江戸のむかしは、「昌平橋」一つが、湯島と神田駿河台を結んでいましたが、昭和3年に「聖橋」が架橋されています。
司馬遼太郎「街道をゆく(本所深川散歩、神田界隈)」で「聖橋」(ひじりばし)のことが触れられています。
「江戸・東京は、地名や橋の名のつけ方に洒落っけがある。北に孔子を祀る湯島台(*湯島聖堂)があって、南の神田駿河台にはニコライ堂(ロシア正教)がある。そこを結んでいるから聖橋だという」
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「聖橋」を渡ると、「湯島聖堂」が右側に見え、湯島聖堂前交差点を右折すると「神田明神」があります。
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平将門を祭神とすることで有名な神田神社(明神)は、江戸城の鬼門を守る「江戸総鎮守」として江戸時代は歴代将軍の尊崇を受けていました。さらに祭礼は昔も今も「日本三大祭」のひとつして賑わいます。
明治になると、朝敵が祭神であって良いのかということになって、1874年(明治7年)に平将門の神霊は別殿に移され、別の祭神が据えられた経過があります。
戦後になって、再評価され、1984年(昭和59年)に再び平将門が主祭神として祀られるようになっています。(その裏話ですが、昭和59年に放送されたNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門が人気になり、それに押されて復活したようです。)
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神田明神と言って、馴染みがあるのは、何と言っても野村胡堂が書いた時代劇「銭形平次捕物控」でした。その双璧だったのが、岡本綺堂の時代小説「半七捕物帳」だったように思います。
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野村胡堂については、司馬遼太郎さんが詳しく「街道をゆく」の中で書いています。
それによりますと、野村胡堂は岩手県の出身で、母校の盛岡中学では石川啄木が一級下にいた。胡堂は同級生に頼まれて、中学時代に石川啄木の詩を読んで評価した。「恐ろしく下手だと思った」、後年の啄木を予見できなかったことを後に正直に書いている。と司馬良太郎は紹介しています。ユニークなエピソードですね。
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繰り返しになりますが、やっぱり、神田明神下とくれば、銭形平次ですね。
神田明神下に世話女房のお静と住む銭形平次は大川橋蔵でした。
子分の八五郎と犯人を追う岡っ引きで、クライマックスでは決まって銭を投げつけ、犯人を捕まえて事件が解決するという筋書きでした。その銭形平次の碑が神田明神にあります。
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結構な勾配のこの階段は「明神男坂」です。その下が明神下で銭形平次の長屋があったところです。
こうして見ると、湯島台という山の上に神田明神があったことがよくわかります。
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神田明神を出て、この昌平坂を下ると「史跡 湯島聖堂」です。
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林羅山家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが湯島聖堂の始まりです。
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その後、1797年(寛政9年)林家の手を離れて幕府直轄(官立)の昌平坂学問所となりますこれは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれいます。
昌平という名前は、孔子が生まれた村(現在の山東省の昌平)の名前をとったと言われています。
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昭和50年(1975)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈されたもので、丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大だそうです。
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湯島聖堂についてはもう一つ触れておきたいことがあります。
それは、明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれたことです。
その翌年には、オーストリアでウィーン万国博覧会が開催されることになっていたため、その準備も兼ねていました。
湯島聖堂で開催されたこの博覧会は、恒久的な展示を行なう博物館の誕生としていて、東京国立博物館はこれをもって創立・開館の時としているのです。
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今回は司馬遼太郎さんの「街道をゆく」に触発され、思いの外、「銭形平次」に力が入ってしまいました。
今回ご案内したところは、
(完)