8月27日から1泊2日でお伊勢参りに行ってきました。
川崎から伊勢神宮までは距離にして約300キロ、片道5時間30分のドライブです。
ここは、伊勢湾岸自動車道の名港潮見インターの辺りでしょうか。天候に恵まれました。
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川崎の自宅を早朝5時に出て、伊勢には11時に到着です。
途中のサービスエリアで早めの昼食に「伊勢うどん」をいただきました。早速、伊勢神宮外宮をお参りします。
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伊勢神宮外宮(げくう)は、衣食住の神様を祀っています。
最初に堀川に架かる表参道火除橋を渡ります。
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手水舎で身を清めます。
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北御門鳥居をくぐります。
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御厩
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神楽殿
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参道の両側には大きな古木が並んでいます。
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正宮(しょうぐう)は、衣食住、産業の守護神として尊崇を受ける豊受大御神(とようけのおおみかみ)が祀られています。
撮影は鳥居の手前までです。
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大きな古木の伐採のあとから新しい生命が宿っていました。
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土宮(つちのみや)は、古くからの土地の守り神を祀っています。
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風宮(かぜのみや)は、元寇に神風を起こした神々の社です。
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残暑が厳しく、気温は33度位あります。
せんぐう館で一時休憩です。せんぐう館は、平成25年に行われた伊勢神宮の第62回式年遷宮に合わせて創設されました。
涼しげなミストに誘われて皆さん吸い込まれるように入っていきます。
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施設の中も新しく気持ちが良いです。
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せんぐう館からは、まが玉池と奉納舞台の美しい景色を見ることができます。
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この後、伊勢神宮内宮(ないくう)をお詣りします。(続く)
江戸のむかしは、「昌平橋」一つが、湯島と神田駿河台を結んでいましたが、昭和3年に「聖橋」が架橋されています。
司馬遼太郎「街道をゆく(本所深川散歩、神田界隈)」で「聖橋」(ひじりばし)のことが触れられています。
「江戸・東京は、地名や橋の名のつけ方に洒落っけがある。北に孔子を祀る湯島台(*湯島聖堂)があって、南の神田駿河台にはニコライ堂(ロシア正教)がある。そこを結んでいるから聖橋だという」
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「聖橋」を渡ると、「湯島聖堂」が右側に見え、湯島聖堂前交差点を右折すると「神田明神」があります。
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平将門を祭神とすることで有名な神田神社(明神)は、江戸城の鬼門を守る「江戸総鎮守」として江戸時代は歴代将軍の尊崇を受けていました。さらに祭礼は昔も今も「日本三大祭」のひとつして賑わいます。
明治になると、朝敵が祭神であって良いのかということになって、1874年(明治7年)に平将門の神霊は別殿に移され、別の祭神が据えられた経過があります。
戦後になって、再評価され、1984年(昭和59年)に再び平将門が主祭神として祀られるようになっています。(その裏話ですが、昭和59年に放送されたNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門が人気になり、それに押されて復活したようです。)
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神田明神と言って、馴染みがあるのは、何と言っても野村胡堂が書いた時代劇「銭形平次捕物控」でした。その双璧だったのが、岡本綺堂の時代小説「半七捕物帳」だったように思います。
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野村胡堂については、司馬遼太郎さんが詳しく「街道をゆく」の中で書いています。
それによりますと、野村胡堂は岩手県の出身で、母校の盛岡中学では石川啄木が一級下にいた。胡堂は同級生に頼まれて、中学時代に石川啄木の詩を読んで評価した。「恐ろしく下手だと思った」、後年の啄木を予見できなかったことを後に正直に書いている。と司馬良太郎は紹介しています。ユニークなエピソードですね。
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繰り返しになりますが、やっぱり、神田明神下とくれば、銭形平次ですね。
神田明神下に世話女房のお静と住む銭形平次は大川橋蔵でした。
子分の八五郎と犯人を追う岡っ引きで、クライマックスでは決まって銭を投げつけ、犯人を捕まえて事件が解決するという筋書きでした。その銭形平次の碑が神田明神にあります。
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結構な勾配のこの階段は「明神男坂」です。その下が明神下で銭形平次の長屋があったところです。
こうして見ると、湯島台という山の上に神田明神があったことがよくわかります。
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神田明神を出て、この昌平坂を下ると「史跡 湯島聖堂」です。
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林羅山家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが湯島聖堂の始まりです。
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その後、1797年(寛政9年)林家の手を離れて幕府直轄(官立)の昌平坂学問所となりますこれは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれいます。
昌平という名前は、孔子が生まれた村(現在の山東省の昌平)の名前をとったと言われています。
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昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈されたもので、丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大だそうです。
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湯島聖堂についてはもう一つ触れておきたいことがあります。
それは、明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれたことです。
その翌年には、オーストリアでウィーン万国博覧会が開催されることになっていたため、その準備も兼ねていました。
湯島聖堂で開催されたこの博覧会は、恒久的な展示を行なう博物館の誕生としていて、東京国立博物館はこれをもって創立・開館の時としているのです。
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今回は司馬遼太郎さんの「街道をゆく」に触発され、思いの外、「銭形平次」に力が入ってしまいました。
今回ご案内したところは、
(完)
「むぎとオリーブ」で「鶏SOBA」を食べたあと、オシャな煉瓦造りに魅せられて中を覗いてみることに。この建物は「mAAch ecute(マーチエキュート)神田万世橋」という名前の商業施設でした。
このマーチエキュートは、明治の初めに中央線神田駅と御茶ノ水駅の間にあった「万世橋駅」のプラットホームの遺構を蘇らせたものなんです。
まずは、「フクモリ」へ。
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「フクモリ」は、山形や東東京にまつわる作家やプロダクトを中心に器や服、小物を取り揃えているお店です。
奥には山形の食材を活かした"カフェ兼定食屋"さんがあります。
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「旧万世橋駅」はかつて「鉄道博物館(のちに交通博物館)」でした。小学校の社会見学で行った覚えがあります。
入口のガラス面に「1935階段」と記されています。
これは、鉄道博物館を建設した1935年(昭和10年)に造った階段であることを示しています。
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この「1935階段」を上ると、旧万世橋駅ホーム部分をデッキとして蘇った「2013プラットホーム」に立つことができます。
線路階にあるホームはガラス面で囲まれていて、中央線がすぐ両脇を行き交う光景を見ることができます。
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マーチエキュートに入っている商業施設。
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1912年に中央線の昌平橋~万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電の乗換ターミナルとして栄えました。当時は銀座と並ぶほどの賑わいがあったそうです。
1923年9月1日の関東大震災で初代駅舎は焼失し、現存した基礎を元に2代目駅舎を1925年に完成しました。1943年、太平洋戦争の激化の中、乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止されます。
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万世橋という橋名にちなんで付けられた「肉の万世」の「万世 秋葉原本店」は1949年創立です。
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万世橋は1873年(明治6年)にアーチ二連の石造りの橋として完成。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名しましたが、次第に「まんせいばし」という音読みが一般化し、現在に至っています。
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万世橋高架橋の下には神田川が流れています。
司馬遼太郎「街道をゆく」シリーズの「本所深川散歩、神田界隈」によると、この「神田川」は家康の命で堀削された「神田御茶ノ水掘割」のことで、江戸初期に造ったもの。もともとは湯島と神田山(駿河台)は続いた台地だったのを深い濠を掘って、その谷に神田川の水を通したものなのです。
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蘇った万世橋高架橋の中に入ってみます。
中に入ると150メートルの通路に沿って商業施設が並んでいます。
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とてもモダンな感じがします。
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共用部分にはこんなジオラマが展示されています。
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マーチエキュートのアクセスマップです。
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このあと、「聖橋」を渡り、神田明神に行きます。
今日は、神田須田町にある「かんだやぶそば」に来ました。お昼の時間を外したつもりでしたが、考えることは皆同じ。かなり並んでいますね。仕方ないので、諦めることに。結構、諦めの早い方かもしれません。いや、並ぶのが嫌いだけなのです。
さて、今回のコースはこちら。
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「かんだやぶそば」は、明治13年(1880年)創業で、藪そばの総本家。辛口のツユにちょいとつけてすするのが粋とか。
次回楽しみにしておきます。
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折角なので、神田須田町界隈をぶらつくことに。「かんだやぶそば」の正面の路地を歩いていると、変わった看板が目につきます。「連雀亭」・・・?
wikipediaによると、「落語家古今亭志ん輔のプロデュースにより開設されたコンパクトな寄席で、原則として、二つ目の落語家、講談師が出演している。座席数は38名。席亭やスタッフはおらず、出演者自身が呼び込み、受け付け、開演時の案内などを行う高座と客席が極めて近い会場として知られている。」
詳しくは、こちらをご覧ください。https://ameblo.jp/renjaku-tei/
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神田須田町の界隈は、江戸時代からの老舗が暖簾を掲げているところで、東京の中でも町人文化を味わえる場所として有名です。
このお店は「いせ源」さん。天保元年(1830年)の創業のあんこう鍋の老舗です。
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こちらは、昭和5年(1930年)創業の甘味処の「竹むら」さん。揚げ饅頭が有名だそうで、池波正太郎の小説にも登場する老舗。本日は休業でした。
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こちらは、鳥すき焼きの「ぼたん」さん。
「明治より“鳥すきやき”一筋、未だガスを使わず備長炭と鉄鍋で昔ながらの味を落とさぬよう心がけて参りました。戦災をまぬがれた昭和初期の建物で、鳥一羽それぞれの肉の旨味を生かした“鳥すきやき”をご賞味ください」と紹介されていました。
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平日のお昼時は、神田のサラリーマンで喧騒となる須田町界隈ですが、日曜日の午後ともなると静けさが漂っています。
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旅行ガイドブック風に撮って見ました。
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ということで、老舗に執着せずに食事処を見つけることに。
近くに煉瓦造りの洒落たお店を発見! 店名は「むぎとオリーブ」。どう見てもカフェのような感じなのですが・・・。
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れっきとした「ラーメン屋」さんでした。
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大山鶏ガラと丸鶏を使ったキレのあるスープで、とても美味しかったですよ。
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ごちそうさまでした。次回も神田界隈を散策します。
河津七滝を見た後、さらに下田街道を走り、天城越え(新天城トンネル)し、「浄蓮の滝」に向かうことにしました。
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ここでも「伊豆の踊り子」と遭遇します。
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伊豆の踊り子の石像の横にある階段を降りて行くと、今や、演歌の女王の風格さえ漂う石川さゆりさんのヒット曲「♩天城〜越〜え〜」のプレートがあります。
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そこから見える「浄蓮の滝」は、豊富な水量を豪快に叩きつけることによって、水蒸気となった水しぶきは周りの暑気を和らげてくれています
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今回の目的は「渓流づり」です。管理釣り場ですが、自然の渓流でニジマスやアマゴを釣る醍醐味はなんとも言えません。中央の緑はワサビ田です。
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ここで、利用料金を払います。家族には釣りをしない者もいるので、男衆で30分一本勝負です。
餌はイクラ、竹竿に巻き付いた仕掛けを解き、餌を付けて流れの淀む岩陰に誘います。
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さすがにお盆休みとあって、大賑わいです。
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みんな真剣な眼差しですね。
30分でニジマスなど3匹まで持ち帰れるというルールです。
受付に戻ると、釣ったニジマスは、お店の方が一匹づつ、さばいて、塩を振ってお土産にしてくれます。もちろん、夕食のバーべキューに花を添えます。
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帰りがけに、道の駅「天城越え」に寄りました。
ここでは、名物の「わさび」を買いました。
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この道の駅「天城越え」の中にある「昭和の森会館」には、「伊豆近代文学博物館」が入っています。


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文学博物館には、伊豆に関係ある作家120名の資料原稿など展示されています。
特に川端康成・井上靖に関して詳しく、「伊豆の踊子」の肉筆原稿・井上靖の生原稿など、伊豆にゆかりの文学作品や作家の資料などを見ることができます。
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今回訪ねた観光スポットはこちらです。
(完)