2.「すべてを教えてあげるわけにはいかないのです」 | 御言 missing link

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 先回、記事の中で、次の御言を提示しました。

「今までは、講義をしながら自分勝手にやってきたのです。それはいけません。原理のみ言を全部本を読みながら講義するのです。『原理講論』は劉協会長が書いたのではありません。1ページ1ページ鑑定を受けたのです。
 私が成したことに手を付けることはできません。ありとあらゆるものが、皆そろっているのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。
 (ファミリー 95年2月 P63「真の父母の勝利圏を相続しよう〈神の日のみ言〉」)

先生はいつも完全には教えてあげません。原理の本に対する内容の中に分からないことがあれば、先生がどこかに行って、一言話すのを聞いてみれば分かるはずです。先生が何の話しをしたのか、毎日のように人をおいて、ついて回らせながら報告を受けなければ分かりません。」 (ファミリー 96年8月 P12 真のご父母様「聖婚記念日」の御言 1996年5月3日 イーストガーデン)

 特に、
「すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。」 
「先生はいつも完全には教えてあげません。」
 という部分、つまり文先生が、すべて教えるわけにはいかない、完全には教えてあげないと言っておられる理由について、補足しておかなければならないことがあります。そのためには、2つのことを確認する必要があると考えています。
 一つ目は、「み旨と摂理」についてです。
 私達は、「御旨」と「摂理」は同義のものとして理解してきました。ところが文先生はこの2つをはっきりと区別しておられます。
 まず、「御旨」について確認します。次の御言をお読みください。

神様のみ旨とは何でしょうか。真の愛です。すなわち創造理想を完成しようということです。神様の創造理想を完成するとはどういうことかというと、四位基台を完成しようということです。アダムとエバが結婚することによって神様と人類が一つになれば、万物がすべてその愛の上で一体になるのです。ですから、一つになって神様を占領し、創造された被造物を占領できる第二の主人になろうということです。神様は見えない主人であり、私たちは見える主人です。神様は内的神様であり、私たちは外的神様になろうというのです。」(環太平洋摂理と巨文道 P94、御言選集 276 P253 1996.2.24)

 ここでは、
「神様のみ旨とは、創造理想を完成しようということであり、それは四位基台を完成しようということ」
 と言っておられます。

それでは私が神様のみ旨に対して定義をしてみましょう。私は、神様のみ旨とは『創造理想を完成すること』だと定義を下します。
 それでは『神様の創造理想を完成する』ということは何でしょうか。それは人間の理想を完成することです。言い換えればアダムとエバを中心として、全被造世界が神様のみ旨の前に一体となり、アダムとエバの理想を完成することです。統一教会の言葉を使って言うならば、神様のみ旨は四位基台を完成することです。」
(祝福家庭と理想天国Ⅰ P402)

 文先生は、
「神様のみ旨とは『創造理想を完成すること』だと定義を下します」
 と言われ、ここで「御旨」に対して、明確に定義しておられます。

「神様のみ旨」というとき、それは歴史の目的、創造目的が完成することです。それでは創造目的完成とは何でしょうか? 創造目的完成とは、み旨の実現であり、それは四位基台完成のことです。そして、その四位基台完成は、真の家庭を完成することです。 (ファミリー97年12月 P6 地上天国生活を始めよう)

 ここでは、
「創造理想を完成すること」→「四位基台完成」→「真の家庭を完成すること」
 というように、より具体的に、「御旨」とは、
「真の家庭を完成すること」
 と、説明しておられます。 
 ですから、もう一度確認すると、「神様の御旨」とは
「創造理想を完成すること」
「四位基台を完成すること」
「人間の理想を完成すること」
「創造目的を完成すること」

 そして
「真の家庭を完成すること」
 となります。

 次は、「摂理」についてです。

「今日の題目は、『摂理と今昔の私』です。この摂理とは、何でしょうか。神を中心としてつづられるすべての出来事をいうのです。あなた方は、『自分の摂理はうまく進んでいる』という言葉を使いますか。はたして私たち人間が、そのようにいうことができるでしょうか。『神の摂理はうまく進んでいる』という言葉ならば、納得がいきます。摂理とは常に神を中心としてつづられる歴史です。歴史や文化も神の摂理によるものであり、神の摂理による文化、神の摂理による歴史なのです。」  (み旨と世界 P805 摂理と今昔の私)

「摂理歴史とは、神様が万物を創造されたことも入りますが、人間創造以後の堕落を中心とした歴史のことを言うのです。」 (ファミリー93年8月 P4 統一教会「創立記念日」の御言)

「摂理」とは、神様がなされたこと、または、今後なされることに対して使われるべき言葉だと言っておられます。
 また、「神様が万物を創造されたことも入りますが」とありますから、神様が万物世界を創造し、エデンの園を造られ、そこにアダムとエバを誕生させたことも「摂理」です。さらに、堕落世界に、神様がメシアのための基盤や版図を造成し、メシアを地上に誕生させたことも「摂理」だということになります。
 それに対して、「御旨」は、「創造目的を完成すること」ですから、人間が責任分担を全うして個性を完成し、真の家庭を完成していくこととなります。また、それは、私達がメシアに出会い、新生し、理想家庭を完成させていくことと言ってもいいはずです。
 あえて、キーワードだけを言うならば、

   「摂理」‥‥神様
   「御旨」‥‥人間

 となるでしょう。また、原理講論の言葉を借りれば、

   「摂理は神の責任分担」(95%)
   「御旨は人間の責任分担」(5%)

 と言っていいかと思います。
 私たちは、この「御旨」と「摂理」に対し、特に区別してきませんでした。しかし、この2つの言葉に対し、文先生は明確に定義し、区別されています。だとしたら、それを区別している文先生ご自身が、その後の説教の中で、その区別を無視して様々な御言を語られたはずはありません。
 ところが、聞いている私たちの方が混同していたとすれば、そこには当然、文先生が言われたかったことと、私たちがイメージしたことの間に、本質的な違いが生じていた可能性は否めません。
 そこで最初に述べた内容、つまり
「すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。」 
「先生はいつも完全には教えてあげません。」

 という部分に改めて戻りたいと思います。文先生が「詳しく教えることができない」と言っておらたのは果たして何に関してなのでしょうか。大きく分けて、上で述べた
   「摂理は神の責任分担」(95%)
   「御旨は人間の責任分担」(5%)
 のうち、必然的に、人間の責任分担に関わる「み旨」についてということになるのではないでしょうか。
 アダムとエバが堕落するときに干渉できなかった神様は、ノアが箱舟をつくるときには事細かに指示されています。それは、アダムとエバの完成は「御旨」、ノアに箱舟を作らせたことは「摂理」だったからだと考えられます。
 そして、神様のこのようなお立場は、文先生においても同じだったと思われます。
 文先生が「摂理」を進めようとされたときは事細かに指示し、命令されましたが、「御旨」について語られたときは、その内容を詳しく教えることはできませんでした。組織の責任者を通して伝えられたのは、主に「摂理」に関する内容で、それは天の命令として伝えられましたが、「御旨」に関することは、たとえ責任者に対してであろうと、文先生は詳しくは教えることができなかったはずです。
 ですが、詳しく教えることができないにもかかわらず、教えずに済ますわけにはいかないような場合、文先生はどうされたのでしょうか。直接的な表現を避け、間接的な表現にとどめたということになるでしょう。核心的なところは語らず、周辺の言わばヒントになるようなことをたくさん語られたり、他のことや他の人物のことに置き換えて、比喩や例えとして話されたり、暗号的な用語を使われたりということです。直接教られて知ったのではなく、あくまでも私達が自ら悟ったという結論を残すのがその目的だったと言えるでしょう。聞いてすぐにわかってしまうような表現はできず、私達がそれに見合うだけの努力と引き換えに初めて悟ることができる内容にとどめておられたのだと思います。ですから、ただ読んだだけでは、あまりにもわかりにくい御言が多いのではないでしょうか。
 このような背景があるにもかかわらず、私たちは、天の重大事はすべて責任者を通してのみ伝えられると理解し、摂理的な命令のみに関心をもってきました。そして、それに従うことで救いや完成に関する自分達の将来のすべてのことをも委ねられると期待してきたように思います。それは、今も変わらない体質として私達に染み付いてしまっているのではないでしょうか。
 もちろん、人間の理想を完成するという「御旨」なしに、天地創造や摂理歴史といった「摂理」はありませんから、これらは完全に分けられるものではありません。ですが、どちらをより本質的なものとして見るべきかといえば「御旨」だということになると思います。ところが、私達は、その本質としっかり向き合ってこなかったのではないでしょうか。常に「摂理」が優先で、「御旨」は置き去りにされ、差し迫った「摂理」が頻繁に強調されてきた中で、「理想の個人・家庭を目指す」という「御旨」との間の葛藤は、解決されないまま取り残されてきました。
 ですが、もしかすると、それは文先生も同じだったのかもしれません。「摂理」の完成基盤なしに真の家庭の完成という「み旨」は始まりません。キリスト教基盤の喪失により、あまりに大きな負の遺産を背負ってスタートしなければならなかった文先生ご自身が、「摂理」を優先せざるをえず、最終的には「御旨」を後世に託さざるをえなかったのではないかと考えられます。それが全体として、「み旨」よりも「摂理」を優先した理由ではないかと考えられます。

「そこにおいてどこに万物があり、どこにイエス様がいますか、イエス様も成し遂げることができませんでした。それに対して再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。」(ファミリー 01年2月 P59)
 
 原理講論にも「み旨」、「摂理」という言葉はたくさん出てきますが、今回提示したような文先生の御言をもとにした定義付けはなされていません。ただし、文先生の定義に基づいた使い分けはされているようです。例えば、原理講論の「ノアの家庭を中心とする復帰摂理」の最初の所には、
「しかし、創造目的を完成させようとする神のみ旨は変更することができず、したがって絶対的なものとして予定し摂理なさるので、‥‥‥」(P302)
 と書かれています。同様の表現は「アブラハム家庭を中心とする復帰摂理」の最初の所にもあります(P315)。少なくとも、「み旨」と「摂理」が必ずしも同じ意味で使われているわけではないことは確認できると思います。
 以上が冒頭申し上げた、確認したいことの1つ目の「み旨と摂理」でした。次は、2つ目です。それは、今回すでに少し触れているのですが、御言の中に、なぜわかりにくい表現が多いのかということです。それについてもう少し明確にしていきたいと思います。
 長くなりましたので、次回にさせて頂きます。

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