◆ 略奪・暴行至らざるなし … ソ連参戦の惨劇

 広島に原爆が投下された二日後の八月八日、ソ連は未だ有効期限の切れていなかった日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦を布告して、怒涛のやうな進軍を開始した。
 周知のやうにこれには裏があり、同年二月のヤルタ秘密協定により、スターリンはドイツ降伏後三カ月以内に参戦することをルーズヴェルト・チャーチルと申し合せていたのである。

当時の日本はこれを全く知らず、必死になって、大真面目でソ連に和平の仲介を求めていた。「日本外交の間抜けさ加減は、凡らく世界外交史上稀有の例に属する」との痛恨の思ひを、筆者も又禁じ得ない。
 

 ソ連軍は総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。

満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。

その上、“弱り目に崇り日”ではないが、不意をつかれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与へることになった。
 

 八月十四日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行至らざるなしといふ有り様であった。

火事場泥棒よろしく手当り次第に略奪し、女性と見ては強姦を続けるソ連軍によって、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥った。

そのやうな地獄の日々を綴った手記は枚挙に暇がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分に伝はっていないのを遺憾とする。
 例へば、「ロシア批判」といふ理由で不許可になった例。

 

 突然、ソ連軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝきこまれた。
 目ぼしい家に押し入っては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、中には着ている着物さえもはぎとってゆく者が現れてきたからである。

しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾のもとにやられるばかりである。

しかし、それ迄はまだよかった。

最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落して、男装をしなければならない、実に悲惨な状態におちいってきたのである。

(中略)
 突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさっと血の気がひいていった。

(中略)
 私はもう、何がなんだかわからなかった。

唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる真っ赤な血潮をぬぐおうともせず…狂気の如く呼びまわっている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残っているばかりである。


 このやうな悲劇が、日本の何倍もある広大な満州の地で幾千幾万となく生起したのである。

樺太でも、事態は全く同様だた。

同じ理由で不許可になた事例を挙げる。

 

 この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始た。

婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に伝わる、…。

一方時計一個を拒否したゝめ拳銃弾数発を受け紅に染て絶命した有志、…

娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…

大泊においてのみでも数十名の犠牲者を出すに至り戦々恐々たる数日を経た。


 それだけではない。

ソ連軍は武装解除した日本軍将兵約六十万人(一説によれば百方人)をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、約六万人を死に至らしめた。

これは、北海道占領をトルーマンに拒否されたスターリンが、腹いせに決断した事だた。「一九四五年八月十四日以後に於ける某国の如き侵略行為は世界史上空前の汚点である」とは、幾多同胞の等しく抱いた実感だたに違ひない。
 原爆投下とソ連参戦。

幾十万もの犠牲者を出した大東亜戦争の二大悲劇も、検閲の壁に阻まれて、未だに国民全体の共有する正史とはなていないのである。