◆ ゾルゲ事件
 

 米国がゾルゲ事件の公表に踏み切つたのは、容易に想像される通り、冷戦の結果としてであり、それまでは占領下でもこの種の言論は一切封殺されていた。

例へば、次の記事は昭和二十一年三月号の雑誌に掲載予定のものであったが、占領軍の検閲によつて全文掲載禁止にされている。

理由は、「日本人の反ソ感情を喚起する」
 その頃[昭和五年]、コミンテルン極東支局は日本の情勢の変転と睨み合せて容易ならぬ焦燥を感じていた。

つまり、三・一五、四・一六と相継いで行はれた共産党弾圧に依って、コミンテルンの日本支部[日本共産党]は、どうやら火の絶えた暖炉の如く余温僅かに留むる寂しき存在となった。

(中略)
 かうなると、一朝一夕に日本支部を再建することは出来ないし、尋常な手段を以ってしてはこのファッショ風を防ぐことも不可能なので、…ともかく反ソ戦争に備えての周到な準備として、コミンテルンはその諜報部を拡大強化する方針を決定した。
 かゝる本部の方針に基いて、極東支局の指令を帯びた一人の独逸人リヒアルト・ゾルゲが、所も国際色あでやかな上海に現れたのである。

(中略)
 …ゾルゲは、朝日新聞社上海特派員、尾崎秀実と相知る様になつた。
 二人は共産主義を信奉する点で全く一致し世界革命を実現する理想に於て共鳴する所大であった。

(中略)
 ざっと、こんな工合にゾルゲスパイ網も漸く充実して来た所、丁度、昭和十二年七月には支那事変が勃発し、同年十一月六日には、抑々日本が…かのヒットラーに貞操を許した記念すべき防共協定を締結したのであった。

(中略)
 彼[尾崎]が信念を持つて、日本の侵略プログラムをゾルゲに内通したのはこの時からであった。

(中略)
 …一方、ゾルゲの方は、…オットー独大使の絶大な信頼をかち得、独逸大使館に提供されるあらゆる日本の軍事機密、政治プランを悉く入手してコミンテルンに通報していた。

尾崎は当時近衛内閣の嘱託であり、又外務省、参謀本部の御用機関である東亜研究所の嘱託として諸般の情報及資料を多数人手出来る地位にあったので、…尾崎を通じて種々の機密を不用意に洩らし、ゾルゲの手に掴まれた人々には幾多の名士高官が含まれている。

例へば近衛文麿[首相〕、風見章[内閣音記官長]、犬養健、西園寺公一[外務省嘱託]、等がそれで、特に後の二人は積極的意志ありと認められ、後に検挙された…。

(中略)
 兎に角、日本の侵略プランを飾る最高の秘密は政界の最上層部の口から、或は独逸大使の口とかからら、まんまとゾルゲの耳に入り、そしてコミンテルンにつゝ抜けだったのである。

※ 登録者、尾崎は拘留中に、共産革命の準備は整ったと漏らしたという。

 
■ 毛沢東を救ったゾルゲ
 
 紅軍の勝利を確定的にしたのは、毛沢東の容赦ない戦略ではなかてた(勝利を決定づけたのは、現在なお殆ど明らかにされていないが、ソ連による援助だった。
モスクワはソ連国にトップレベルの軍事顧問団を設けて戦略立案にあたらせ、上海にも軍事委員会を設けてソ連人その他(特にドイツ人)の軍事顧問を置いた。
最も重要な役割を果たしたのはソ連軍参謀本部情報総局(GRU)で、中国国内に一〇〇人以上のスパイを配していた。
その大半は紅軍根拠地に近い国民党事務局に浸透させた中国人スパイで、中国共産党に対する情報提供が主たる任務だった。
 一九三〇年初頭、モスクワはこの任務に当たらせるため、ドイツ人とロシア人の血を引く大物スパイ、リヒヤルト・ゾルゲを上海に派遣した。
ゾルゲの最大の手柄は、蒋介石の前線情報司令部を支援するドイツ人軍事顧問団に浸透し、顧問の一人シュテルツナーの欲求不満の妻に近づいて国民革命軍の暗号を盗んだ事だった。
ゾルゲが盗んだ暗号の中には、参謀本部と前線との通信に使われる暗号も含まれていた。
ソ連のスパイがもたらした情報は、毛沢東にとって非常に大きな助けとなった。
同時に、中国共産党のほうでも、国民党情報機関の心臓部に独自にスパイを送り込んでいた。その中の一人、銭壮飛は国民党中央調査課主任徐恩曾の秘密管理秘書となり、毛沢東の勝利に大きな役割を果たした。
 ゾルゲは、その後、ヒトラーがヨーロッパ・ロシアに侵攻しても日本にはソビエト極東を攻撃する意図がない、という決定的情報を一九四一年にスターリンにもたらした事で、スパイとして有名になった。
ゾルゲの助手の一人に張文秋という女性がおり、その娘二人はのちに毛沢東の生き残った二人の息子と結婚している。
張文秋は、コミンテルンのアメリカ人スパイ、アグネス・スメドレーの紹介でゾルゲと知り合った。