磯貝一は山嵐を間違って伝えた戦犯なのか? | 上条武術研究所

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昨日の記事の続きです。

1997年に発行された『YAWARA』で推測されている山嵐の真実をまとめてみると…、

まず、本来の山嵐は後方に倒す技。
その証拠に、明治38年の柔道極意と、昭和9年の柔道今昔物語には後ろに倒す技としての記述がある。
明治19年、警視庁武術大会開催。しかし、明確な記録は残っておらず、残されている証言や回想には記憶違いがあり、講談や小説には誇張や演出がある。
明治42年の磯貝一が書いた柔道手引草なる教本にて、前に投げる型の山嵐が紹介される。
紹介17年の姿三四郎の執筆者に磯貝一が山嵐の指導をしている。
姿三四郎のヒットで山嵐が本来と違う形で広まった。

勿論、ちゃんとした専門家が資料を検証して書かれた書籍ですから、こういう疑問がありますよ程度にしか書かれてませんが、その疑問をまとめるとこういうことになります。
この定説ではない疑問のほうを史実とすると、山嵐を間違えて伝えた犯人は、磯貝一という人物ということになるんですよね。

というわけで、磯貝一を調べてみようと思います。


磯貝一。


明治4年、宮崎生まれ。

関口流の家系に生まれ、同流を学んで後に上京、明治24年に講堂館に入門。
明治28年、武徳会に参加。嘉納治五郎の命にて、講堂館柔道普及のために関西へ派遣される。
当時の関西地方は、不遷流や関口流など強豪流派が幅を利かせている地域で、磯貝一は講道館の実力を示すために、数々の柔術家と立ち合うこととなる。

そして、それらの立ち合いの中で、立ち技専門の講堂館柔道の弱点が寝技にあることを認識し、柔道における寝技の技術体系を作り上げる。
明治32年、武徳会初の柔道教授となる。

明治42年、柔道手引草を執筆。

昭和12年、十段を授与。
昭和22年没。

経歴を見ると、実践派の人物と思われます。とても、演出や誇張などをするような人とは思えないですね。

あと、西郷四郎の山嵐が有名になる警視庁武術大会には時期的に参加していない。当日の山嵐を見たわけではない。

 

何故、磯貝一が前に投げる型の山嵐を紹介したのか?

調べているうちに、磯貝一が武徳会柔道を批判をしている資料があることを知りました。

昭和16年に書いた磯貝一の回顧録にそれがあるようです。

 

内容としては、明治39年の武徳会制定柔術形以降、手技、足技のような転がしたり崩したりを目的とする小技が消え、腰に乗せて投げる大技が推奨される文化になっていったことを語っています。

要するに、本来の講道館柔道の技術が継承されていないことを嘆いているのです。

 

確かに武徳会柔道の目的は、国民の士気を高めるための体育と徳育で、実戦性云々ではないんですよ。
世界大戦の時代なので、実戦と言えば、刃物捕物などではなく重火器や兵器の時代。
体力養成が行える腰投げや大技傾向に移行していくのは、時代的に仕方がないとも言えます。


武徳会の考えが正しいのか、磯貝が考えが正しいのかの判断は難しいです。

今だと、レスリングに近いポイントを取ることを目的とした試合に勝つためだけの技は、昔ながらの一本を取る柔道ではないと否定する先生はよくいるんですけど、さらに時代を遡れば、その一本を取る柔道は、体育教育としての柔道で、昔ながらの講道館の柔道ではないと否定していた先生もいたわけです。

まあ、個人的には、その人が何を目的としているかで選べば良いだけだと思うんですけど。

今はJUDOの時代ですから、時間ギリギリまで組手争いをして、リスクを減らして判定で絶対に勝つという柔道を指導する先生がいても、それはそれで良いわけです。

 

話が逸れましたが、明治39年の武徳会の形を制定した辺りを境にして、柔道から手技や足技が消え、それが腰技へ変化していったようです。
山嵐を腰技のような前に投げる技として紹介している磯貝の著作『柔道手引草』は明治42年発行。その当時の磯貝は武徳会柔道の教授。

そして、それ以前の柔道の教本には、山嵐だけでなく、体落としや払い腰ですらも、後ろに倒す技として紹介されている。

 

山嵐の真実を調べてましたが、それだけでなく、教本によって同名の技なのに違う技が載っている点についての全貌もなんとなく掴めてきましたよ、これは。

というわけで、この何日かに亘って収集してきた山嵐の情報を、私なりにまとめて推測してみましょう。

 

 

~以下の年表は、私の推測も含みますので、資料には使わんで下さい!~

 

元々、『山落』というこの技があった。

※なお、この『山落』は技の掛け方から、当時の『谷落』と対を成す技だったと考えることもできる。

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この技を西郷四郎が得意にしており、嘉納治五郎が『山嵐』と名付けた。

 

明治19年、警視庁武術大会にて、西郷四郎がこの山嵐を披露。

※ちなみに勝敗を決めたのは巴投げで、山嵐で勝ったわけではない。

 

明治38年、初の講道館柔道テキストである『柔道極意』が出版。

※体落も山嵐も、このような後方に倒す技として記載されている。

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明治39年、武徳会柔術形の制定。

※ここから柔道の体育教育化が急速に進行し、武徳会では手技や足技の腰投げ化が進む。明日のブログネタにしようと考えているのですが、足技と腰投げをつなぐミッシングリンクである『横投げ』という技術も存在している。

 

前に投げる型の山嵐が誕生!

 

明治42年、柔道手引草の出版。

※ここで前に投げる山嵐が登場。著者は武徳会柔道教授の磯貝一。

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大正2年、柔道極意独習の出版。
大正8年、武徳会柔道教範の出版。

昭和9年、柔道今昔物語の出版。

※この3つの書籍では、未だ後方に倒す山嵐が書かれている。柔道極意は『有馬教本』と呼ばれ、後年の書籍にも影響を与え続けているため。まだ、前に投げる山嵐と以前の山嵐が混在していた時代だと思われる。

 

昭和17年、小説、姿三四郎の出版。

※著者の富田常雄はこの執筆にあたり、磯貝一より技術の指導を受けているため、前に投げる型の山嵐を描く。著者の父、富田常次郎の「山嵐は体落としの要領の投げ。」との発言にも、体落としも体落としで前に投げる型の投げに変化しているので、そこへの辻褄も合う。

 

前に投げる山嵐のほうが定説となる。

 

昭和27年、黒沢映画の演出で、姿三四郎の吹っ飛ばす山嵐が誕生。
柔道関係者がずっこける。

 

あらゆる情報と資料の辻褄を合わせると、こんな感じの時系列になるんですよね。

何だろう…。

別に良いんですけど、僕が復活させようとして執筆している武徳会柔道の教範の価値の無さ。調べてみると、柔道極意の解説本の柔道極意独習なる書籍のコピー本でしかなかったというね。

このブログ上で、武徳会教範復刻のサブ的な位置付けでやっていた山嵐の真相を探る記事のほうがよっぽど興味のある話になるわ。

教範の復刻ではなく、武徳会柔道全般の本にシフトチェンジしていきます。