聖霊をおくるという約束 再び 1
しばらく聖書研究を離れていた。
仏教で思うのだが、念仏教というのはあったとおもう。仏教ですくわれるのに
くそむつかしい仏教哲学などが必要だったら一般庶民には必要ないのではないか。
庶民は救済できないのか?そんなことがあるはずはない。ということでただ念仏を
唱えるだけで救済されるという教えだったと思う。
いやんや釈迦ではないイエス・キリストは愛をすべての上の第一順位においていて
無学なものは最低の底辺のひとびとを救済している。
だからキリストの教えにおいてもヘブライ語だのギリシア語だの論理学だの
高尚な七面倒臭い議論の習得することなど必要ないはずだ。
いちどキリストを受け入れ、聖霊の洗礼(ここには洗礼が二種類あるのでめんどうだが最低限の知識として学ばなければならない)をうけたあとで必要なことはなにか?
教会は教会の奉仕活動だというだろう。しかしそれだけでは物事のいち面だ。
尊敬すべきクリスチャンにはひとつの共通する特徴がある。
それは生きている間のこころの平安と死後天国へはいれるという確信だ。
このひとたちはこの2つがあるためぶれがない。
たとえ聖書に矛盾が発見されようが問題としない。
私のような聖書の記述には間違いがなく無矛盾のあかしを
みたいという立場とはことなる。わたしのような自然科学者にとっては
それがすべてだ。
念仏教の念仏に相当するのは聖書の約束である助けての聖霊を送るという
約束だ。
せめてその証を見たい。
それがないと神の望在がわからず洗礼をうけた意味がないことになる・