京の鷹ケ峯 | 閑話休題

 京の鷹ケ峯

 京都の西北にある鷹ケ峯は、今でこそ光悦寺から街並みが続いているが、室町・戦国時代にかけては、盗賊や無頼者の屯する辺境の地であった。

 徳川家康が大坂夏の陣で豊臣家を倒し、京都二条城に帰還した時、主だった町衆がお祝いに駆けつけたが、刀剣の砥師として財をなし

ている本阿弥光悦の姿が無かった。家康はご機嫌斜めで、「さらば光悦を丹波道にて盗賊の住まいする鷹ヶ峯に移住させよ」と命じた。

 光悦58歳の時である。彼は鷹ケ峯の山深い原野を喜んでんでもらい受けて切り開き、下図のように東西200間、南北7町の宅地を造成して、親族の尾形家や、雁金屋、茶屋四郎三郎の呉服商はじめ、友だちの茶人,蒔絵師・筆師・紙すき・陶工などを集めて55軒に分譲、抜群の美意識を持つ光悦の指導の下に研鑽する芸家村を造った。

 ところが孫の光甫78歳の時、新しい地権者と所有権争いとなり、当時の京都所司代は光甫に敗訴を申し渡した。各業者は分散し、光甫らは江戸に移って行った。もし当時の所司代の中に光悦の芸術価値を認める者がいて、昔の儘の鷹ケ峯の芸術村が今に残っていれば、超一級の文化財遺産として内外の多くの客を引き付け、京の一大名所になっていただろうに惜しいことである。

                                  中村孝夫『本阿弥行状記』河出書房新社。

 彼の遺した芸術品は、従来の狩野派の克明な描写ではなく、極めて衣装的な、斬新な美で絶賛されており、一族から尾形光琳・乾山の兄弟が絶品を遺し、日本中世の美術の山々を築き「琳派の芸術」と称されている。次回はそれを紹介したい。

 

    

        京都の鷹ケ峯                   光悦寺山門

  

       江戸期の鷹ケ峯 光悦芸術村              光悦家の系図

 

   

   光悦素焼片身替茶碗 不二山・国宝       赤楽茶碗 加賀光悦

     

   船橋蒔絵硯箱 国宝      樵夫蒔絵硯箱 重文               小堀遠州注文の 膳所光悦