原理講論の「終末論 第五節 終末と新しい真理と我々の姿勢」には、次の聖句が紹介されています(P170)。
「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話して聞かせるときが来るであろう。」(ヨハネによる福音書16/25)
そこで、私達は、
「再臨のメシアは、比喩・例えを用いず、あからさまに真理を語られた」
という認識をもってきたと思います。
文先生の御言の難しさは、理解力が自分自身にないからだと思ってきました。
ですから、どちらかと言うと、
「文先生が何を言われたいのか」
ということをたずねながら読むというよりも、膨大な御言の中から、
「自分にあった御言を探す」、「自分に必要な御言を探す」
という読み方にならざるを得ませんでした。
ですが、原理講論のこの部分、つまり上の聖句が紹介されている前後を読んでみると、終末には新しい真理が出現するということが何度か書かれてはいますが、原理講論自体の言葉として、その新しい真理にはもはや比喩や例えは一切使われないということが、書かれているわけではありません。つまり、原理講論に上の聖句が引用された趣旨は、あくまでも新しい真理が現れるということを説明するためであって、そこに比喩や例えが一切ないということを説明するためではないということです。そのことが前後の文脈から確認できるはずです。
では、文先生ご自身はどう言っておられるのでしょうか。
「第3イスラエル建設路程の出発に臨んでいる皆さん! 皆さんはどのようにしなければならないのですか。霊界の法度を知ってこそ抜け出せるのです。その使命系統がどうなっているのか知らなければなりません。
その国の軍隊は味方の軍隊で使っている暗号を知ってこそ、戦争をするときに味方から攻撃されません。
この時は天の国の暗号が聞こえる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、使命的な暗号の通信時代なのですが、このような暗号を通じて連絡できるし、作戦計画を遂行することもできる、地上統一理念の代身者になれる時代であるのです。」 (牧会者の道 P103)
ここで、文先生は、
「この時は天の国の暗号が聞こえる時代」
「今は暗号通信時代」
「摂理的な暗号、使命的な暗号の通信時代」
だと言っておられます。
文先生は、その生涯を通して、決して、
「比喩・例えを用いず、あからさまに真理を語られた」
というわけではないということです。
この「暗号通信時代」がいつまで続いていたのかということは、御言を読み進める上で重要です。ただ、文先生の晩年の訓読会の御言を読むと、例えば
「夜の神様、昼の神様」
「ルーシェルは神様の弟だった」
「ルーシェルとは、『実をならす木のいくつかの種類の種』と言う意味である」
「7+8は15になる。7×8は56となって境界線をこえていく。7×7は49なので50の峠を越える事はできない。」
等、難しい表現が多く語られています。
「そこに比喩・例えはない」などと言えないことは明らかです。
「暗号通信時代」は最後まで続いていたと言えるでしょう。
次は2011年9月2日の訓読会での御言です。
(日本語訳として、正式に公表されたものではありません。「参考」として下さい。)
「今までに、2,700冊以上のみ言葉の本が出版されている。私達は40年も前に語られたみ言葉を今日も訓読している。なぜそんな古い御言が今も有効に語られ得るのか。それらの御言が天から来たものだからである。毎日訓読会に参加しなさい。たとえ、あなた達のほとんどがそのみ言葉を理解することができないとしても、天は 僅かな者達に、毎日、トピックを選んで特別な教授をしている。そうすればその者達は他の人たちに教えることができるだろう。」
御言は、普通に読んだだけではわかりくいのですが、その中には、
「僅かな者達に」
わかるように
「特別な教授をしている」
内容が含まれていることがあるとのことです。
そして、それは、そのときはわからなかった人たちにも、わかった人達を通して教えられるべき内容だと言っておられます。
では、なぜ御言の中に「暗号」といわれるような、わかりにくい部分があるのでしょうか。その理由は、先回すでに触れてはいますが、もう少し御言を確認しておきたいと思います。
「だから今、統一教会がそこまで完成して、勝利した基準があるから教えるのです。それを教えなければ、あなたたちより何百倍、何千倍知恵深いサタンが持っていってしまうのです。そうなった場合には、神の復帰の道は完全に閉ざされてしまいます。
子供の成すべきことをサタンがすぐに持っていって成した場合には、また、神の二重の苦しみが生じてくるのです。だから、それは暗示や比喩をもってなす。表示や合図で持って教えるのです。それは真理を愛する子女関係を結べば分かるのです。」(祝福 66 P172 777双聖酒式後の御言) ‥‥‥(*)
後半に、
「子供の成すべきことをサタンがすぐに持っていって成した場合には、また、神の二重の苦しみが生じてくるのです。だから、それは暗示や比喩をもってなす。表示や合図で持って教えるのです。」
とあります。
子供がなすべきことをはっきりと教えた場合、それを先にサタンが理解し持っていって成してしまうと、神様の二重の苦しみが生じると言っておられます。
ですから、はっきりと教えられない。そのはっきりと教えていない部分から真理を探し出して、それを実践していくことは、私達の大事な責任分担だと言えます。
また、
「本に隠された事実以上のものを知らなければならない」
という御言もあります。
「1週間修練、21日、40日修練を受ければ、それで統一教会の正会員だと考えてしまい、本を無視してきたという弊害があるのです。本を棚の上に上げておいて、ほこりをかぶらせたのが大きな失敗です。
原理というものは、毎日の信仰生活で私たちが行くべき道であり、原理の深さは無限なのです。皆さんは、今、本に記録されていない内容に、どれほど膨大な世界があるのかを知りません。自分がそれを開拓し、疑問に思う全てのことは、信仰生活の程度に応じて、知りたい分野を啓発していかなければならないのです。本に隠された事実以上のものを知らなければならないのです。ですから本自体を知らなければいけないのです。
それを本棚の上に載せて、装飾品にするために、そのようなことをしたのでしょうか。歴史的な材料が死んだまま眠っていてはだめなのです。千回、回覧させれば歴史が生き返り、再創造の役事をすることができるのです。」 (ファミリー 96年9月 P19 第34回 「真の神の日」)
訓読をして「本自体を知る」のは、
「本に隠された事実以上のものを知るため」
とのことです。
さらには、次のような御言も。
「『み旨と世界』という本は、‥‥‥そこにも自分達で理解できない所がたくさんあります。わざと先生がそのように残しておいたのです。」 (ファミリー 96年8月 P9)
「文先生が、
『自分達で理解できない所がたくさんあります。わざと先生がそのように残しておいたのです。』
と言っておられるのだから、私たちに分かるはずがない。分かろうとすること自体が無理なことである。分からなくても信じればいい。」
という主張もあるかと思います。
ですが、一つ前の御言の中ほどに
「自分がそれを開拓し、疑問に思う全てのことは、信仰生活の程度に応じて、知りたい分野を啓発していかなければならないのです。本に隠された事実以上のものを知らなければならないのです。ですから本自体を知らなければいけないのです。」
という内容を重く受け止めれば、上で述べた
「私たちに分かるはずがない。分かろうとすること自体が無理なことである。」
といった考えは適切ではないと言えるでしょう。
御言の分かりにくい部分を理解する鍵について、文先生は次のように言っておられます。
「いつでも、二重的な言葉の相対を見つけ出さなければなりません。対応語は何かということです。対応語を見つけ出すのは、私がチャンピオンです。原理世界の正しいことを教えるために、私がすべてつくったのです。」 (ファミリー 04年10月 P23)
(*)印をつけた御言の最後にある、
「それは真理を愛する子女関係を結べば分かるのです。」
ということも大切だと思います。
以上、御言の中に、なぜ「暗号」、「暗示や比喩」、「表示や合図」があるのか、ということに関して、その理由の一つは
「子供がなすべきことをはっきりと教えた場合、それを理解したサタンが先に持っていって成してしまうと、神様の二重の苦しみが生じる」
ということになりますが、すでに、NO.2の記事で触れたように、もう一つ大切な理由があります。それに関して、もう少し御言を確認しておきたいと思います。
「復帰していく原理は教えてあげることができない。それゆえ、自分が尋ね求めていかなければならない。」 (み旨の道 P61)
「先生が今ここまで来たのは、原理原則、天の鉄則がどうなっているのか、はっきり知っていたからです。‥‥‥(中略)‥‥‥
原理からいってどうなるか、先生はよく知っています。しかし先生は、それは教えません。」 (御旨と世界 P674 「愛の相続」)
「今までの先生の説教をまとめた説教集をすべて読んだ人は手を上げてみなさい。こら!どんな教育をしたのですか、協会長。先生はその説教集の中でも深い内容は語れませんでした。今でも語ることはできません。御言の貴さを知り、御言の下には生命の源泉が、湧き水の源泉、水の源泉ではありません。降水ではありません。その生命の源泉が流れているということを知らなければなりません。自分個人の家にその湧き水のパイプをひいて永遠の生命水が湧き出すような道を模索してみなければならないというのが、統一家の群れの責任であるのに、何をしてきたのですか。あれはみな古物屋に売る本なのですか。」 (真の神様の祖国光復 P216)
「とにかく私に従って来るのだ。しかし、詳しいことを教えることはできない。復帰の道は、探し求めて発見する道である。だから、あなたは、私を信じて前へ進まねばならない。そして、その途上であなたに詳しく説明するわけにはいかないのだ。」 (天暦6月3日 2012年7月21日 天和宮での訓読会)
いかがでしょうか。
「教えてあげることができない」
「深い内容は語れませんでした。今でも語ることはできません」
「詳しく説明するわけにはいかない」
とあります。
そして、何について「教えてあげることができない」と言っておられるかというと、「復帰していく原理」についてと言っておられます。人間が創造本然の人間に復帰されていく原理、および、そのための人間自身の責任分担についてということになるでしょう。言い換えれば、NO.2の記事で確認した「み旨」と「摂理」に関して、「み旨」については詳しく語ることができないということになります。
文先生も、神様と同様に、人間の責任分担に対し、すべてに干渉するわけにはいかなかったということでしょう。
にもかかわらず、人間の救済のために、どうしても教えたい内容があるときには、
「自分が尋ね求めていかなければならない」
「復帰の道は、探し求めて発見する道である」
とあるように、
「人間が、御言の中から、自分で復帰の道を発見する」
という最小限の責任分担を残さなければならなかったのではないでしょうか。
しかしながら、私達は、この「自分で尋ね求める」ということをあまり重視してきませんでした。
「私の教科書や教材を読んでみなさい。それが間違いかどうかわかるだろう。もし間違っているというのなら、私を正してごらんなさい。
それらの言葉は三代のためのものであった。あなた達のためであり、その子供達のためであり、その孫達のためのものであった。しかし、それは言うに及ばないことだろう。どうせあなた達には理解できないのだから。」 (2011年10月4日 ラスベガス天聖宮での訓読会)
文先生の御言は、私達を飛び越えて、二世、三世に向けて語られていたこともあったのだと思います。だとしたら、わからないからといって切り捨てていたら、二世、三世に届くことも難しくしてしまうかもしれません。
最終的には、
「どうせあなた達には理解できないのだから」
といった、あきらめに近いものを文先生に感じさせてしまったのでしょうか。
いいえ。どこまでも、私達の可能性を信じて、妥協なく御言を語り続けてこられた文先生でした。ですから、これは、
「理解できていないことを知って、理解できるように努力しなさい」
というメッセージだと捉えたいと思います。
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