興福寺の天灯鬼・竜灯鬼 | 閑話休題

 興福寺の天灯鬼・竜灯鬼

 仏教では、閻魔大王に仕える鬼は恐ろしい形相をし、人間を苦しめる鬼とされているが、日本の民話では「瘤取り爺さん」のような、時には情も心得たユーモラスな鬼として出て来る。仏教の敵として仏像の足元に踏み付けられているが、おどけた表情をしている。この興福寺の天灯鬼・竜灯鬼は、仏堂内を照らす重い灯篭を、力いっぱい担ぎ捧げて、鬼として立派な働きをしている

 

 天灯鬼は渾身の力をこめて、かなり重そうな灯篭を肩と片手で支えるため、口を開き、体をひねって腰に重点を置き、全身に力を入れるために右手は硬く握られている。灯篭を支える肉体と筋肉の動きが、心にくいほど見事に表現されている。

 一方竜灯鬼は軽々と頭で灯篭を支えているが、灯篭の重心を安定せんがために、神経を頭上に集中させている。眼は自然と上の頭に向けられ、灯篭が落ちないかと睨んでいるようで、それがまた何ともおどけた表情に作られている.どんぐり鼻とあどけない目つき、そして尻尾を捕まえられた竜の困ったような表情、―厳しさとユーモラスを巧みに融合せた心憎い神技である。

 

 この両作品は、鎌倉時代の偉大な彫刻家、運慶の三男康弁の作とされている。私はこの作品を見るたびに、下絵のデッサンが遺されていたらならばと思う。土で塑像を造るのは後で修正が出来るが、木や石の彫刻は、一寸の掘り過ぎ、梳り過ぎも許されない。何日間の緊張感の連続は只人の出来るものではない

 この作品は同じ興福寺の阿修羅像に比べてあまり関心が寄せられていない。勿論国宝であり鎌倉時代の傑作であるが、「幾分工芸的な」「幾分装飾的な」性格があるからだろうか。このように想像上の鬼を人間に似せて、うまく捉えた「捉え方」と、もうひとつは筋肉の動きなどを徹底的に追求した、芸術の極致を示す「創造の技法」と、ユ―モラスな表情の表現はさすがである。

 それにしてもこのような見事な芸術品を、後世のわれわれに遺してくれたことは嬉しい限りである。

 

        

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