見出しで報道した。その記事には「天恩郷はこの度大本教検挙当時の京都府一調査官の深い反省と温情の結果、いま亀岡町にあって信農一如に生きる出口一家に再び返ることになった……検挙当時当局は綾部本山とともに徹底的に全運動施設を破壊し尽し、しかも検挙後四カ月を経ぬ未だ未決留置中の王仁三郎夫妻に譲渡委任状に無理矢理に署名捺印させ、亀岡署の手を通じ坪当り八銭という安価で亀岡町の手に売り渡されてゐたもの」(「京都日日新聞」)と述べられている。〔写真〕○土地返還訴訟も有利に解決したが聖場に昔日の面影はなかった 綾部本宮山上…… p678○……………亀岡天恩郷の透明殿 更生館あと付近 p679○聖地が大本の手にかえった 出口すみ子染筆 p680

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    • 三鏡 495 人間の創造

      玉鏡 495人間の創造 神かみは、この宇宙うちうを修理固成しうりこせいされる時とき、先まづ樹木じゆもくを造つくり、それから人ひとを造つくられたのである。人間にんげんは木きから生うまれさせられたのである。その後のち獣けだもの、鳥とり、魚さかな、虫むしの順序じゆんじよにお造つくりになつた。虫むしのごときは、今日こんにちと雖いへどもなほ木きからわかして造つくられることがある。 如何いかなる島しまにでも人類じんるゐが住すんでゐるといふことは、神かみが諸処しよしよに於おいて木きから人ひとを造つくられたからである。神かみが土つちをもつて人間にんげんを造つくられたと云いふのは、神かみが先まづ土つちをかためて木きを生はやし、それから人間にんげんを造つくられたのであつて、直接ちよくせつ土つちから造つくられたといふのではない。土つちから木きを生はやし、木きから人間にんげんを造つくられた、その間あひだでも何百万年なんびやくまんねんかかつてゐる。

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