優しさがいちばん -15ページ目

こんなカトリックの聖書解釈もある。敵意むきだしの解説・

外からみてカトリック教会は一般信徒にたいしてはプロテスタントほど聖書の内容に
たちいらないと思うのだが、その神父たちがどのように聖書をとらえているのかを知る
興味深いサイトがある。

笹倉キリスト教会 笹倉正義というサイトだ。

引用するまえに注意するのはこの笹倉というかたは
新約聖書は取り扱い説明書の意味しかなく、
なかに異端の考えが多数含まれていると
敵意むき出しの愛に欠けた態度で執筆していることだ:

以下一部分を引用する。宗派による仲違いというものはこれほどに
敵意をむき出しにしていることがよくわかる。同じクリスチャンである隣人をこれほどまでに憎むとは。
さくご
「錯誤」それが、「ヨハネによる福音書」の源である。
。。。
ピリポ派、ヨハネの名を冠した少数異端いたん
ピリポ派は、イエスの神聖の証人である聖母マリヤとペテロ、また栄光のイエスの僕となったパウロたちとは異質の存在である。
。。。

新約聖書の各所に施された、「世の終わり」と「再臨」という言葉は、ピリポ派のしわざである。
。。。

主流派の福音書のイエスは、望みがあるときは、何度でも、何度でも訴えなさい。そうすれば、門は開かれるであろうと教えられたのである。しかるに、ピリポ派はそれを否定し、神への求めを安直なものに変えてしまった。

この二つの異端によって、キリスト教がローマにおいて拡大していく時、デマの源となりあるいは親衛隊による信徒の取り締まりに利用されて、大いに迷惑をこうむったのである。
。。。

主流派のイザヤ書
すなわち、主流派と少数の異端では、引用する預言書が違うのである。
主流派の聖母マリヤとペテロは、イザヤ書である。また、神学の父パウロはヘブル人への手紙でイエスが永遠の大祭司であることを証している。大祭司が再臨するだろうか。

ピリポ派にとっては、ダニエル書が信仰の源であり、再臨のイエスはその果実である。未来のことを言って人々の不安をあおっているのである。

。。。

主流派に食い込もうとする異端
彼らが少数派であったのは、彼らが作ったこの手紙に現れている。
(ヨハネの黙示録)
3-20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
これは、ラオデキヤの教会に宛てた部分であるが、エペソの教会の人々も読む。エペソには主流派のプリスキラ(姉)やガイオがいる。この言葉の「わたし」はイエスではなく「ピリポ派」である。
。。。

文盲のペテロ場合
(ペテロの第一の手紙)(ピリポ派シルワノことシラスの代筆)
1-7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

5-12わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。
自分のことを、ペテロが信頼している者、と書くことこそペテロをなめた言葉であり、シラスの歪んだ根性を示している。
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パウロの葛藤
。。
ただ言えるのは、そのパウロさえも、聖母マリヤ信仰には到達しない。それを成したのは、テオピロとルカである。
。。。

「オリジナル教会」の立場
しかし、だからと言って、新約聖書を再構成することは有りえない。定まっているものを変更する権限はだれにもない。取扱説明書の域を超えず、指摘にとどめなければならない。
。。。

神は奴隷制度を容認されたか

旧約聖書、とくに創世記を読むと信仰のあついユダヤ人の首長に関する記事がおおい。その信仰のゆえに神は彼らを祝福しその子孫の繁栄をも約束される。
不思議であることは首長・部族超には召使や奴隷がいることだ。
神は身分格差を容認されているようにみえる。
いったいこの時代の奴隷はどのようにしてできたのか?

部族間の戦争がありまけた部族が奴隷とされたのか?

そのへんの解説がここに

難解きわまりない聖書と諸派

聖書は難解である。
人が救われる方法はとても簡単だが根拠などその詳細になると
とてもヒトの手には負えない。
どうやらその第一の理由は内容におびただしい数の相互矛盾があるからだ。
そのため宗派またはよむ個人によって好き勝手な主張のために
特定の筋書きにそって論理を組み立てるようになってしまう。
物事を自分で考えないひとが大多数であることは仕方がないことだが、自分で考えてさえ、細部にいたるまではもちろん、全体の大きな筋でさえいくらでも物語ができてしまうのだ。

BBCの推定する主イエスの顔

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一番大切なこと

主イエスの命令で一番大切なことは
マタイ22章35節からまたはマルコ12章29節からの
『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

ここではクリスチャン一般にではなくユダヤ人(イスラエル)に対する命令なので
異邦人である私たちに当てはまるかどうかは自明ではない(たええば割礼についてはユダヤ人だけにあてはまるといわれている)
だがおそらくクリスチャン一般にもあてはまるのだろう。

ギリシア語の新約聖書では愛はアガペということばが使われている。
アガペとは神の信じるものへの無償の愛で、御子キリストを信じるものへ犠牲にしたのは
アガペの愛ということばが使われている。
心、精神、思い、力の違いはよくわからないが
理性とかん感性の両方を含んでいるようだ。

だから神が人間を思っているように人間も神を思いなさいという意味が近いと思われる。
感性のほうは自然とわきあがる感情なので命令でどうのこうの動かせるわけではないが
理性も動員して感情をもしっかりともっていきなさいということだろう。
ちなみにイエスの引用元の申命記では心はヘブライ語のレーブで
知性や意志の働きと強くかかわり、むしろ理解力や悟りを意味
また精神はネフェシュで「霊、息、たましい、いのち、自分自身」の意味をもつという。

そのうちの一つはイエスの説く掟を守ることが具体的な行動らしい。
主イエスは神を愛するならがその結果自然と掟を守ることになると
あちこちでいっている。

しかしこの世的には掟を守るからといって命令主にたいして愛がめばえるわけではないのも事実だ。

掟によれば偶像は禁止されているが具体的な映像がないとアガペの愛を持つことは難しい。
だからカトリックは十字架やマリアや白人のイエスの似姿を具体的なイメージとして奨励している。それが偶像だといわれても動機がただしいのでよい偶像だといっているかのようだ。

イエスはおそらくスファラデイユダヤ人だろうから絵画や映画にでているような姿をしておらずアラブ人に近いかもしれない。

BBCが推定したイエスの顔はこんなんだったという。

心、精神、思い、力をつくしてこのようなイエスを愛するには
おおくの人々は抵抗をもってしまうだろう。

イエスのいう最も大事な命令も実行するのは人間が勝手な
先入観をもつと簡単ではない・



杏こぐまさんのケーキレシピ〜

漫画家で料理研究家のあんずこぐまさんがクレープをベースにした
ケーキをyoutube 
で発表した。
解説が英語だけでなく日本語もついているともっといいね。

霊的存在は地上の存在と交えられる

アダムとエバの失楽園以後 ヒトは霊の世界を感知することができなくなったというが
かならずしもそうではない。


創世記6章
さて,人が地の表に増え始め,彼らに娘たちが生まれると+ そのとき[まことの]の子ら*+は人の娘たちを見,その器量の良いことに気づくようになった+。そして彼らは自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった。  その後エホバはこう言われた。「わたしの霊+が人に対していつまでも定めなく働くことはない+。彼*はやはり肉であるからだ+。したがってその日数は百二十年となる+」。 その時代,またその後にも,ネフィリム*が地にいた。それは[まことの]の子らが人の娘たちと関係を持ちつづけ,その[娘]たちが彼らに子を産んだころで,それらは昔の力ある者たち*,名ある人々*であった。

このように霊の世界の神の子(天使たち)は地上の世界の人間のオンナと交わって子供を作っている。
ネフイルムは巨人であり通常のヒトではないにしろ、
霊が物質化しているのか霊のままなのかは書いていないが
地上に生命をもつ子供をつくることは可能だといっている。

この記述はヒトは霊の世界を実証できる可能性を秘めていることを示す。

洗礼を受けていなくても主の癒しはできる?

”形式的な”洗礼をうけていなくても主の癒しはできる。
ということが使徒行伝のパウロの宣教でわかる

パウロは私たちと同じようにイエスキリストにはであっていない。
水の洗礼もうけていない?

ただ主への信仰と愛によって奇跡を可能としている。

訂正:
いやそれは私の記憶違いだ。
主イエスの幻をみたあと伝道者アナニアから洗礼をうけている

イエスはユダヤ人しか助けないか?

マタイ15:24

15:24しかし、イエスは答えて言われた、「わたし1イスラエルの家の失われた羊以外には、遣わされていない」。

みんな見逃しているか、知っていて知らんふりをしているか、
都合の悪いところはわからないふりをしているか。

ここで主イエスはユダヤ人を救いにきたのであって
私たちのような異邦人の救済のためにきたのではないと。

異邦人の救済はパウロがでっちあげたのだろうか?

わからない。

聖書の矛盾の一つだ。

キリストの神を糾弾する主張

主キリストの神の残酷さを糾弾するサイトがある。
神のみ言葉(聖書)から …。
これらは目がくらむほどに旧約聖書に記述されている。
信じられないことに新約聖書にさえそのような例がある。

神の本質は愛であるのにこのような例はどうやって正当化できるのか?

スペインのカソリックはアメリカで150年間に1億人を殺戮したというし、中世ローマンカソリックでは宗教裁判・魔女狩りで数千万人を殺したという。

毛沢東やスターリンをも上回るカトリックの暴挙!