Dune: Part Two(2024 アメリカ)
監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ
脚本:ドゥニ・ヴィルヌーブ、ジョン・スパイツ
原作:フランク・ハーバート
製作:メアリー・ペアレント、ケイル・ボイター、パトリック・マコーミック、タニヤ・ラポワンテ、ドゥニ・ヴィルヌーブ
撮影:グレイグ・フレイザー
美術:パトリス・バーメット
編集:ジョー・ウォーカー
音楽:ハンス・ジマー
視覚効果監修:ポール・ランバート
出演:ティモシー・シャラメ、ゼンデイヤ、レベッカ・ファーガソン、ジョシュ・ブローリン、オースティン・バトラー、フローレンス・ピュー、デイブ・バウティスタ、クリストファー・ウォーケン、レア・セドゥ、スエイラ・ヤクーブ、ステラン・スカルスガルド、シャーロット・ランプリング、ハビエル・バルデム、アニャ・テイラー=ジョイ
①IMAXの本領発揮!
ハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)の奇襲によってアトレイデス家は滅亡。砂漠に逃れたポール(ティモシー・シャラメ)とその母ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は、砂漠の民フレメンに迎えられます。チャニ(ゼンデイヤ)に惹かれるポールはフレメンの流儀を学んでいき、ハルコンネンへの反撃を開始します…。
今回は、ちょっと独特な映画体験をしました。
本作は現時点で2回観てるんですが。1回目は、先行上映の時に観ました。フォーマットはDolby Cinema。
もちろん面白かったし、感動したし、大いに満足したのだけれど。
でも、そこまで「圧倒される」ような映画体験ではなかったんですよね。
割と冷静な感想で、「すぐにももう1回観たい!」とはならないくらいの受け止め方だったのだけど。
でもやっぱりIMAXも観ておきたいなあ…と思って。
細部を楽しむくらいのつもりで、2回目をIMAXで観たのですが。
そうしたら…圧倒された!
興奮した。めちゃめちゃ心を持っていかれました。
何この映画凄い!という、すっかり浮ついた状態になってしまいました。
今すぐもう1回観たい! おかわりしたい!
IMAXも最初はびっくりしたけど、何回も観てると慣れてくるし、他のDolbyとか轟音上映とかも迫力あるし、最近はそこまで特別感を感じることも少なかったのですが。
今回は、久々に凄いなIMAX!と思いました。これは本当に、本領発揮してる。
スケールの大きな独創性に満ちた絵作りと、体の芯まで揺るがす音響。視界全てを画面が覆い、音響に包まれることで、3時間近く異世界に没入できる。ほとんどVR状態。
なんかIMAXの宣伝みたいなこと書いてますが。今回本当に、心からそう思ったんですよね。
もちろん、客観的な評価とまでは言えないと思います。単に個人的にそう感じただけ。
2回目だから物語を追うのに気を取られないのが良かった…という面もあるだろうし、単にその時の自分のコンディションの問題かもしれない。
でも、IMAXというフォーマットの良さを最大限に活かしている作品であることは、間違いないですね。「ただ画面がデカいだけ」としか感じない作品も、いっぱいあった訳だから。
なので、これは可能な限りIMAXで、そうでなくても出来る限り大きなスクリーンで観るべき作品だと思います。
地理的条件とかいろいろあるとは思うのだけど、それでもなお。場合によっては遠征してでも、その価値はあると思います。
少なくとも、配信待ってる場合じゃないですよ。テレビとか、スマホなんて論外です。今すぐ映画館へGO!です。
②世界観でエモさへ突き抜けるヴィルヌーヴの作風
という訳で、「デューンPART2」です。
当然ながら、「PART1」の続きです。
もともと原作は1冊の本で、それを分割しただけなので、続編というよりは後編です。同じ映画の後ろ半分。
「PART1」の鑑賞は必須です。
なので、基本的に映画のトーンはPART1と同じなのですが。
同じ物語の後ろ半分なので、必然的にクライマックスはPART2に集中してくることになります。
世界観と登場人物の紹介に多くの時間を取られていたPART1と違って、最初から物語がうねりを持って動き出すPART2。
PART1のゆったりしたトーンが苦手だった人も、こちらの方が観やすく感じるんじゃないかなと思います。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作風は割と独特で。決して「わかりやすくはない」と思うんですよね。
物語が難解だとか、奇をてらっているとかではないんだけど。ストーリーテリングは堅実で、きちんと正攻法で、ストーリーやテーマが伝わるように語っていく。
でも、「わかりやすいカタルシス」には向かわない…というか。
派手な映画的高揚の連続で見せていくような方法を、あえて取らない。抑制的なトーンで、じっくりと「奥にあるエモーション」を読み取らせていく…というような作風だと感じています。
「メッセージ」や「ブレードランナー2049」も、それに「デューンPART1」もそんな作風だったと思うのです。
本作も基本的には同様で、全体のトーンは抑制的。ベタな盛り上げとは一線を画している印象があります。
ラストバトルも時間的には短くて、割とあっさり。ダイジェスト的と批判されたリンチ版と比べても、決して長くはない。ケレン味は抑え気味です。
たぶん、ぼんやりと筋だけ追っていたら、なんだか盛り上がりのない映画だなあ…と感じるかもしれない。(僕の1回目の鑑賞は、ややその傾向があったかもしれない)
でもね。ヴィルヌーヴの本領は、その圧倒的な世界観の作り込みと、それをビジュアルとして再現する「絵力」の強さなんですよね。
想像力によって生み出された、今まで見たことのない驚異的なイメージ。それをただ見るのではなく、その中に放り込まれるような臨場感。
世界観がもたらす強烈なカタルシスがあるから、抑制的な物語のトーンとちょうどバランスが取れている。
世界観によって心が激しく動かされるから、その奥にある登場人物の感情、エモーショナルな感動にも、思わず一体化されてしまうのです。
こういうところ、連想するのはキューブリックの作風です。
わかりやすいカタルシスを描くのではなく、驚異的な世界観を構築することで、クールな筆致がその先のエモさにまで突き抜けてしまう。
本作を観て何度か思ったのは「これは2001年宇宙の旅だ」でした。本当に、その域に達している映画だと感じます。
③研ぎ澄まされたポールの成長譚
原作がある以上しょうがないのだけど、PART1は非常に登場人物が多かったので、登場人物の紹介でかなり尺が取られている感がありました。
PART2ではそのうち多くの人物が粛清され、ポールを中心としたシンプルな構図に組み直されています。それによってストーリーは極めてスッキリした枝葉の少ないものになっていて、そこも観やすさに繋がっていますね。
PART1ではレト公爵やダンカン・アイダホを始め、ポールを守る多くの忠実な保護者や臣下たちがいたのですが、ハルコンネンの攻撃によってそのほとんどが消え失せてしまう。
PART2でポールを守るのは、母親ジェシカだけ。周りは異なる文化を持ち、優しい庇護者とは言えないフレメンばかり。
そんな中でポールが逞しく成長していき、やがてジェシカに守られるのではなく、守る立場になっていく。
それどころか、フレメン全体を率いる指導者になり、遂には帝国の頂点にまで登り詰めていく…。
…という、完璧な成長譚。前後編の人物配置も「ポールの成長を描く」という物語の芯に直結しています。
「デューン」は古典なだけあって、物語の骨格は非常にオーソドックスなんですよね。
若く未熟だった少年が、試練を経て大人になり、頭角を現していく成長譚、ビルディングスロマン。
陰謀によって父王を殺され、一族を粛清された王子が身分を落とされ、民衆の中で経験を積んで、やがて王として帰還して復讐を遂げる貴種流離譚。
そして、宗教的啓示によって、人々の伝説に語り継がれる英雄になっていく救世主伝説。
そういう、古典的な物語の典型がベースにある。だから、基本的に物語が強いのです。
④救世主伝説を陰謀として描くシニカルな視点
でも、それだけなら「古臭い物語」に感じてしまうと思うのですよ。
今回の「デューン」映画化は、古典的物語を現代に再生させるために、非常に現代的なシニカルな視点を導入している。
そこが極めて周到だと思います。
貴族の少年が凋落して、庶民の間でリーダーとなって、やがて庶民を率いて王位を取り返す。
これは物語の原型ではあるけれど、やはり昔ながらの「リーダーは生まれながらの貴族。庶民は貴族に率いられる存在」という構図を反映したものにも映ります。
また、フレメンは異民族(特にアラブをイメージさせる)なので。
「外から来た人(白人)が未開の蛮族を統率して救世主になる」という、「白人救世主」の問題も、どうしても連想させてしまいます。
そこに自覚的だからでしょう。本作では、「単純なハッピーエンドに向かわない、シニカルな視点」が強調されています。
PART2で繰り返し言及されるのが、ベネ・ゲセリットの陰謀。
フレメンの間に語り継がれる「いつか異邦人の救世主がやって来てフレメンを解放してくれる」という救世主伝説は、実はフレメンの間で自然に発生したものではなく、ベネ・ゲセリットが意図的にフレメンに信じ込ませたものです。
つまり、ポールが救世主であるというのも、仕組まれた陰謀であり、嘘であるということ。
遺伝子交配によってクウィサッツ・ハデラックと呼ばれる「時空を見通す超人」を作り出すことが、宗教結社ベネ・ゲセリットの大目標です。
超人が生まれた時、それが人々に拒絶されず受け入れられるように、ベネ・ゲセリットは数百年の時間をかけて、宇宙の様々な民族に救世主伝説を流布しています。
これは原作にある設定であって、原作者フランク・ハーバートの時点で既に「白人救世主の問題」に自覚的だったことが伺えます。
「庶民を支配するのは白人救世主であるべき」という古い因習を、支配層による押し付けとして描くことで風刺している訳ですね。
ですが、例えばリンチ版では、あまり表に出てこない要素だったように思います。ヴィルヌーヴは今回、何度もこの要素に言及して、強調していますね。
⑤戦争がもたらす悲惨を真摯に見つめた現代的なテーマ
また、スパイスと「生命の水」によって未来を見通す力を得たポールは(これも60年代のドラッグ・カルチャーを反映しています)、自分がフレメンの救世主として立つことが、結果的に大戦争を引き起こし、何十億人もの死をもたらすことを予見してしまいます。
フレメンたちに求められ、フレメンたちを解放するための「正しい戦い」に見えるものが、戦争の連鎖を引き起こし、今以上の不幸をもたらしてしまう。
ポールの抱えるこのジレンマは、現代の戦争にそのまま通じる重大なテーマです。
スパイスという価値ある資源をめぐって、白人支配層が陰謀で現地に介入していく。
戦いは解放をもたらし、現地人には救世主として歓迎されるけれど、しかし戦いはまた別の戦いを誘発し、戦争はいつまでも延々と続いて、弱いものこそを苦しめてしまう…。
これはまさに、石油利権をめぐってアラブ世界で起きてきたことそのものと言えます。
そして、侵略に抵抗し、民族を守るための「正しい戦争」であるはずであっても、必ず戦禍の拡大に繋がり、不幸と苦痛をもたらすことから逃れられない。
支配層が始めた戦争で、長く苦しみの中に置かれるのは、いつでも末端の庶民たち。
中東に限らず、今の世界中で現実に起こっていることですね。
もちろん、そこに答えなどない。現実に答えがないのと同様に、ポールも明確な最適解に辿り着くことはできません。
最初のうち、ポールは戦争の運命を避けるため、「南に行く」ことから逃れようとするのだけれど、でもそのまま何もせずにいても、ハルコンネンの圧政でフレメンが苦しみ続けるだけ。
運命を受け入れ、ポールは「ベネ・ゲセリットによって用意された」救世主伝説に乗っかり、フレメンを率いていくことになります。
それは未来において数十億の犠牲をもたらすとしてもなお、抵抗のために戦争を受け入れるという、苦渋の決断でもある。
事態を収拾するための政略結婚を選び、チャニと距離を置くことが、ポールの選んだ道の困難さを象徴します。
だから本作の結末は非常にビターな、バッドエンドと言ってもいいような、悲痛なトーンになっています。
ポールとフレメンの勝利を朗らかに祝い、奇跡の雨でアラキスの緑化を示唆した「完全なハッピーエンド」のリンチ版とは、対照的ですね。
ヴィルヌーヴは「デューン/砂漠の救世主」を元にしたPART3を構想しているようですが、それがあったとしても、物語がハッピーエンドに導かれることはないでしょう。
だって、現実にはハッピーエンドなんてないから。
誰もが幸せになるような安易な解決策なんてものはそう簡単にはなく、人々は常に過酷な運命の中に置かれるけれど、でもその中で懸命にできる限りのことを選んで、生きていかなければならない…。
…という、シビアだけど誠実な世界観。それが今回の「デューン」を貫いています。
映像の迫力という点ではもちろんですが、物語のテーマという点でも、今観るべき映画の筆頭と言えるんじゃないかと思います。