大和高原 田原の里 | 閑話休題

大和高原 田原の里

 奈良市の東、若草山・御笠山の奥は高原が広がり、大和高原と呼ばれて縄文時代から人々が住み着き、都祁ーつげー国と云われた時代もあった。奈良の高畑、百毫寺から今はハイウェイが通じているが、昔は高円山の山麓の縁を登る鉢伏峠道しかなかった。

 

 710年飛鳥から平城(奈良)に都を遷された時、万葉歌人としても有名な天智天皇の皇子志貴皇子は、新しい奈良の都の中には住まわれずに、郊外の百毫寺に邸宅を持たれ、更に鉢伏峠を越えた大和高原に別宅を構えられた。都での皇統の争いの渦中から距離を置かれ、雅びな生活を楽しまれていた。後思いがけず王子の白壁王が奈良朝最後の光仁天皇となられるのである。

 

 さて志貴皇子が崩ぜられた時、奈良から大和高原を入った所に御陵を造られた。春日宮天皇田原西陵という。前の小山の峰を切通にして参道を造られており風情ある御陵である。この御陵地のすぐ南に奈良時代志貴皇子が住まわれていた田原の別宅があった。地元では「親王山」また「ミナイバラ」と呼ばれている。昔は庄屋も勤められていた旧家の樫原博さんの住宅となっている。私は招かれてお訪ねして、裏の畑に案内してもらった。眼下に田原西陵が見渡される高台である。ここが志貴皇子の田原別宅跡である

 

 この離宮で、王子の白壁王(後の光仁天皇)が、土師氏の下で志貴皇子の古墳造りに来ていた百済帰化人和乙繼ーやまとおとつぐーの娘新笠姫と恋に落ちられて、山部王(後の桓武天皇)を産まれた。帰化人の賎母を持つ山部王の即位には反対が多かったが、藤原百川の強力な推薦で天皇になられ、都を平安京・京都に遷つされた。桓武天皇は父よりもこの母に孝養を尽くされ、また百済系帰化人を重用されている。

 父の光仁天皇崩御の時、桓武天皇は御陵を京都と奈良の境辺りに造られたが,田原に住む菅原氏と衣笠姫の実家和氏-やまとしーが、田原に遷すことを願い出、数年かけて彼らの居住地の日笠に改葬された。光仁天皇田原東陵という。松林に囲まれた美しい円墳である。その田原東陵から数百米西に向かうと{「古事記」の編者太安万侶の墓がある。ここから見る景色は茶畑がうねりを見せている桃源郷である。田原高原は奈良に近いが、里山の田舎の風情を遺す別天地で、いい所である。

 

 なお長岡京遷都後に崩ぜられた母の衣笠姫の御陵は、北の京都市西京区大枝町にある。また白壁王は青年時代、召使いの賎女に男の子を産ませている。母子は追い出され、子は天王寺で僧行して、後に大阪箕面山中で修行、箕面勝尾寺の初代管長に推され、お墓は山の上に「開成皇子墓」があり、宮内省が管理されている。

 

     

        田原西陵(志貴皇子御陵参道)            志貴皇子の田原別宅ミナイバラの後の樫原博宅

 

         田原東陵(光仁天皇御陵)