優しさがいちばん -14ページ目

パウロの疑問

パウロが主イエスにあったのは幻での件のみのはずである。
それなのにどのようにして主イエスの教えを知ったのか?
主イエスの弟子たちが不審に思うのももっともだ。

バルナバと一年間一緒に伝道したとあるからバルナバを通してか?
ということはバルナバからのまた聞きの教えをとおして
独自の神学をつくっていったのか?

神はは奴隷制度を容認されたか 2

創世記を読むと神はアブラハムへの祝福として男女の奴隷を与えたとある。
これをみると奴隷制度を容認されているとみられる。

その時代の義人とは、神を愛するとは、神への無条件の恭順と
神を褒め称える人だということが言える。

その結果、義人へは奴隷と金銀と豊かな収穫と子孫の量的拡大が与えられる。
民族の祖としての認知も祝福だと考えられているようだ。

しかし信仰が強ければだれでもそのような祝福を受けられるわけでもなさそうで首長に限定されているように見受けられる。

いってみればいまの中東の王族の首長が信仰が強ければ
富と従属するものと富が祝福として与えられるといったところか。

現代の価値観とは異なるが、はてイエスキリスト以降はどうなのだろう?
そこが問題だ。
新約聖書にこれに関する記述や考え方があるのだろうか?
難問のひとつだ。


神を愛するとはどういうことか?

神を愛するとはどういうことか?
愛ということばが日本語への直訳なのでまずそこからつまずく。
アガペの愛が母親の子供に対する愛でそのような愛で神を愛せというならそれはそれでわからないこともない。
しかし”力を尽くして愛せ”となるとこれはまったく途方にくれてしまう。
しかし聖書の文脈からいうとどうも聖書の愛の意味は別の意味があるように思える。
それらの特徴を考えていくと
1、神への(絶対的)服従
2、神の賛美
に付随して
3、律法や十戒の積極的遵守。この世の価値を憎むこと。
ではなかろうか?
これはアガペの愛とは異なっている。

ローマ教会は大淫婦バビロンか?

ローマ教会は大淫婦バビロンであるという主張がある

以下のようなものだ。

主イエスが十字架についた後は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人が一体となって指導し、3人を中心とする12使徒が主イエス集団(天の国)を率いた。このことを理解して福音書を読むとき、主イエスの言葉や弟子たちの言葉が新たな息吹をもって響いてくる。主イエスが十字架についた後のペテロの行動は、まさしく天の国の祭司としての行動であったし、ヤコブの行動は王としての主イエスの後継行動であり、ヨハネは預言者としての役割を果たしている。
 ところが、王でもなく、祭司でもなく、預言者でもないパウロがローマに新しいキリスト教を作り、そのローマ教会が後の全キリスト教の礎となった。

 しかし、このローマ教会から全世界に広まるキリスト教会こそが、終わりの日に全世界を支配する偽キリスト666の獣にまたがる「大淫婦バビロン」の正体であることを、ヨハネ黙示録は記しているのである。そして、この聖書の封印は、終わりの日のはじまりに明らかにされることもまた、記されている。


ローマ教会は教義に会わないものを
異端者をつくりだし、何千万人も殺戮したという。
またアメリカ先住民も同様の規模で殺戮している。
カトリックの教会はそのことに口を噤んでいる。
しかし、それはパウロ神学の責任だろうか?
パウロ神学はユダヤ人以外へのキリストの救いを広めようとした
功績は否定できないだろう。



現実の教会・現実の牧師

イエスキリストを信じ信仰をもちながら
プロテスタントであっても現実の教会・現実の牧師は
とても容認できないところが少なくない。
その様子の一端は
現代の風景ー吉祥寺の森から”の牧師のブログから伺うことができる。

紹介されているとんでも牧師らは仲間をつくっていて、
悪を認めず助け合っているという。

こういった世間の教会にかぎらず
みじかなところでも小さなあらそいや
非難の応酬が絶えない。

パウロの孤立

パウロが12使徒たちからの孤立しているようすは以下からも想像できる
転載:
パウロの手紙には、自分が嘘つき呼ばわりされ、使徒ではないと非難されたことに対する憤慨が満ち溢れている。主イエスの直弟子たちによる文書『ペトロスの宣教』には、パウロを「律法の背教者」、「邪悪と嘘の熱弁者」、「イエスの真理の教えをゆがめる者」と記されており、パウロのダマスコ途上での回心を「悪魔が見せた夢や幻」としている。これに対しパウロは、「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤの信徒への手紙5・4)と書いている。

さて聖霊に導かれたはずのイエスの12弟子達がこのような態度をとることは奇妙である。隣人を愛せという主イエスのおしえさえも実行していないではないか。いったい何がおきていたのか?

そもそもパウロは正しいのか間違っているのか?

パウロの主張は律法にかんしては主イエスの教えと違っている。
しかし主イエスは律法を完成するためにきたといいつつも形式的な律法を退けているのは事実だ。
主イエスは異邦人の救済にはきていないというがパウロは異邦人の救済がメインだ。
マタイの28章では主イエスは異邦人につたえろという宣教命令があるが後世に確立した三位一体の概念を使っているので疑義が残る。
主イエスは神の国がきたといい、聖霊を助け手として残すという。
パウロは主イエスの十字架によって、それによってのみ、救いがあるととく。
主イエスはそのようにはいっていない。
このような状況をどうとらえたらよいのか?

ところで
カトリック教会はパウロを全面に押し出すことで
重要な事実を曲げていないか?
その1 イエスの真の後継者はヤコブであったのにヤコブを軽んじてその拠点をローマ/バチカンに選んだ。
その2 同様に異邦人への宣教命令によって(パウロの創作とする)その拠点を
ローマ/バチカンに選んだ。
その3 ローマはパウロを自分に迎合させ権力の基を作った。

これはパウロに非があるのだろうか?
ローマの権力者やその後のバチカンに非があるのだろうか?

パウロの神学はバチカンの悪に利用されたとはいえ、プロテスタントに引き継がれた。プロテスタントの指導者も少なからず腐敗があったとしても主イエスへの信仰によって罪から救われるというセントラルメッセージは生き延びているのではないか。
イエスの12弟子の教会は
ローマ皇帝ウェスパシアヌス(紀元69~79年)によって大方滅亡し、地下にのこったとはいえ、ユダヤ人のためのものだったではないか。

新約聖書は自己撞着や矛盾を内包した状態で12弟子の主張とパウロの主張を併記している。が生き延びたのはバチカンに悪用され得たパウロの神学であり、これが今日のキリスト教の中核をなしている。
いまさらパウロ神学から離れられないのでだ。


洗礼を授けないパウロ

洗礼をさずけないパウロはそのことを感謝しているという。
そのことばの意味は?

自分はキリストと共に十字架にかかったと豪語しているが
また自分のうちにキリストが内在しているというが
自分がキリストだといっているわけではない、ということか?
洗礼をさずけるのは直弟子にまかせるともいう意味なのか?

コリント人への第一の手紙
1-13キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。1-14わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。

1-17いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。1-18十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
 

パウロ神学 メモ

パウロ神学とはパウロの教えは主イエスの教えとは異なるという観点から
パウロの発言をいう。
そのまとめがここにあり便利なので
メモをしておく:
(転載)

17.パウロ神学「十字架じゅうじか

ローマ人への手紙
6-6わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。6-7それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。6-8もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。6-9キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。6-10なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
   
コリント人への第一の手紙
1-13キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。1-14わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。

1-17いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。1-18十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
 
ガラテヤ人への手紙
2-19わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。2-20生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。2-21わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
  
エペソ人への手紙
2-14キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、2-15数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、2-16十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。2-17それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。
  
コロサイ人への手紙
1-19神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、1-20そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させてくださったのである。
  
ヘブル人への手紙
5-8彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、5-9そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり、5-10神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。

7-27彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。7-28律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。8-1以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、8-2人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。

9-11しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、9-12かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。9-13もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかれられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、9-14永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

13-10わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物を食べる権利はない。13-11なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。13-12だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。13-13したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。

主イエスの世界への宣教命令は本当か?ユダヤ人しか助けないかその2

主イエスの世界への宣教命令
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ28・19)
はクリスチャンへの主イエスの宣教命令だとされているが
この聖句があとから創作されてつけ加えられたという説がある。

その理由は主イエスはもともと
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10・5~6)
と逆のことをいっているから。
さらに

異教徒に伝道せよという指示は、主イエスの考えにも、発見された資料群の内容にも反するし、「父と子と聖霊の名によって」という言葉は、長い年月を経た後にキリスト教の神学理論が確立してから使われるようになったものだからである。

だというわけで一理ある説だ。

しかしもしそれが正しいとすると
主イエスは
ユダヤ人を救済にきたのであって
それ以後の主イエスを信仰する何億人というクリスチャンを
救済しないということにもなり深刻な問題を提起する。

その回答を理知/論理を通して得ることはできるだろうか?
それとも聖霊を通してしることになるのだろうか?