本稿は「サスペリア」(2018)のネタバレ全開詳細解読記事です。

ようやく第5幕まできました。しかし、書いても書いても書くことがある。自分で書いてて驚きです。

ネタバレひかえめなレビューはこちらです。

また、この記事は「サスペリア ネタバレ徹底解説その1」ならびに「サスペリア ネタバレ徹底解説その2」そして「サスペリア ネタバレ徹底解説その3」はたまた「サスペリア ネタバレ徹底解説その4」の続きです。

この項は2/17に加筆しています。

 

第5幕 マザーの家で すべてのフロアは暗闇

Mutters Hause=「母の家」は、舞踏団の建物の地下に広がる儀式のための空間のこと。

「暗闇」は、暗闇の母/マザー・テネブラルムから。アルジェントの「魔女三部作」では、「インフェルノ」(1980)が暗闇の母を扱っています。

赤い衣装の意味するもの

舞踏団の中でダンス「民族」の公演が行われます。ドクター・クレンペラーも観客に混じってやってきます。

生徒たちは赤い紐のような衣装を身につけます。ほとんど裸に近いような大胆な衣装。ダンスの体の動きをしっかり見せるため…なんでしょうが、本当の「本番」である儀式では「全裸」なので、それに近づける意味があるのかもしれません。

 

衣装デザインを担当したのは、「胸騒ぎのシチリア」「君の名前で僕を呼んで」でグァダニーノ監督と組んできたジュリア・ピエルサンティ。セリーヌのデザイナーとしても活躍している人だそうです。

「民族」のコスチュームについて、グァダニーノ監督は「これは、このダンス・カンパニーが快楽と痛みの上に作られていることを示している」と話しています。SMのボンデージや、荒木経惟の作品に影響を受けているとのこと。

縄で縛られている…という意味で、彼女たちが魔女に縛られている「儀式のための奴隷」であることを意味しているし、またそれは地下の「母の家」にある蜘蛛の巣のようなオブジェも連想させます。

少女たちは魔女の蜘蛛の巣に捕まえられた犠牲者である…というような見立ても可能です。

裸の上に赤い血が流れているようにも見えます。

また、胸のあたりのデザインは、マザーの正体を現したスージーが自ら胸を開くシーンと呼応しているようにも見えます。

Volk/民族

ダンスの強調は、グァダニーノ版とアルジェント版のもっとも大きな違いではないかと思われます。

ルカ・グァダニーノ監督は次のように語っています。

 

「ダリオ版では、バレエ学校を舞台にしているけれど、踊りのシーンは全部で2、3分くらいだ。あまり意味をなしていない。

僕とデイヴィッド(・カイガニック。脚本)にとっては、ダンスはとても重要だった。魔女の集団という女性のグループにおいて、なにかもっと意味のあるものを入れたかった。それは、バレエではなく、ダンスでなければいけなかった。

女性と肉体との関係をもっと探求しようということになり、ダンスを重要な要素として入れることになった。

バレエでは、規律とか訓練(ディシプリン)が重要だが、軽さとか、自分の重みに反して、上昇することが強調される。ダンスは、もっと肉体自体が重要になる。体が他者の体との関係性の中でどのように有機的な動きを見せるのか。

そして、魔術とダンスによって魔法が生まれるんだ。女性のグループが集まって、魔術的なことを繰り広げていくにはダンスという表現がベストだと思った」

 

「僕はダンスを、一瞬の動きが美しい、ただの光景にしたくなかったんだ。僕にとって、コンテンポラリー・ダンスのラジカリズムがもっとも重要だった。映画の中のダンスは、登場人物たちの肉体に深く根付いている。僕はダンスを、登場人物の一部、彼女たちの行動にしたかった」

 

ダンスの振り付けを担当したのはダミアン・ジャレ。フランス系ベルギー人のダンサー兼振付師で、コンテンポラリー・ダンス公演「バベル」でオーレンス・オリヴィエ賞を受賞しています。ジャレは、アルジェント版「サスペリア」の大ファンだったそうです。

 

振り付けに関しては、1886年生まれのドイツの舞踏家でモダンダンス「ノイエ・タンツ」の創始者マリー・ヴィグマン、1940年生まれのドイツの舞踏家ピナ・バウシュなどが参考にされているそうです。

ジャレ「僕は、彼女たちの作品をそのままコピーしたり、再現するだけにはしたくなかった。考えていたのは、彼女たちの作品に生命を吹き込んだひらめきの源、彼女たちがひらめきを受けた文化や自然の原理ともっとつながることだったんだ」

 

オーディションとリハーサルのシーンでスージーが靴を脱ぐのは、ジャレのアイデアだったそうです。

「それは脚本には書かれていなかったけど、僕たちは直接、足が床に触れることでもっと官能的で原始的なものが彼女の動きに加わるだろうと思ったんだ」

スージーが脱ぎ捨てるのは「伝統的なバレエ・シューズ」。バレエからモダンダンスへ…というリメイクの変化を物語るとともに、アルジェント版との違いも際立てるシーンと言えるでしょう。

それ以降、練習でも公演でも、グァダニーノ版のダンサーたちは常に裸足で踊ります。

汚れた足の裏も、何度も映し出されます。地面と固く結びついた肉体性をより強く感じさせます。

 

ドイツ語のVolkとは人、民、国民、民族、庶民といった意味。

1948年にブランによって作られたこのダンスは、ドイツ民族について表現しているのだと思われます。

モダンダンスの前衛的な振り付けの「意味」まで読み解く能力は持ち合わせていませんが、リハーサルで強調される「地を這う動き」「垂直方向へのジャンプ」の組み合わせは印象に残りますね。

大地に根ざし、地に張り付くようにして生きてきた”民族”が、大いなる飛躍を果たし、重力を振り切って天の高みへと向かおうとする。

「血と土」なら、ナチスのイデオロギーですね。文化的な継承を意味する民族の「血」と、祖国を意味する「土」を重視する思想。

その地に這う状態から、飛び上がることを目指す。ナチズムを民族の土壌ととらえて、そこからの脱却を目指しているのだともとれます。

上へ上へと志向する運動。超人思想のゲーテもドイツ人ですね。

そういった思想の先にあるのが、三人の母の力を得て、人類以上の存在へと昇り詰めようとする魔女の運動ということになるのでしょうか。

 

全編に流れるトム・ヨークの音楽はアルジェント版のゴブリンの音楽とは遠いものになっていますが、「Volk」はもっともゴブリンのテーマ曲に近いものを感じさせます。

サラとパトリシア

赤い衣装を身につけたまま、サラは地下世界を探索します。皆の意識が公演に向いているチャンスを狙ったのでしょうが、逆にサラがいないこともすぐバレてしまいますね。

ミラー・ルームの秘密戸口から、地下の博物館を超えて、扉の先へ。前回そこまでで引き返したところから、更に進みます。

その先には教会のような大きな空間が広がっています。

この場所、そして更にその先にある儀式のための空間。これらの地下世界も、カンパニーの他の場所と同様に、イタリアの廃墟ホテル「グラン・ホテル・カンポ・デ・フィオーリ」が使われています。

 

パトリシアを演じたクロエ・グレース・モレッツは、この廃墟ホテルでの撮影についてこんなふうに語っています。

「みんなその環境をうまく利用していたし、それが演技に大きく影響したと思う。そこにいるだけで、どこか頭がおかしくなってしまうような感覚があったんです。でも、それが非常に役に立ったと思います」

撮影は冬に行われ、アルプスの山麓にある廃墟ホテルでは暖房をつけても追いつかず、非常に寒い過酷な撮影だったそうです。

 

サラが迷い込んだ空間は教会に似ています。ただし、壁から天井にかけて網のようなオブジェが配置されています。

そこにパトリシアやオルガたちが囚われているわけで、これはまさしく蜘蛛の巣がモチーフと言えそうです。

アメリカ版のポスターのビジュアルはブランの両手から白い糸が伸びているものになっています。(ネタバレ徹底解説その4の画像を参照

これは、ブランが中心にいて、少女たちを操り人形のように操っているというイメージに見えます。

ブランが蜘蛛であって、少女たちをその糸でつないでいるというイメージにも見えますね。

 

「Volk」の公演で床に描かれた模様も、蜘蛛の巣に似ています。

パンフレットの表紙もこの模様がモチーフになっています。この項の最初にある画像参照

パトリシアが日記に書いていた模様ですね。パトリシアのメモでも、模様の中心にブランがいて、線の先にパトリシアやサラ、オルガたちが配置される形になっていました。

マルコス・ダンス・カンパニーを巨大な蜘蛛の巣に見立てて、少女たちをその網にかかった犠牲者とする見方が、全体を貫いているようです。

ただし、その蜘蛛の巣の中心にいるのはブランなんですね。マルコスではなくて。

 

サラは変わり果てたパトリシアに出会います。

パトリシアは全裸で、その体はまるで溺死体のように醜く膨れ上がり、不気味な腫瘍に全身を覆われています。

パトリシアの体の有り様は、後で出てくるマルコスと同じですね。「無数の病気に取り憑かれ、まるで牢獄」と寮母たちに評されていたマルコスの肉体。

 

おそらく、これが10月14日(スージーが来た日)の夜に行われた儀式で、パトリシアの身に起きた「恐ろしいこと」なのでしょう。

マルコスの精神を若いパトリシアに移し、マルコスを生きながらえさせようとする儀式。

しかし、マルコスの精神ではなく、マルコスの肉体を蝕んでいる病気や呪いの方が、パトリシアに移ってしまった。

それで慌てて儀式を中止し、パトリシアは途中の中途半端な状態のまま放り出されることになってしまった。ということなのでしょう。

寮母たちは失敗の理由について、「パトリシアが純粋じゃなかったから」と言っていましたが、失敗の理由はそもそもマルコスが「マザー・サスペリオルム」ではなかったことなので、何度試みても同じことだったでしょう。

 

パトリシアを連れ出そうとするサラですが、背後から手首足首のない全裸の女が四つん這いで迫ってきて、悲鳴をあげて逃げ出すことになります。

この女の正体ははっきりとは映らないのですが、他にいないのでオルガなんでしょうね。ダンスで両手両足へし折られて、纏足されてしまったのか。

永井豪の漫画「バイオレンスジャック」の「人犬」を思い出しました。

ただ、この空間にはパトリシアとオルガ以外にもまだ犠牲者の姿があるようにも見えました。儀式に使われたのがパトリシアが最初でないなら、もっと前の犠牲者も何人か存在しているのかもしれません。

(ていうか、マルコスのための儀式でなくても、若い女の子を生贄に捧げる儀式とか定期的にやってそうですね、彼女たちなら)

 

2/17追記:後のサバトシーンに出てくる、サラとパトリシアに続く3人目の生贄の女の子には手首足首がありました。こちらのシーンでも顔はよく見えないので、本当にオルガだったのかどうか定かでないんですが、サバトの生贄がサラ、パトリシア、オルガだったのであればここに出てきた「人犬」はオルガではないことになります。おそらくはそれ以前の犠牲者なのでしょう。)

(舞台から消えた人物という意味では、もしかしてミス・グリフィス? 「人犬」は制裁を受けたミス・グリフィスであるという可能性もある?)

 

2/17追記:この同じ部屋には、椅子に座ったヘレナ・マルコスも存在していました。彼女は「サラ」と呼びかけています。そのマルコスの隣にもう一人いて、それがオルガなんじゃないかと思われます。)

 

逃げ出したサラは「暗闇」の廊下に迷い込みます。ここでは「床に黒い染みのように穴が開く」という罠がしかけられていて、サラは足の骨が飛び出る激痛に泣き叫ぶことになります。オルガの受難に続いて、このシーンも強烈に痛そうです。

ヴェンデガストがやってきて、骨折したまま皮膚で覆って、傷を塞いでしまいます。これ、かえって痛そう。

しかしサラは催眠状態にされて、そのままダンスの会場へ戻されることになります。サラを会場に呼び戻したのはブランです。

ブランとクレンペラー

「民族」公演の会場にはクレンペラーとブランが共に居合わせています。この二人はこれまで同じ場所にいることはなかったのですが、これが初めての「共演」ということになります。

クレンペラーはルッツ・エバースドルフという人が演じていることになっているのですが、これはフェイク。ブランを演じているティルダ・スウィントンが、特殊メイクで一人二役で演じています。

これ、僕は映画を観ている時には全然気づかなくて。後でいろいろ調べていてこの記述を読んで、最初信じられなくてフェイクニュースかと思ったくらいです。

そう思って2回目観ると、確かに顔立ちは似てる。声も、クレンペラーの声は甲高くて確かに女性の声ですね。

でも最初は気づかなかったので、全然ノイズにはなっていない。見事に騙されました。

 

この情報、映画の完成後もしばらく公式には認められていなくて、エバースドルフは実在するという設定が貫かれていたようです。

2018年9月のベネチア国際映画祭での公式上映では、エバースドルフの「欠席」が発表されていて、ティルダ・スウィントンが彼からの手紙を「代読」するという一幕もあったそうです。

 

この一人二役、お遊びとしては手が混みすぎていますね。ものすごく手間がかかる。

このダンスのシーンにしても、この二役のためだけに撮影の手間は2倍かかっているはずで。テーマ的な意味は、必ず込められているはずです。

 

一つには、クレンペラーを女性が演じることで、主要な登場人物が全員女性になる、ということが挙げられます。

アルジェント版「サスペリア」では、バレエ学校にも多くの男性がいて、特に女性だけの世界にはなっていませんでした。

グァダニーノ版では、舞踏団は完全に女性だけで運営されています。男性の職員も生徒も、まったくいません。女の世界です。

クレンペラーが女性となることで、真の意味で男性のキャストは二人の刑事だけ。そして、この二人は下半身を裸にされてちんちんを魔女に弄ばれる、情けない存在として描かれています。

 

ルカ・グァダニーノは以下のように語っています。

女性のアイデンティティが支配する映画にしたかった。(スウィントンがクレンペラーを演じる)このアイデアはデヴィッド・カイガニックと脚本を書き始める段階からあった。女性だけの映画にすることにこだわった」

 

クレンペラーが「女性」であることは劇中の設定ではないので、映画のテーマといっても観客に直接届けるつもりではないことだと言えます。

だから、むしろ作り手の心構えの意味で、「女性のアイデンティティが支配する映画を作る」という姿勢を保つためのキャスティング、という意味合いが大きかったのではないでしょうか。

キャストの中で最年長のキャラクターに男性をキャスティングすると、どうしても彼へのリスペクトが生じてしまって、女性たちが脇へと退いてしまう空気が生じる。それも嫌ったのかもしれません。

 

ただ、劇中では明かされないといっても、ティルダ・スウィントンが演じていることで、クレンペラーが「女性的」なキャラクターになっているということはあると思います。さっき述べた顔立ちや声の点で。

だから、観客が感じる「映画の肌触り」の部分で、非常に女性的な感触になっているはずなんですね。男性性というものが、映画全体から完全に排除されている。

映画全体が醸し出す「女性らしさ」。これによって、半裸の少女たちが踊ったり、それが血に塗れる悪趣味を描いていても、男性的なイヤらしい目線というのは感じないで済んでいるのだと思います。

実際、この「サスペリア」を観て「悪趣味だ」とか「生理的に不快だ」とか感じることがあったとしても、エログロ的な、ポルノ的な不快感を感じることはあまりないのではないでしょうか。

これは直接的なところではないけれど、実は結構大きな要素だったのかもしれません。

 

映画の冒頭で映し出される、スージーのオハイオの実家にある額に入った言葉。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが何者も母の代わりにはなれない

ティルダ・スウィントンは男性含めあらゆる者の代わりになれるけど、たとえば男性の役者がティルダ・スウィントンの代わりをすることはできない、ですね。

ティルダ・スウィントンは実は一人三役。クレンペラー以外に、もう一役しています。それはまた、次の幕で…。

ルッツ・エバースドルフのプロフィールからわかること

公式サイトのキャスト紹介欄には、ルッツ・エバースドルフのプロフィールも掲載されています。

「1936年、ドイツ・ミュンヘン生まれ。

2歳の頃より、彼と彼の家族はナチスドイツから逃れるために、スイス、イギリスと各地に移住。青年期の大部分をロンドンで過ごしたルッツは、1954年ミュンヘンに戻り、心理学と哲学を学ぶ。卒業後はウィーンの演奏家、特にヘルマン・ニッチュの作品に大きく影響を受けた演劇劇団Piefke Versusを創設。不定期ながらも公演活動、映画制作を行うが1964年に解散。その後、彼は1969年にベルリンで博士号を取得。母と娘の関係に特化したクライン派の精神分析医としてベルリンで開業。

そして2016年、ルカ・グァダニーノ監督から今作で精神分析医ジョセフ・クレンペラー役としての出演オファーを受け出演に至る。」

だそうです。「素人だから、みんな知らない人だけど本物なんだよ」ってプロフィールですね。これ、全部でっち上げ。凝ってますね…。

公式サイトではここだけ文字がちらつくようになっていて、フェイクであることを微かに匂わせています。

 

ただ、フェイクとはいえ、わざわざ作られたこのエバースドルフのプロフィールは、劇中のクレンペラーについていろいろと示唆的ではあります。

特に、エバースドルフがユダヤ人であり、ナチスドイツから逃れたのだという設定は、クレンペラー自身もユダヤ人であることの強い証拠となります。

また、1936年生まれということは映画に出演した2016年の時点で80歳。1977年のクレンペラーも、その時点で80歳前後の設定であろうと思われます。

ということは、アンケと別れた1943年には39歳。回想シーンで何度か出てきた「家にイニシャルを刻んだ若き日の姿」よりはかなり後の話である、ということになりますね。

 

ちなみにこの文中に出てくるヘルマン・ニッチュなんですけど、実在の人です。1938年生まれ、オーストリアの「実験的なパフォーマンスアーティスト、画家、作家、作曲家」。

1960年代、動物の臓物や死骸や血を用いた過激なパフォーマンスで名を馳せたそうです。1968年ニューヨークで行なった公演では、"会場の中央に1匹のヤギを吊り下げ、内臓を取り出し、肉片を会場中に散乱させ、肉片を男性モデルの股間に押し込んだ"そうです。

ウィキペディアから引用しましたが、なんか嘘みたいな話ですね。この記事もフェイクに思えてきちゃいます。

映画を離れてすら、いったい何が本当なのか…。クラクラするこの酩酊感。これも狙いにした一人二役だったのでしょうか。

「母と娘の関係に特化した精神分析」について

エバースドルフのプロフィールに出てくるクライン派というのは、メラニー・クライン、1882年生まれのウィーン出身の女性精神分析家が始めた精神分析の流派のこと。この人もユダヤ人です。

クラインは児童の精神治療において、子供の遊びを観察することから大人の自由連想と同様に精神分析が可能だとする立場をとりました。そこがそれ以前のフロイト学派との違いであり、精神分析の二つの大きな潮流を作ることになりました。

エバースドルフは「母と娘の関係に特化したクライン派の精神分析医」ということなので、劇中のクレンペラーの精神分析医の設定もそれに準じているものと思われます。ということは、パトリシアの「治療」を引き受けたのも、最初はその見地からだったのでしょうか。

ここでの母と娘の関係というのは、「母=マルコス」だったのかもしれませんが。

その見地に立つと、この映画全体が「母と娘の関係に特化した精神分析」であるようにも見えてきます。

 

ルカ・グァダニーノのインタビューで、次のような発言もあります。

「私は本作を生命の誕生と破壊についての作品だと思っている。子どもを産むと同時に、自分が生み出したものに敵対する母親がいるんだ。彼女たちは子どもたちを操ろうとする間違った母親だ。私にとって興味深かかったのは、そのようなひどい母親と呼ばれる存在だった」

「この作品は単なる魔女映画ではない。女性の素晴らしさを称えながらも、女性の中にある“闇”のようなものを探る映画だ。母親は命を産み出すと同時に、自分の子供を操ろうとし、ときに敵になる場合がある。その局面が私にとって非常に興味深いテーマだった」

 

糸を放つ蜘蛛のように、娘たちを支配し、操ろうとする母親。

それと対決する、娘。

その局面は、ブランとスージー、マルコスとスージー、実の母親とスージーというそれぞれの関係性の上で、繰り返し描かれています。

支配しようとする母と、乗り越えて自身が「母」になる娘。グァダニーノ版「サスペリア」のテーマはすべてそこへ集約されていくようです。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが何者も母の代わりにはなれない」

娘は母の代わりにはなれないけれど、自身が母になることはできるんですね。

 

ブランに戻されたサラが痛みに絶叫し、「民族」の公演は中断します。

騒然とする中、寮母たちに運び出されるサラ。クレンペラーは呆然として見ているばかりで、サラを助けに出ていくことはできません。

結局のところ、男は頼りにならない。「何者も母の代わりにはなれない」のですね。

夜の会話(母と娘のような)

その夜。スージーはベッドで、サラが寝るときに着ていたピンク色のキモノのようなガウンを着ています。

サラが大けがをしてどこかに連れ去られてしまったのに、慌てもせずに、あろうことかサラのガウンを「くすねて」、自分が着ている。

たぶんオハイオ時代からのスージーの倫理観の欠如、手癖の悪さがここでも発揮されていて。

それだけでなく、ここではもうスージーはサラに何が起きたかも見通している。ブランが夜毎の夢として送り込んだ魔女の理念を共有していて、儀式への準備が出来上がっているようです。(…と、ブランは思っている。本当は違うんだけど)

 

また、スージーの部屋の壁にはがちらついています。これはスージーを導く光であるようです。

この光の表現、「ヘレディタリー/継承」とよく似ています。「ヘレディタリー」では、ちらつく光は人に取り憑こうとする悪魔の象徴になっていました。

「サスペリア」においては、光はスージーの守護霊的な役割で登場しているように見えます。マザー・サスペリオルムの象徴ということになるんでしょうか。

 

ブランがやってきて、ブランとスージーは声に出さず心で会話します。飲み会の会場で寮母たちがやってきたやつですね。

スージーはブランに、「逸脱してごめんなさい」と言います。どうやら、昼間の公演でのスージーのダンスは予定されていたものを逸脱していたようです。

正調のものがわからないのでどこが逸脱だったのかはよくわかりませんが。他のダンサーたちを戸惑わせることもないまま、スージーは独自のダンスをやっていたのでしょうか。既に、スージーは他のダンサーたちを意のままに操っていたのかもしれません。

スージーは誰かを傷つけたかどうか聞きます。ブランは「いいえ、今回は」と答えます。

これは、オルガの時を踏まえた会話ですね。オルガの時には、スージーのダンスが魔女たちの怒りを増幅して、魔力となってオルガに襲いかかりました。

今回もスージーのダンスは大いに魔力を発揮していたのでしょう。でも、誰かを傷つけることはなかった。

スージーは、そうしたこと…自身のダンスが魔女の魔術であること…も、既に自覚しているようです。

 

ブランはスージーに「2度とやらないで」と注意します。「あなたはまだ理解し始めたばかりなんだから」と。

まるで、力を発揮し始めた娘を気遣う母親のようですね。

「作品を完成させるためにサラを連れ戻した。それなのにあなたは、それをぶち壊した」とブランは言います。

なんか冷静な会話のようですが、しかしサラが酷い目にあってることは二人とも無視していますね。もはや、人間らしさをかなぐり捨てた領域に渡ってしまっています。

 

ブランはスージーに「すべてを説明できるけど、そうすべきではない」と言います。

スージーは「私に選択させたくないのね。私を愛してるから」と言います。

マルコスを受け入れる儀式への準備が進んでいて、スージーはそれを疑いなく受け入れ、逆にブランがそれを躊躇し始めている。

こんなふうに、マルコスを受け入れることを疑わない精神状態に持っていかれることが、儀式の生贄に選ばれる生徒に対して行われる「準備」ではあるのでしょう。

パトリシアの場合も、ある程度までそれが進められましたが、パトリシアはギリギリでそれを疑い、逃げ出そうとすることになりました。

スージーの場合は、それが完璧に行われている…という見た目です。あまりにも完璧すぎて、ブランは戸惑いを感じています。

ただ戸惑っているだけでなく、ブランはスージーを愛しているのだ、とスージーは言っています。魔女であるブランが生贄の少女に愛を感じるなんて、本来ならあり得ないはずだけど、ブランは否定できずにいます。

いつしかブランが感じてしまっているのは、スージーに対する母親の愛情でしょう。支配する母親であるということは、愛着も感じるということだから。支配と心配は紙一重。

 

声に出して、「なぜ最悪な事態は過ぎたと思うの?」とスージーは尋ねます。

魔女たちにとっての「最悪」は、これからスージーがもたらすことになるのですが。

ブランは「目を閉じて、今夜は夢は見ないで」と言います。「私を信頼して」とも。彼女は儀式の場で、マルコスを止めることを心に決めていたのかもしれません。

ブランの後ろで光がちらつき、ブランはそれに気づいていません。

 

ネタバレ徹底解説その6に続きます!