優しさがいちばん -13ページ目

加藤一二三伝説1

聖書からはなれて一服。

加藤一二三伝説:

  • 米長邦雄「将棋をより極めるところまでいけるのはやはり加藤さんだろうと思う。」
  • 中原「加藤さんは、長考してる時は何も読んでないけど、一分になるとものすごく読んでるんだ」長考よりもむしろ秒読みのときのほうが読みが鋭い」
    「加藤さん相手だと、95点以上の手をさし続けないと負ける。加藤さんは90点以上の手を差し続けてくるから。
    米長さんや大山さんだと、80点でも勝てるときがあるけど、100点の手でも負けることがある」
  • 飯塚祐紀七段「加藤先生は秒読みになってから本当に強い。間違えない」
  • 羽生善治「加藤先生の場合は相手を見ずに盤面しか見ていない。」
  • 米長会長「猫好き9段」
  • 羽生「あそこまで同じ戦法を貫かれると不気味ですらある。普通、研究され対策されることを考えると、
    一つの戦法をとり続けることは、一つの行き方ではあれ現実に実行する人はほとんど居ない。しかし加藤先生に限っては、全くそれを恐れていないようだ」
  •  

三位一体の説くところ

カトリックの作り上げた使徒信条のなかに

三位一体を信じるという箇所があるが使徒信条をプロテスタントが

そのままつかっているのもおかしなものだ。

おおくは牧師も平信徒も考えることなしに盲目的にそのまま繰り返すのみである。

考えないのがクリスチャンの特質だからしかたがない。

 

それにしても結果として三位一体は本質的に重要なのである。

http://nohboh.cside.com/uchinada/semi/semi.htm

の解説に

ところで、なぜ、そのように信じることができるのか。なによりも、聖書の言葉が、主 イエスの言葉を私たちに示して下さり、約束をなさっておられるからです。特にこの聖霊 なる神様の働きのことがヨハネによる福音書において主イエス・キリストが弟子たちに向 けて説明をなさっておられるのです。先程、読んで下さいましたヨハネによる福音書14 章15節から聖霊なる神様というものが私たちにどのような働きをして下さるのかが語ら れています。特にこのヨハネによる福音書14章の場面は、主イエスが十字架に付けられ る前日の出来事として、ご自分の弟子たちに語っておられるものです。主イエスがこの世 からいなくなる、弟子たちの目の前から消えてなくなる状況の中で語られた言葉でありま した。いわゆる主イエスの別れの説教であり、遺言であったのです。弟子たちは折角、今 まで師匠として主イエスを頼りにして信じて従っていたのに、それなのに、突然十字架に 付けられると言われる。死んでいなくなってしまうと言われる。この時弟子たちは危機感 を持って、絶望していたことでしょう。孤独になり、目の前が真っ暗になっていたのです 。頼りにしていたお方であり、この人ならばどこにでもついて行くことができると考えて いたお方なのに、弟子たちは寂しい思いで一杯でありました。しかしながら、主イエスは 別れの説教の中で14章18節で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻って来る。」と慰めの言葉を語られていました。主イエス・キリ ストは今別れを告げておられます。残された弟子たちは、親に捨てられたみなしごのよう な寂しさ、せつなさに耐えることができないような深い悲しみを抱いていたことでしょう 。けれども、主イエスは「あなたを放ってはおかない。あなたがたのところに戻って来る 」と約束して下さいました。これはどういう意味なのでしょうか。19節においては「し ばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」と語られ ています。これは、明らかに主イエスが十字架に付けられて殺されるけれども、蘇られる ことを弟子たちに告げておられるのです。

 

つまりイエスが天国にひきあげられる替わりに助け主(聖霊)をおくるというのが

キーポイントなのだ。

使徒信条ではそんなことを理解せずに強制的にいわされていて

しかも助け手の約束とその確認には無頓着状態にされているのだ。

これは教会の怠慢なのだが

牧師からして体感できていないのだから教会の怠慢を責めることもできないのが

現実だ。

クリスチャンはしきい値をさげる

クリスチャンを観察してみると

祈りが答えられたかを考える時のその判定の基準が極めた甘い。

世の中のできごとは希望通りにいかなかたり、いったり、

うまくいくときもいかないときもばらばらなどが普通である。

 

天気予報があたったかどうかも実は簡単ではない。

第一予報は時間とともにどんどん変わる。だから何時間前の予報と比べてかを指定しなければいけないし、雨雲の分布だって濃淡があり、隙間もありそれが動いている。

室外で仕事をする職業では通り雨でしかも時間が予報どおりでなかったら

濡れてしまうので予報ははずれと判定する場合がすくなくない。

 

クリスチャンのばあい、祈った結果に対する出来事がおわったばあい

願いが叶えられたかどうかも似ているところがある。

それに神の介入があったかどうか(=祈りが応えられるということ)を

判定するときは祈りの希望にちかいばあいは祈りがこたえられたと

判断しがちだ。しかも神の加護があったと信じる場合がおおい。

その出来事がまれなばあいはこれはわりと簡単に奇跡にまで

昇格してしまいがちだ。

祈りがかなえられないばあいは、これは神の試練なのだと

考えがちだ。

なにごとも神の意志だとかんがえるのが、ちょっとみ

立派なクリスチャンだ。

 

だから非クリスチャンとくらべクリスチャンは物事の判定基準をさげがちだ。

 

これは事実・正確さよりも神が自分をまもってくださるという

信仰の強さだということになってしまう。

 

信仰とは正確性ではないのだ。

となると聖書の教えが正確で無矛盾かどうかという

視点はおろそかになりがちになる。

 

教会でつっこみすぎるとサタンに支配されているなどと

誹謗中傷されがちなのも、自分たちの信仰を守るためなのだから

そのような立場を非難するわけにもいかない。

 

イエスが天にもどったのは助け主をおくるため

ヨハネ16:17には私達クリスチャンに助け主をおくるためだと明記してある。

それなのにローマンカトリックは法王に従うように捻じ曲げてしまった。

プロテスタントはどうかというとローマ法王のかわりに聖書に従うように曲げてしまった。

もっとくわしく ヨハネ16−17では

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

 

これが新約聖書が本当におしえているところではないか?

 

おおかたの教会ではそんなことはおしえていない?

いやあの悪名高いチョー・ヨンギのところではそうでもないか?

 

カリフォルニア星教会のところでは聖霊充満というチョーヨンギのところからの

メッセージがかかげてあったっけ。

 

聖霊の賦与についてはまとめたブログがある。ここ

 

自然の聖書の読み方ではそうなるのだが、これを実証しようとすると

むつかしくなり、わたしはいままでうまくいかなかった。

うなくいかないでこのままこの世にいなくなってしまうかもしれないが

最後のちからを振り絞って考えていこうとおもう。

この理解が中途半端でおわったら

わたしが1979年にシカゴ郊外で

故東泰男目牧師から洗礼をうけて

クリスチャンがなったのは無駄なことだったということになる。

聖霊をおくるという約束 再び 2

聖霊が送られるというイエスの約束で一番記憶が強いのは

ヨハネ16:17の

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」

だ。

なんども繰り返すがイエスが死から蘇り、天に戻るが、40日間の限定期間だけ

弟子たちのところにもどり天国にもどられる。

40日だけしか地上にとどまれないのはわれわれには不可知であるが

それは助け主(聖霊)をわれわれのところにおくりより多数のクリスチャンをたすけるためだという。

 

はたしてその後二千年助け主はわれわれに顕現してきたか?

 

聖霊をおくるという約束 再び 1

しばらく聖書研究を離れていた。

 

仏教で思うのだが、念仏教というのはあったとおもう。仏教ですくわれるのに

くそむつかしい仏教哲学などが必要だったら一般庶民には必要ないのではないか。

庶民は救済できないのか?そんなことがあるはずはない。ということでただ念仏を

唱えるだけで救済されるという教えだったと思う。

 

いやんや釈迦ではないイエス・キリストは愛をすべての上の第一順位においていて

無学なものは最低の底辺のひとびとを救済している。

 

だからキリストの教えにおいてもヘブライ語だのギリシア語だの論理学だの

高尚な七面倒臭い議論の習得することなど必要ないはずだ。

 

いちどキリストを受け入れ、聖霊の洗礼(ここには洗礼が二種類あるのでめんどうだが最低限の知識として学ばなければならない)をうけたあとで必要なことはなにか?

 

教会は教会の奉仕活動だというだろう。しかしそれだけでは物事のいち面だ。

 

尊敬すべきクリスチャンにはひとつの共通する特徴がある。

それは生きている間のこころの平安と死後天国へはいれるという確信だ。

 

このひとたちはこの2つがあるためぶれがない。

たとえ聖書に矛盾が発見されようが問題としない。

 

私のような聖書の記述には間違いがなく無矛盾のあかしを

みたいという立場とはことなる。わたしのような自然科学者にとっては

それがすべてだ。

念仏教の念仏に相当するのは聖書の約束である助けての聖霊を送るという

約束だ。

せめてその証を見たい。

それがないと神の望在がわからず洗礼をうけた意味がないことになる・

 

 

聖書学者のつまらなさ

久しぶりで書店に顔を出して新刊をチエックしてみた。
理学関連と聖書関連でいくつか新刊が出ていた。
聖書関連は
佐藤優の対談ものと
加藤隆の旧約聖書聖書の解説ものが。
佐藤優は聖書の専門家として。
加藤隆は聖書研究者として。


例えば加藤は
研究内容

 第一。<聖書研究>。聖書(旧約聖書と新約聖書)を綿密に検討することを基礎として、キリスト教について、またキリスト教を取り巻く世界の状況について考える。宗教や文明についての研究だが、聖書の研究は、つまるところテキストの分析である。テキストを可能なかぎり厳密に読むために、さまざまな技術を駆使して取り組んでいく。
 第二。<比較文明論>。人間が自分たちのためにつくってきた人工的な環境を「文明」と呼ぶことができるかもしれない。これまでに構築した、文明のさまざまなタイプからなる類型論を背景にして、最近は特に、「愛のさまざまな形」というトピックからのアプローチに取り組んでいる。「神は愛」かもしれないが、「愛は神」なのか。「愛」と「神」は、どのように繋がっているのか。そもそも「愛」と「神」は、本当につながっているのか。いずれにしても、人々の「愛」はさまざまな様相を呈している。古今東西の「愛の形」を検討している。

加藤は聖書はテキストの分析であると述べている。
聖書をまるで外科医が患者の体を観察するように見ている。
つまり聖書の主張と全く異なる読解をしようとしている。
これほどつまらない態度はなかろう。
もっともその手法はかってのドイツの
ハイアークリテックと呼ばれる手法の焼き直しと思われる。
日本人が知らないと思っているのだろう。

パウロの不思議

イエスの12弟子もパウロもどちらも聖霊がのぞんでいたはずである。特にパウロは実在したイエスにあっておらず、その教えについても聞いていない。聞いているとすればパウロが痛めつけた信徒たちからの証言やバルナバの証言だけであろう。
聖霊がパウロに臨んで直接真理を開示したのであれば12弟子たちにだって同じ聖霊が望んだはずだからお互いに理解しあえないはずがない。
パウロがそのようにして真理についてまなび、その現行がが新約聖書となるほどのことになれば、パウロ以外の信者であっても
同様な言行が可能であるはずだがこの2000年のあいだそんな信徒がいたとも思えない。(私たちがきずいていないだけなのかもしれないが。)

ペテロもユダヤ人以外に伝道をしている

聖書から真理を解き明かすのは本当にむつかしい。
イエスキリスト本人はご自分は異邦人を救い遣わされたのでは
ないといっておられるので、それではユダヤ人以外の異邦人は救われないのではないかと
考えてしまうのは自然な解釈だ。
ところが使徒行伝を見るとペテロが異邦人を救済している記述がある。
つまりイエスが十字架に死してから以降、復活してパウロやペテロに異邦人を
救わせよとの記述があるのだ。
これをイエスご自身の証言と矛盾するので、あとから付け加えられた偽の証言なのか、
イエスの役割と弟子たちやパウロの役割分担なのかその解釈の選択に迷ってしまう。
これだから聖書の解読は難しい。
また一部を取り出してミスリードさせる主張にまどわされやすい。

パウロの召命とルカ

パウロは主イエスから直接の幻によってであったとされるが
教えの内容は聞いていない。アナニヤから洗礼をうけバルナバから間接的にきいたにせよ
それだけで12弟子たちとはりあうだけの知識を得たとは考えにくい。

それにもかかわらず主イエスは


9:15[編集]

しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。

とある。
これがパウロへの召命なのか。

反論があるとすればルカはパウロと一緒に行動をしているので
パウロの正当性を援護しているといわれるかもしれない。