閑話休題




...............////////////...............富士山


・・・・・・・・めめめ・・・・・ ・・・ .... ...........金富士


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................................................ 京都雑記


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蹔く休みます 

 7月14日、腰痛に効くと言われている有馬温泉に出掛けました。一時間あまり湯につかり帰って来ましたが、明くる日朝起きると,腰が 

すとんと抜けて足腰が立たなくなりました。養生に勤めていますが、2階のパソコン部屋にも昇れず、当面「閑話休題」はお休みをいただきます。

 

 明智光秀

 司馬遼太郎の『国盗り物語』を再読した。長い小説である。小説の中の主人公は、京の油商人から一国ー岐阜の城主となった斎藤道三織田信長、それに明智光秀の三人である。戦国時代の初期、各地の守護大名の中で、実力が衰え形骸化した大名に対し、下克上の激しい時代で、一介の百姓から天下を取った豊臣秀吉が出た時代である。斎藤道三もこの時代を上手く泳ぎ切った傑物であった。

 

 それらの三人の中で、司馬遼太郎は特に明智光秀には温かい眼差しを注いでいる。光秀の評価は主殺しの悪役の評価と、信長に追い詰められた怨恨の意趣返しという同情論とが並列している。とくに光秀が信長に遺恨を抱いたのは、本能寺の変の直前に、信長は光秀に「そのほうに、出雲・石見の二国をあたえる。しかしながら今の近江と丹波の両国は召し上げる」と命じた時からであろう。

 近江は永年光秀が居城として築造して来た妻子の籠る城であり、丹波も新しく進め入り、土賊を平らげ、ようやく農民も光秀になついて来た所であり、光秀が心血を注いだこれらの城を平気で取り上げ、代わりに毛利方に属する出雲・石見を、自分で切り取りせよという。だがその二国を貰っても、京からも遠い僻境への左遷と同じである。永年信長に忠勤を励んで来た光秀にとって、この命令だけは我慢がならなかった。

 

 この信長の仕打ちはひどいと思う。光秀に同情する心も出て来る。彼は丹波に帰国した後、信長を打つ決意をした。信長が無勢で京の本能寺にいることは光秀に機会を与えた。本能寺の変で信長は自刃、光秀は一時天下を取る。信長が苦心して造った安土城を乗っ取り、多くの財宝を家臣に配り、天下を取ったつもりでいたが、いち早く光秀を倒そうとする動きが出る。その先鋒は豊臣秀吉である。

 光秀は親しい大名に味方することを促す書状を送った。もし光秀が名実ともに実力を備えた武将であれば追随者も出たであろう。特に永年苦難を共にして各地を遍歴した後、織田信長を擁して足利義昭を15代将軍に担ぎ上げた同志で、息子の嫁に光秀の娘(細川ガラシャ夫人)を娶らせ、親族の縁まて結んだ細川藤孝〈幽斎〉が、なんと息子の嫁を離縁さしてまで豊臣秀吉側に付いたことである。大和の筒井順慶も秀吉側に廻った。

 ここに私は、光秀の悪役論や怨恨の意趣返しの同情論を越えて、年来の同志に背かれるという、光秀の人間としての器量の限界を見る思いがする。対照的だったのは豊臣秀吉で、光秀を倒すのも天下の成り行きであった。

 

 彼は山崎の天王山の戦いで豊臣軍に大敗、僅か十三騎の護兵を従えて近江の坂本城に帰城の途中、伏見から山代に抜ける小栗栖ーおぐりすーの竹藪の山道で、農兵の竹槍に刺されて絶命した。あっけない天下人の最後であった。首は家来の溝尾茂朝が遺言により知恩院に届けるべく急いだが、すでに夜が明けて知恩院に入るのが憚られたので、途中の山麓に埋めた。その首塚は三条通り白川橋下るに

現存する。

 しかし僅かな期間の領主であった丹波では、今も光秀を慕う人が多いという。

 

       

         京三条白川の光秀首塚                同光秀の菩提を弔う祠

   

                明智光秀                      細川藤孝

 

 

 

 

 宮沢賢治の替え歌

 私が勤めていた時代は、旧デジタル時代であったが、社内での人間関係は古き良き時代の良さがあった。いじめをする者は皆から疎外された。飲み会も、ゴルフ、麻雀、親睦旅行も課単位、また全店でそれぞれ最低年一回は行われて、旅行先では暴飲暴食をしたものだ。そんな部内親睦会には決まって世話役を買って出る者がある。もちろん皆からも好かれ者で、幹事に内緒に反対の口をきく者もいない。平和な仲良しクラブである。そのまとまりが会社の業績を下支え、向上させた時代であった。今から思えば懐かしい時代であった。そんな世話役を皮肉った詩がある。宮澤賢治の替え歌である。

 

   雨ニモマケズ

      風ニモマケズ

      朝カラ晩マデ会社以外ノコトヲ考エズ

      仕事ニスグ役タチソウナヒトノホカトハ付キ合ワズ

      地域ノ相談事ヤ運動会ナドニモ

      仕事ガ忙シイカラトイツテ顔ヲ出サナイ

      東ニ社内コンペガアレバ音頭ヲトリ

   ダレトダレトヲ組ミ合ワセルベキカト勤務中モ頭ヲヒネリ

   西ニ飲ミニ誘ウ部下ガアレバココハマカセテオケト

   ナケナシノ財布ヲハタイテ大人ブッテ

   南ニ社内旅行ガアレバ

   サバケタ奴トイワレタイバカリニ

   真ッ先二バカ声ヲハリアゲテカラオケヲ歌イ

   北ニ評判の経営書ガアレバ

   タトエ目次トアトガキグライシカ読マナクテモ

   スグニ買イニ出カケ

   サモ読ミ通シタゴトクダレカレニ吹聴スル

   会社ガ全宇宙トイウ

   ソウイウフクラミノナイビジネスマンニ

   ワタシハナリタクナイ

 

 

 

 

 興福寺の天灯鬼・竜灯鬼

 仏教では、閻魔大王に仕える鬼は恐ろしい形相をし、人間を苦しめる鬼とされているが、日本の民話では「瘤取り爺さん」のような、時には情も心得たユーモラスな鬼として出て来る。仏教の敵として仏像の足元に踏み付けられているが、おどけた表情をしている。この興福寺の天灯鬼・竜灯鬼は、仏堂内を照らす重い灯篭を、力いっぱい担ぎ捧げて、鬼として立派な働きをしている

 

 天灯鬼は渾身の力をこめて、かなり重そうな灯篭を肩と片手で支えるため、口を開き、体をひねって腰に重点を置き、全身に力を入れるために右手は硬く握られている。灯篭を支える肉体と筋肉の動きが、心にくいほど見事に表現されている。

 一方竜灯鬼は軽々と頭で灯篭を支えているが、灯篭の重心を安定せんがために、神経を頭上に集中させている。眼は自然と上の頭に向けられ、灯篭が落ちないかと睨んでいるようで、それがまた何ともおどけた表情に作られている.どんぐり鼻とあどけない目つき、そして尻尾を捕まえられた竜の困ったような表情、―厳しさとユーモラスを巧みに融合せた心憎い神技である。

 

 この両作品は、鎌倉時代の偉大な彫刻家、運慶の三男康弁の作とされている。私はこの作品を見るたびに、下絵のデッサンが遺されていたらならばと思う。土で塑像を造るのは後で修正が出来るが、木や石の彫刻は、一寸の掘り過ぎ、梳り過ぎも許されない。何日間の緊張感の連続は只人の出来るものではない

 この作品は同じ興福寺の阿修羅像に比べてあまり関心が寄せられていない。勿論国宝であり鎌倉時代の傑作であるが、「幾分工芸的な」「幾分装飾的な」性格があるからだろうか。このように想像上の鬼を人間に似せて、うまく捉えた「捉え方」と、もうひとつは筋肉の動きなどを徹底的に追求した、芸術の極致を示す「創造の技法」と、ユ―モラスな表情の表現はさすがである。

 それにしてもこのような見事な芸術品を、後世のわれわれに遺してくれたことは嬉しい限りである。

 

        

               天灯鬼 国宝                    竜灯鬼 国宝 興福寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 三島由紀夫の自殺

 文学者はよく自殺する。太宰治・川端康成など。しかし三島由紀夫の自殺はその動機が、憲法改正で自衛隊を戦前の軍隊に戻すことであった。昭和45年11月の事である。私は驚いた。あれほど尊敬する作家が大義をたてて自殺するとは、当時の世論風潮とはかけ離れていただけに、何か虚しさを感じた。その時詠んだ詩である。

 

    嗚呼惜しむべきむなしささ

  壮絶たる割腹

  ひとは彼の美意識の極致という 

  ひとは時代錯誤の犬死だという

    それにしても

  時代に訴える精神の惜しむべき虚しさ

 

  かの横溢たる審美の精神

  その磨き尽くされた文章の確かさ

  昨日まで人々を酔わしめた紅葉が

  春をも想わせる晩秋の一日

  かくも敢えなく散ろうとは!

 

  彼の磨き尽くされた遺産を惜もう

  その昇華された純粋の行動を買おう

  しかしここに思想の虚しさを感じさせる何かが

  一つの時代の終焉をつげる

 

  壮絶たる死!

  彼の肉体の奥深くに貫かれた切口

  自ら鬼神と名乗りながら

  もう一歩のところで彼は神になりえなかった

  嗚呼! 惜しむべき虚しさ!

 

 

 

   

 

 

 

 京の鷹ケ峯2  光悦の系譜 琳派の芸術

  光悦の本阿弥家は戦国時代、刀剣の研磨・鑑定・売買で財を成した京の豪商。その一族から江戸初期、寛政・元禄文化をを代表する美術家が輩出している。下記系図参照。

 本阿弥家の女を娶った光悦の従兄弟俵屋宗達は、風神・雷神図「京建仁寺」、松図、象図『京都養源院」、伊勢物語の芥川図の秀逸の傑作を残して、今に我々の目を楽しませてくれている。

 また光悦の姉が嫁いだ尾形家からは、これまた時代を代表する尾形光琳乾山の巨匠が輩出している。光琳の描く燕子花図(国宝)

は、単に燕子花(杜若)を描写するにに止まらず、花の群を意匠化して並べ、当時としては独創的、先鋭的な感性を示している。また彼の紅白梅図屏風(国宝)も、中央に小川を大きく描きつ、左右に紅白の梅を配した、それまでの写実的な画法を一変した鋭い感性の意匠化した屏風で、当時の人々の目を驚かせたことであらう。

 また乾山は陶芸師として、茶碗に素晴らしい絵を描いて独特の世界を開いている。

 

●日本文化の流れ  

 北山文化13c後半   東山文化 4c半ば  桃山文化16c後半 寛政文化17c前半 元禄文化17c後半

 足利義満     ⇒ 足利義昭    ⇒ 豊臣秀吉    ⇒ 本阿弥光悦   ⇒ 尾形光琳

 世阿弥         能阿弥・相阿弥   狩野永徳       俵屋宗達        尾形乾山

 夢想国師        雪舟・村田珠光   千利休         狩野山楽・探幽     円山応挙

 

● 俵屋宗達 下図系譜では光悦の従兄弟

 

       俵屋宗達  風神雷神図 国宝 京都建仁寺藏

  

 宗達 伊勢物語芥川図      同 像図 京都養源院         

●尾形光琳 光琳の妹の尾形家三代目

    

     尾形光琳 燕子花図 国宝 根津美術館   

       

        尾形光琳 紅白梅図屏風 国宝 MOA美術館     同 立ち姿美人図 重文

● 尾形乾山 光琳の弟 陶芸家

     

         乾山 銹絵呉須梅木茶碗           乾山 滝山水図茶碗

     

    乾山 銹絵山水図 火入                   乾山 梅花散文蓋物   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                              

 

 

                                                                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京の鷹ケ峯

 京都の西北にある鷹ケ峯は、今でこそ光悦寺から街並みが続いているが、室町・戦国時代にかけては、盗賊や無頼者の屯する辺境の地であった。

 徳川家康が大坂夏の陣で豊臣家を倒し、京都二条城に帰還した時、主だった町衆がお祝いに駆けつけたが、刀剣の砥師として財をなし

ている本阿弥光悦の姿が無かった。家康はご機嫌斜めで、「さらば光悦を丹波道にて盗賊の住まいする鷹ヶ峯に移住させよ」と命じた。

 光悦58歳の時である。彼は鷹ケ峯の山深い原野を喜んでんでもらい受けて切り開き、下図のように東西200間、南北7町の宅地を造成して、親族の尾形家や、雁金屋、茶屋四郎三郎の呉服商はじめ、友だちの茶人,蒔絵師・筆師・紙すき・陶工などを集めて55軒に分譲、抜群の美意識を持つ光悦の指導の下に研鑽する芸家村を造った。

 ところが孫の光甫78歳の時、新しい地権者と所有権争いとなり、当時の京都所司代は光甫に敗訴を申し渡した。各業者は分散し、光甫らは江戸に移って行った。もし当時の所司代の中に光悦の芸術価値を認める者がいて、昔の儘の鷹ケ峯の芸術村が今に残っていれば、超一級の文化財遺産として内外の多くの客を引き付け、京の一大名所になっていただろうに惜しいことである。

                                  中村孝夫『本阿弥行状記』河出書房新社。

 彼の遺した芸術品は、従来の狩野派の克明な描写ではなく、極めて衣装的な、斬新な美で絶賛されており、一族から尾形光琳・乾山の兄弟が絶品を遺し、日本中世の美術の山々を築き「琳派の芸術」と称されている。次回はそれを紹介したい。

 

    

        京都の鷹ケ峯                   光悦寺山門

  

       江戸期の鷹ケ峯 光悦芸術村              光悦家の系図

 

   

   光悦素焼片身替茶碗 不二山・国宝       赤楽茶碗 加賀光悦

     

   船橋蒔絵硯箱 国宝      樵夫蒔絵硯箱 重文               小堀遠州注文の 膳所光悦

 

      

 

 社会的弱者への看護師らに感謝

 今夫婦とも老人になってしまって、家事さえ行き届かず、その上私は障害者一級、要看護二級で、日常生活は順調とは行きにくい。昔は大家族主義で人手もあったが、昨今の核社会では遠方に住まいする子供に面倒を見てもらうのも困難で、流行の老人看護マンションもあるがやはり自宅で老後を済み続けたい。そうなると結局いろいろな訪問看護師にお世話にならざるを得ない。

 

 先ず家の掃除も行き届かなくなって、週一回家の掃除に来てもらっている。また私は複雑骨折で腰を痛め、歩行も困難で、整形の病院通いも出来無いので訪問マッサージ師に毎日来てもらっている。また家には寝たきり病人もあり、週何日か、施設に送り迎えで入浴等のお世話になっている。これらの方々の援助が無ければ老人ホーム行きだ。

 

 私が感心するのは、これら看護を引き受けて下さる方々は、みんな優しく、嫌な顔をせず、手を省かず、てきぱきと働いてもらっていることである。仕事とはいえ、人様の世話を立派に果たされる姿に、私は感謝している。家に来て頂いている方々はいい人ばかりである

 しかも支払うお金は障害者保護をうけ、自分の金銭負担は少額で済んでいる。治療費の大半は府・市から援助してもらっている。年金者の身になって初めて日本の医療・看護制度に感謝している。日本は年寄りにとっていい国だと思う。日本人でよかった。皆さん有難う。

 

 

 

 

大和高原 田原の里

 奈良市の東、若草山・御笠山の奥は高原が広がり、大和高原と呼ばれて縄文時代から人々が住み着き、都祁ーつげー国と云われた時代もあった。奈良の高畑、百毫寺から今はハイウェイが通じているが、昔は高円山の山麓の縁を登る鉢伏峠道しかなかった。

 

 710年飛鳥から平城(奈良)に都を遷された時、万葉歌人としても有名な天智天皇の皇子志貴皇子は、新しい奈良の都の中には住まわれずに、郊外の百毫寺に邸宅を持たれ、更に鉢伏峠を越えた大和高原に別宅を構えられた。都での皇統の争いの渦中から距離を置かれ、雅びな生活を楽しまれていた。後思いがけず王子の白壁王が奈良朝最後の光仁天皇となられるのである。

 

 さて志貴皇子が崩ぜられた時、奈良から大和高原を入った所に御陵を造られた。春日宮天皇田原西陵という。前の小山の峰を切通にして参道を造られており風情ある御陵である。この御陵地のすぐ南に奈良時代志貴皇子が住まわれていた田原の別宅があった。地元では「親王山」また「ミナイバラ」と呼ばれている。昔は庄屋も勤められていた旧家の樫原博さんの住宅となっている。私は招かれてお訪ねして、裏の畑に案内してもらった。眼下に田原西陵が見渡される高台である。ここが志貴皇子の田原別宅跡である

 

 この離宮で、王子の白壁王(後の光仁天皇)が、土師氏の下で志貴皇子の古墳造りに来ていた百済帰化人和乙繼ーやまとおとつぐーの娘新笠姫と恋に落ちられて、山部王(後の桓武天皇)を産まれた。帰化人の賎母を持つ山部王の即位には反対が多かったが、藤原百川の強力な推薦で天皇になられ、都を平安京・京都に遷つされた。桓武天皇は父よりもこの母に孝養を尽くされ、また百済系帰化人を重用されている。

 父の光仁天皇崩御の時、桓武天皇は御陵を京都と奈良の境辺りに造られたが,田原に住む菅原氏と衣笠姫の実家和氏-やまとしーが、田原に遷すことを願い出、数年かけて彼らの居住地の日笠に改葬された。光仁天皇田原東陵という。松林に囲まれた美しい円墳である。その田原東陵から数百米西に向かうと{「古事記」の編者太安万侶の墓がある。ここから見る景色は茶畑がうねりを見せている桃源郷である。田原高原は奈良に近いが、里山の田舎の風情を遺す別天地で、いい所である。

 

 なお長岡京遷都後に崩ぜられた母の衣笠姫の御陵は、北の京都市西京区大枝町にある。また白壁王は青年時代、召使いの賎女に男の子を産ませている。母子は追い出され、子は天王寺で僧行して、後に大阪箕面山中で修行、箕面勝尾寺の初代管長に推され、お墓は山の上に「開成皇子墓」があり、宮内省が管理されている。

 

     

        田原西陵(志貴皇子御陵参道)            志貴皇子の田原別宅ミナイバラの後の樫原博宅

 

         田原東陵(光仁天皇御陵)      

 

 

 

 

 

  奈良の池の中道ー癒しの道

 コロナ騒ぎで、ゴールデンウイークも人の集まる観光地は閑散たるもの。だが家に閉じこもるのも、田舎の大きな家では支障がないが、都会のアパートやマンション暮らしの人は、心身共に健康的ではない。よって観光地で人の集まらない郊外の絶景地でのハイキングで、今までの鬱を癒されては如何かと考える。そこで推奨したいのは、緑と水の中の、奈良の池の中道ー癒しの道である。

 

  近鉄奈良線西大寺駅で京都線に乗り換え、最初の駅が平城駅である。北に歩くと広大な前方後円墳の神功皇后陵に突き当たる。それを拝して駅に引き返し、東へ細い道を辿ると成務-せいむー天皇陵と日葉酢媛命-ひばすひめのみことーの御陵の北側に着く。両側の周濠の堀の池の真中を区切っている堤がある。ここが今日の第一の休憩ポイントで、人も殆ど通らない。携えて来た駅弁を食べて寝そべれば、心も広がり家で閉じ込められていた鬱も癒される。時間も忘れるいい場所である。

 

 休憩が終わると池の中道を南に行くと、政務天皇陵と日葉酢媛命の巨大な御陵の前に出る。日葉酢媛命は弥生時代からの丹波の豪族の娘で、崇神天皇の佐保姫皇后の死の後、後妻として皇后に登られた。そして景行天皇を生み、その子に成務天皇が産まれる。成務天皇は日葉酢媛命にとって可愛い孫に当る。この成務天皇は滋賀に都を遷されたとも、九十五歳で崩じたともいわれるが、存在の薄い天皇て学者は天皇とは認めていない。ただ天皇にならなかったとしても、実在していたのか祖母の日葉酢媛命は可愛がり、自分の御陵の隣りに成務天皇が造られたとも考えられる。こような二つの大古墳が引っ付いているのも例がない。

 

 この両御陵を拝した後、道を東にとると、広大な水上池につく。都が京都に移った後、跡地を田畑にした時、用水の必要から水上池が造られたと思われる。広大な人工池である。そして作業の都合上この中道を造ったと思われる。今や満々と称えた池の中に伸びる一直線の道は、池の中を歩く者にとって癒しの風景である。その中道の途中で四方池に囲まれた中で、寝転ろぶと心が癒されること間違いない。

 

  水上池を出て南すると海龍王寺に出て、バスに乗れば近鉄奈良駅はすぐである。連休を家で過された家族は、あまり人々の行かない佐紀丘陵の道を歩いて英気を養われるのが良い。是非お勧めしたい癒しの道である。

 

   

                赤線部分が池の中道