Suspiria(2018 アメリカ、イタリア)
監督:ルカ・グァダニーノ
脚本:デヴィッド・カイガニック
原作:ダリオ・アルジェント、ダリア・ニコロディ
製作:マルコ・モラビート、ブラッドリー・J・フィッシャー、ルカ・グァダニーノ他
音楽:トム・ヨーク
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
編集:ヴァルテル・ファサーノ
出演:ダコタ・ジョンソン、ティルダ・スウィントン、ミア・ゴス、クロエ・グレース・モレッツ、ジェシカ・ハーパー
①オリジナルを超えた怒涛の2時間半!
最高でした! めっちゃ良かったです。
ダリオ・アルジェント監督の人気作のリメイクですが、見事にオリジナルを越える作品になっていたと思います。
オリジナル版は、特異な色彩感覚が魅力的なんだけど、言っても女の子がいろんな方法で殺されていくショックシーンが売りものの、B級スラッシャー映画じゃないですか。
(「そこがいいんじゃない!」という声には全面的に同意しつつ)
こちらは、ずっと重厚でシリアスな映画になっています。アート映画的に美しいと同時に、ホラーとしての凄みも十分すぎるほどにあります。
リメイクですが、キューブリックの「シャイニング」やフリードキンの「エクソシスト」に匹敵する、ホラー・クラシックになるんじゃないかと思いましたよ。少なくとも、カルト映画になるのは確実だと思います。
最近の映画では、「へレディタリー/継承」を思い出しました。暗黒の濃さが共通です。
最後の方、「へレディタリー」を連想するシーンがあるんですよね…。表現が若干、かぶってる。偶然でしょうけど、ちょっと不幸だなと思いました。
でも個人的には、「へレディタリー」よりこっちの方が好みでした。
「へレディタリー」は割と予定通りの結末に落ち着く感があるんですが、本作にはどんでん返しがある。
で、どんでん返しのその先において、ホラーとゴア描写が更にもう一段階ボルテージを上げるんです。
ルカ・グァダニーノ監督は少年時代から「サスペリア」のファンで、もし自分が作るなら…という思いをずっと温めてきたそうです。
溢れる思いが注がれまくって、気がつけば2時間半の超大作になってます。長いんだけど間延びはしない、怒涛の2時間半です。
キャラクターや設定は基本的にオリジナル版を踏襲していますが、ストーリーのほとんどは新しいものに生まれ変わっています。
ベルリンの壁や当時の政治運動、戦争の影などがテーマに盛り込まれているのも、独自の要素です。
特にラストはオリジナルを大きく離れて、驚きの結末に至ります。
映画の肌触りも含めて、まったく違うものに生まれ変わっているんだけど、そこは原典の大ファンである監督の作品ですからね。随所に、オリジナルへのリスペクトが感じられます。
どしゃ降りの雨や、赤の使い方、ジェシカ・ハーパーの登場もそうなんだけど、特に終盤の展開には、イタリアンホラーらしいB級感、やり過ぎ感も感じます。
シリアス一辺倒でもない、グロテスクなユーモアも。
モンスターも登場します。ちゃんと、えげつない量の血しぶきが飛びまくります。
ここら辺も、嬉しいところですね。
②1977年のベルリンがもたらす混沌と不吉な影
1977年のベルリン。精神分析医のドクター・クレンペラーをパトリシアが訪れ、マルコス舞踏団には魔女が巣食っていると訴えます。
アメリカから来たスージーはダンスの実力でオーディションに合格し、マルコス舞踏団に迎えられます。スージーは、姿を消したパトリシアの部屋を与えられ、彼女の友人だったサラと仲良くなります。
スージーら若い生徒たちはマダム・ブランの指導を受けます。舞踏団の人々はブラン派と、姿を見せない創始者のマザー・マルコス派に分かれ、多数決の結果今もマルコスがリーダーであり続けていました。
パトリシアの失踪は、生徒たちの間に動揺と疑いを引き起こしていました。一方、パトリシアの行方を探すクレンペラーは、舞踏団の秘密を探り始めます…。
1977年はオリジナル版が公開された年ですね。オリジナル版の舞台は森の奥にたたずむ館でしたが、本作ではベルリンの壁の真ん前に変更されています。
1977年のベルリン。デヴィッド・ボウイの“ヒーローズ”を連想します。
ベルリンに舞台を移しているのが、リメイク版の大きなポイントになっています。
東側陣営のど真ん中に、壁に囲まれた西側の街がある…って考えてみれば異常な事態ですよね。戦後の混乱をそのままに引きずった混沌の街を舞台にすることで、古の魔女が生き残って暗躍している設定の、あり得そうな余地を残していると言えます。
また、ベルリンの分断は悲惨な戦争の余波であって。その前にはもちろん、ナチスの悪夢という極めてホラー的なトラウマがあって。
当時を生きる人々の心に、まだ深い影を落としている。
それを体現しているのがクレンペラーという人物なんですが、舞台の空気感そのものに暗く不吉な影を満遍なく投げかけています。
また、物語の背景ではハイジャック事件が進行中で、世間は騒然としています。
1977年10月13日、バーダー/マインホフの名で知られる過激派・ドイツ赤軍がルフトハンザ機をハイジャックし、仲間の釈放を要求しました。この事件は10月17日に強行突入によって終結しますが、物語はこの事件の経過と時を同じくしています。
この頃、極左組織によるテロが頻発し、「ドイツの秋」と呼ばれていました。市民への残虐なテロが横行する不安感、日常的な恐怖感も、魔女の恐怖を成立させる基盤になっています。
こんなふうに、当時の世相、政情不安、混乱といったものが、超自然的な恐怖のリアリティを高めるために、周到に配置されています。
決して、ホラーを離れて政治的なテーマを語るためではない。あくまでもホラーに貢献するために、魔女の現実味を高めるために、丹念な世界観の構築が行われている。
つまり、ちゃんとホラー映画を作ろうとしている。まずはそこが、素晴らしいなと感じます。
③物語の中で重ね合わされるアートとホラー
大きな変更点はもう一つ。オリジナル版のクラシックバレエが、モダンダンスになっていること。
ここで、物語の焦点となるダンスにも、前作以上の意味が持たされているんですね。
まずは、映画全体の雰囲気を決めるアート感。
近年のホラー映画がアート的表現に接近していくように、アートとホラーは相性がいいです。
デヴィッド・リンチの映画がアートとホラーの両面にまたがっていたり。
アートの側が、ホラーに近づくとも言えます。モダンアートの展示には不気味な表現とホラー映画のサウンドトラック的なアンビエント・ミュージックがつきものですね。
中でもダンスというのは、ホラーが扱う対象である人間の肉体と、密接につながった表現です。
人間が内面に持っている情念、喜びや苦しみといったものを、肉体を最大限に使って表現する。
そのために、自分の肉体をとことん酷使し、限界まで追い込んでいく。やがて忘我の境地に達して、ほとんど神がかりみたいになって…。
考えてみれば、古代の神託の儀式なんかでも、巫女の踊りがつきものです。
「デビルマン」でも、悪魔と合体するための手段は踊り狂って我を忘れることでした。
本作での魔女たちの目的は、まさしく「デビルマン」と同じでした。ブランはスージーに、自分を空っぽにして(ダンスの)作者と一体化せよ、と言います。作者はマルコスですから、これはまさに魔女の儀式そのものを指していますね。
儀式の中で「これはアートではない」との発言もあります。マルコス舞踏団が研ぎ澄まし高めていくダンスの表現というのは、まさしく魔女の儀式のための予行演習だったわけです。
面白いのは、アートとしてのダンスの本質と、魔女の儀式とが、そもそもそんなに遠いものではないように思えること。
モダンダンスの真髄が、自分を空っぽにして無我の境地に達し、ダンスの創造主と一体化することであれば、それは魔女たちのやろうとしていることとそんなに大きな違いはないのかもしれない。そんなふうに思えてきます。
ブランなんかは、儀式はそれはそれとして、本気でダンスに情熱を傾けてもいたように見えますね。ブランがスージーを指導して、スージーがそれに答えていく特訓シーンを観ていると、まるでスポ根映画を観ているような趣もあります。
「ガラスの仮面」とか観ているような。そんな面白さもあるんですね。
マザー・マルコスとマダム・ブランの対立は、アートを否定し実利だけを求める考え方と、純粋にアートを希求する考え方の対立であるとも受け取れます。
芸術って、時としてモラルとか現実の損得とか、人間味すらも超越したところに価値を見出してしまうものだから。
究極は自分の命や肉体までもアートのために捧げてしまう。そう考えれば、魔女の儀式はアートの行き着く先の象徴に見えてくる。
アートのために自分を殺して肉体を捧げることが、魔女の儀式と重ね合わされ、真の意味でアートとホラーが一つのものになっています。
ただ、雰囲気だけのことではなくて。
アートっぽいホラーやホラーっぽいアートというのは数あれど、ここまで意味のある表現にしているのは画期的なんじゃないかと思うのです。
サスペリア(1977)予告編
④テーマと直結したショックシーン
そして、これがなければサスペリアじゃない、女の子が殺されるショック・シーン。ここにも、ダンスが重要な役割を果たしています。
オリジナルでは、超自然要素を匂わせつつも、女の子たちはナイフで刺されたり突き落とされたりするだけでした。
本作では、まさしくダンスによって肉体を破壊され、殺されます。
パトリシアを欠く舞踏団で、主役に名乗り出たスージーがブランや皆の前で踊ってみせる。その才能を発揮して、皆を驚かせる。
その一方で、舞踏団を飛び出そうとしたオルガは鏡張りのレッスンルームに閉じ込められ、そこで超自然的な力で“踊らされる”。
見えない何者かに手足を折り曲げられ、ものすごい勢いで身体を捻られ、壁や床に叩きつけられて、無残に折り畳まれていくことになります。
このシーンがこの映画で最初のホラーシーンなんだけど、すごいと思いました。こんな殺戮シーン、初めて観た。
サスペリアだから誰かが殺されることは予期して観てるんだけど、それでも度肝を抜かれます。
斬新なホラーシーン。そしてそれがただ奇をてらうのではなく、映画のテーマと直結しているという感動。
生命力に満ち溢れた、躍動感みなぎるスージーのダンス。それが皆を魅了するのと同時進行で、オルガの肉体が破壊され、身体も顔も醜く歪み、腫れ上がり、床や鏡を血で汚していく。
生命力と死の表裏一体。
つまりは先ほどから書いている、皆を魅了する美しいアートと、死へと向かっていく醜いホラーが、同じ一つのものであり得ること。
それを視覚で表す、見事なホラーシーンだったと思います。
更には、映画内での辻褄…どうしてそういうことが起こるのかの辻褄もちゃんと合っていることが、ラストのどんでん返しで明かされます。
要は、マルコスのパワーをスージーのダンスが増幅している。どうしてスージーにそんなことができるのかと言うと、それは…だから…というわけで、そこも抜かりなく構築されています。
ビジュアルのインパクトもすごいです。インパクトあるホラー映画のシーンは、アート的な魅力を放ち出す。オリジナルの「サスペリア」もそうですよね。
「コンパクトに折り畳まれてなお生きているオルガ」は、まるでモダンアートのインスタレーションのようです。
「ジョジョの奇妙な冒険」のビジュアルなんかも思い出します。思えば、「踊らされ殺される」のはジョジョのスタンド攻撃みたいですね。
更に、折り畳まれたオルガの身体がハーケンクロイツの形であるように見えたり。
その身体を運び出す、女たちの使う金属のフックがソビエトの国旗に描かれた鎌のマークに似ていたり。
ナチスや左翼革命のメタファーのようなものも、匂い立つ。
キリがないので踏み込まないですが。でも、すべてのシーンに二層三層の意味が込めてあります。意味のないシーンなどないんですね。
⑤クレンペラーとアンケのラブストーリー
まだまだいろいろあるんですが、中でも重要になってくるのはドクター・クレンペラーの話。
戦争中に妻アンケと生き別れになり、かつて二人で住んでいた東ベルリンの家にずっと通い続けている。
行方も生死もわからないアンケへの思い、愛情、罪悪感、救えなかった引け目…といった感情に生涯ずっと取り憑かれ、重荷を背負い続けている人物です。
妻アンケを心から愛し、再会を望んでいるけれど、救えたかもしれない時に妻を救わなかった。
パトリシアの行方を捜して危険にも乗り込んで行き、努力するのだけれど、パトリシアが必死で訴えた時には彼女を信じず、結果的に彼女を見殺しにしてしまった。
サラを救おうともするけれど、本当にサラが窮地に陥ったとわかった時には、怖くなってそれ以上の追求をやめてしまった。
クレンペラーはそんなふうに、正と邪、愛と不寛容、思いやりと冷たさ、そういった相反する両方を同時に体現する人物として描かれています。
それは人間らしさでもあり、魔女が嘲笑う人間の愚かさでもあり。
断罪され、罰せられるべきでもあり、許され、癒されるべきでもあり。
そして劇中でクレンペラーは、まさにその通りの扱いを受けることになります。
矛盾に満ちた人間代表として、魔女に裁かれ、また癒されていく。
とんでもない終局の血みどろ絵巻を経て、この映画は意外にもロマンチックなラブストーリーとして幕を閉じることになります。
ナチスも戦争も、東西冷戦さえも過去になり、人々も記憶も消え失せても、壁に刻まれて残り続けるクレンペラーとアンケの愛の証。
オリジナル版のヒロイン、ジェシカ・ハーパーがアンケを演じていて、このキャラクターの重要性に更なる面白みを加えています。
キャストと言えば、この映画にはもう一つ驚きの仕掛けがあって。クレンペラー役にはルッツ・エバースドルフという人がクレジットされてるんだけど、そんな人は実在しないと言うんですね。
実は、劇中で他の役を演じてるある人が一人二役で演じてる。
劇中で明かされることじゃないのでネタバレじゃないとは思うんですが、僕は映画を観た後で知って心底びっくりしたので、ここでは書かないでおきます。
まだ観てない方はぜひ知らずに観て、誰が演じてるのか当ててみてください!
⑥スージーの物語
スージーの実家はオハイオの田舎、敬虔な信仰と昔ながらの生活を守るアーミッシュの家庭でした。
アーミッシュにあるまじきモダンダンスに夢中になる末娘。瀕死の病床にある母親も置いて、一人でドイツにやって来てる。
古めかしい信仰に縛られた保守的な暮らしを嫌って、夢を求めて都会へ飛び出そうとする少女。因襲を脱して自由に生きる、女性の自立を描いた物語。
スージーの物語はそんなふうに捉えることもできますね。
アメリカのアーミッシュはもとはドイツからの移民の集団であるそうで、そうするとスージーのルーツはドイツにある、ということになります。マルコス舞踏団のルーツとも、なんらかのつながりがあるのかもしれません。キリスト誕生以前にまで遡るという「三人の母」のルーツもですね。
そう考えていくと、もっとも革新の位置にいるはずのスージーが実はもっとも古い存在である…ということにもなって。
映画の終わりで、スージーは故郷に帰ったのだという言い方もできる。
「シャイニング」のように、帰るべきところに帰る物語という捉え方もできます。捉え方によって、正反対の意味が立ち現れてくるのが面白い。
保守と革新の対決というテーマは、物語のそこかしこに散りばめられています。
古い暮らしを守るアーミッシュと、モダンな暮らしを求めるスージー。
1977年のベルリンで進行している、元ナチスの資本家を糾弾して社会を変革しようとする左翼革命。
マザー・マルコスに象徴される従来の考え方の派閥と、マダム・ブランに象徴される新しい考え方の派閥。
そして、従来のキリスト教への信仰と、それとは異なる、別の何ものかへの信仰。
…という構図も、1977年という昔の話なんですよね。左翼革命なんて、もはや古めかしいものになっている。
ナチスだって、出現した時には旧体制に対する革新運動として出現したわけで。
繰り返される、人間の営み。
そして、人間の次元を超越して超古代から変わらないマザー・サスピリオルムが、高みから人類を見下ろしている…。
そんな壮大な世界観が、描き出されていくわけです。
おお。つながりました!
「地べたを這うような」表現の中で、「重力を振り切るジャンプ」にこだわるマダム・ブランのダンスは、そんな世界観が表現されていたんですね。
スージーがジャンプを嫌がり、「(今は)地べたを這うべきだ」というような意見を言っていたのも、そう考えれば意味が見えてきます。
本当に二層三層に意味の込められた作品。考え抜かれた作品だと思います。
長いのもあって、そんなにヒットしてる感がないですが…。
152分あること、決して派手な脅かしシーンの連続する映画ではないことを理解した上で、どっぷり世界に浸って深読みを楽しむつもりで観れば、こんなに楽しい映画体験はあまりないと思います。映画好きな人、デヴィッド・リンチとかの意味深な映画が好きな人には、ぜひ観に行って欲しいなあ。
僕もあと何回かは観に行こうと思います!
※「ネタバレ徹底解説」記事を書きました。時系列に沿って、8本の記事に分かれています。
長くなってしまったので、目次を作りました。
テロを語る意味、メノナイトについて、ロケーションについて、など
投票結果の記録、スージーの少女時代について、オルガに何が起きたのか、など
「借り物」の意味について、スージーがくすねたもの、悪夢について、など
アンケに何が起きたのか、ジャンプ特訓とグリフィスの自殺、髪を切る意味、など
ネタバレ徹底解説その5……第5幕 マザーの家で〜すべてのフロアは暗闇
赤い衣装の意味、ルッツ・エバースドルフのプロフィールからわかること、など
ネタバレ徹底解説その6……第6幕 Suspiriorum 嘆き(前編)
「深き淵よりの嘆息」採録、日付について、一人三役の意味、など
ネタバレ徹底解説その7……第6幕 Suspiriorum 嘆き(後編)
儀式について、赤と黒の衣装、Death/死の化身について、胸を開く意味、など
記憶を消すことの意味、ラストシーンの意味、ポストクレジットシーンの意味、など
ルカ・グァダニーノ監督の前作。スルーしちゃったんですよね…。観ねば。