■ 沖縄決戦と「大和」の最期 1945年(昭和20年)

 国と沖縄を救うために必死の攻撃を行った神風特攻隊。
 昭和十九年七月七日、サイパン島の日本軍は玉砕し、多くの民間人が自決した。

サイパンからは米大型爆撃機の行動範囲に東京が入る。

まともなリーダーシップがある国ならば降伏するところだが、日本にはそれができず、東條内閣が総辞職しただけであった。
 同年十月、フィリピンにおけるレイテ湾での戦闘で、初めて神風特別攻撃隊が出現した。

それまでも〝決死隊″というのはあったが、“必死隊”という概念は、日本軍にもなかった。

だが、すでに日本軍が必ず敵を斃すためにはこれしかなかったのである。

続いて硫黄島、次は沖縄であった。

多数の民間人の住むところが近代戦の戦場になるということを、日本人は初めて体験した。

沖縄戦では、大量の神風特攻隊が出撃した。

そのパイロットの多くは空中戦をできるほどの練度をまだ持たない若者たちであった。
 アメリカ側が戦後に発表したものに基づく「カミカゼ」の実態は、伊藤正徳『大海軍を想う』によると、日本軍が沖縄戦の期間中「カミカゼ」で失った飛行機は約二千八百機、それによって被害を受けた米海軍の軍艦は戦艦十隻、空母九隻、重巡洋艦三隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦百十人隻、その他四十隻の百八十二隻である。

そのうち沈没したのは十三隻であった。

アメリカ艦隊司令官のスブルーアンス捷督の座乗艦もカミカゼの攻撃を受け、二度も別の艦に移らなければならなかった。
 沖縄のアメリカ海軍は物質的にも精神的にも打撃を受け、

「なお数日、カミカゼの攻撃が衰えない場合は一時退却して、再挙の方法を考えるべし」

という説に傾いたという。
 特攻攻撃は空中に限らず、水中では魚雷を操縦する「回天」が特攻を行った。

そして昭和二十年四月、世界最大、そして史上最大の戦艦「大和」に沖縄への特攻命令が下った。

大和と連合艦隊の残存部隊九隻は航空機の援護もなく、帰還用の重油も持たずに米艦隊に包囲されている沖縄に向かった(大和は沖縄の海岸に乗り上げて艦砲射撃する予定だったというほうが正しいだろう)。

そして、翌四月七日、鹿児島県南方の東シナ海で、米軍機のべ三百五十機の猛攻を受けて大爆発を起こし、沈没した。
 カミカゼも戦艦大和も沖縄を救うことはできなかった。

しかし、救うために必死の攻撃を繰り返したことは確かである。

日本の最後の戦艦「大和」も三千機に近い特攻機も、沖縄のために出撃したのであり、沖縄の犠牲になったのだ。

本土においても戦禍が実にひどかったことは、東京をはじめとする大都市無差別爆撃や原爆でも知られよう。

沖縄だけがひどい目にあって、本土は無事だったということはない。

一般住民の死傷は沖縄を超えていた。

そのことは沖縄の人たちにも無視してもらいたくないと思う。
   (⇒特攻隊教官[後に続くを信ず])
   (⇒[沖縄集団自決の真実][昭和天皇独白:沖縄戦])