[日本の歴史]を読んで 

 

日本の歴史:読む年表より その3

 

 渡部昇一氏の名著[日本の歴史]から個人の好みで抜粋しました。

学校で習った日本史が如何につまらないものだったのか、思い知らされました。

GHQにより、奪われた日本の歴史について多くを語っています。

是非、山本七平[日本人とは]とあわせ原文をお読み下さいますよう。
 GHQが抹殺した日本史の真実については

GHQ検閲Ⅰ][GHQ検閲Ⅱ][GHQ検閲Ⅲ]を参照下さい。

大東亜戦争については[これだけは知っておきたい大東亜戦争]に丁寧に纏められています。

 

■ ミッドウェー海戦 1942年(昭和17年)

 第二次大戦全体の分水嶺となった日米機動部隊の激突。
 日本軍と互角に戦える敵はアメリカだけであった。

イギリスもフランスも、オーストラリアもオランダも、問題にならなかった。

日本はまさに破竹の勢いで勝ちまくっていたのである。
 その日本軍の命運を分けたのがミッドウェー海戦(昭和十七年六月五日~七日)であった。当時、十隻以上もの航空母艦をもって機動部隊を編成できたのは日本とアメリカだけだった。この海戦は、二国のいわば一騎討ちであった。
 普通に考えれば日本は圧倒的に有利であった。

日本の主力空母は四隻、アメリカは三隻。

しかも一カ月前の珊瑚海海戦のときは第二級の機動部隊が米空母を撃沈している。

にもかかわらず、日本はミッドウェーで惨敗した。

それは日本が油断しきっでいたからである。
 無敵を誇っていた零戦の活躍は、この時もまさに鬼神の如きものであった。

三十六機の零戦はアメリカの戦闘機約五十機を叩き落として完全に制空権を握り、敵空母から襲ってきた雷撃機約七十機も殆ど全て撃墜して、わが方の零戦は何と一機も失われなかった。
 悲劇は、その直後に雲を利用して来襲した艦上爆撃機による急降下爆撃によって起こった。航空母艦の上に護衛の戦闘機を一機も配置しなかったのは、正に油断としか言いようがない。

米雷撃機隊は零戦に撃ち落とされる事がわかっていながら、その後の急降下爆撃を成功させるため、進んで囮となったのであった。

日本の空母は炎上沈没し、日本海軍は完敗した。
 俗に「運命の五分間」と言われる。

「米空母の気配なし」と判断した南雲忠一司令長官は、ミッドゥエー島の陸上基地攻撃に作戦を変更、攻撃機の艦船攻撃用魚雷を陸上攻撃用の爆弾に換装するよう命じた。

その作業がまさに終わろうとするころ、「敵空母艦隊発見」の報が入ったのである。

南雲司令長官は魚雷から爆弾への再換装を命令した。

その間に空母は急降下爆撃を受けて、わが軍の攻撃機が次々に誘爆し、手のほどこしようがなくなってしまったのである。

あと五分敵艦発見が早ければ、再換装があと五分早く終わっていれば……という訳である。
 敵艦隊発見の報を受けた時、空母『飛龍』に座乗していた山口多聞少将は、再換装などせず陸上爆弾搭載のまま攻撃機を発進させるよう進言したが、南雲長官に却下されてしまった。

しかし、これは山口少将の一言うように、魚雷でなくても構わないから、とにかく飛行機を発進させて敵空母の攻撃に向かうべきであったろう。

攻撃機は狭い甲板と格納庫で身動きがとれないまま、いたずらに爆発していったのである。
 山口少将は、他の三空母がもはや沈没寸前なのをみて、ただ一隻となってしまった空母『飛龍』で敢然と米機動部隊に向かって反撃を開始し、敵主力空母『ヨークタウン』を大破させる(後に潜水艦伊168号が撃沈)。

だが、奮戦むなしく『飛龍』も戦闘能力を奪われると、山口少将は「総員退艦」を命じ、加来止男艦長(大佐)とともに、自ら艦と運命をともにした。(⇒[闘将-山口多聞中将])
 

 昭和十九年六月十九日のマリアナ神海戦では、日本側が一方的にやられるだけであった。

アメリカは優れた電波探知機と新型の対空用砲弾を開発していた。

更に、殆ど無傷で不時着した零戦を手に入れ、これを徹底的に研究して零戦に対抗できる新鋭戦闘機グラマン・ヘルキャットを投入した。

しかも日本にはすでに熟練の飛行士が殆どいなかった。

零戦の優位性は失われ、零戦を撃ち落とすのをアメリカでは「マリアナの七面鳥撃ち」と称した。

あの恐ろしい零戦は、もはや七面鳥なみになった。

日本はまっしぐらに敗戦に向かっていく。
 もし日本がミッドウェーで勝っていたら、米陸軍は西海岸に集結せざるを得ず、イギリスを援護するどころではなくなっていた。

となればドイツがヨーロッパの覇者となっていたであろう。

ミッドウェー海戦はまさに第二次大戦全体の分水嶺となったのである。