1.原理講論は真理の一部分 | 御言 missing link

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 原理講論『創造原理』の最初の部分(P41)には、
「人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた」
 とあり、さらに
「人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである」
 と書かれています。そして、
「創造原理はこのような根本的な問題を広範囲にわたって扱っている」
 と言っています。
 そこで、私達食口は、
「原理がわかれば、全ての問題を解決することができる。そのためには、まず、全てに当てはまる普遍的な原理である『創造原理』を理解することが大切である」
 と考え、原理を学んできたのではないでしょうか。
 また、先回紹介したように、本体論テキストの大項目の2つ目は「統一原理を学ぶ理由」ですが、これは、原理講論の総序に対応する内容で、その中身は次のような小項目からなっています。

「統一原理を学ぶ理由」

一、統一原理を学ぶ理由
1.現実世界のすべての問題解決のために
2.真なる価値観確立のために
3.平和、統一世界実現のために
4.真なる私を知るために
5.諸問題を解決できない理由

二、人間
1.「私」とはどんな存在
2.堕落人間(1)
3.堕落人間(2)

三、宗教と科学
1.宗教
2.科学

四、原理出発の必然性
1.摂理の同時性から見て(心霊、知能発達)
2.聖書的に見て(聖書の根拠)

五、原理の使命
1.現実世界の問題を解決
2.真なる価値観の確立
3.平和、統一世界実現

六、統一原理の構造と中心内容の概観

「参考1」、「参考2」、「参考3」

 所々で「統一原理」の偉大さ、絶対性、重要性、そして必要性が強調されています。特に、「六、統一原理の構造と中心内容の概観」(P19)の最後には、「統一原理は統一教会の教理ではなく万民が知って生活すべき天道であり原理である」と記されていますし、「参考1」(P19)のところには、「原理の性格:絶対的啓示」と書かれています。
 そのことに対して全く異論はありません。ですが、私達にとって真理の絶対的中心であるこの統一原理は、実は、あくまでも真理の一部分であり、補足される必要性を残しているということに関して関心がもたれることはほとんどありませんでした。
 そのことについて、原理講論自体は、次のように説明しています。

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」(原理講論総序 P38)
 
 原理講論が最初に出版されたのは1966年です。ですから、上の記述の中の
「今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない」
 という内容は、1966年までの文先生の御言をまとめたものということになります。その後、聖和されるまで、あれほど膨大な御言が語られたにも関わらず、原理講論は上のような意味で書き換えられたり、補足されたりすることはほとんどありませんでした。したがって、後に語られた御言の中で、特に重要と言われるものでさえ、例えば「縦横の8段階」、「四大心情圏と三大王権」、「皇族圏」等の御言は、当然原理講論には反映されていません。
 では、文先生は原理講論に関して、どのように言っておられたのでしょうか。次のような御言があります。

「今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない。 (祝福家庭と理想天国Ⅱ P11)

 原理講論だけでは、
「これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない」
 とのことです。
「歴史路程において成された結果的記録」を学ぶことは、「いかにして蕩減すべきかということ」を知るために大切ですが、その「いかにして蕩減すべきかということ」は、原理講論に書かれていないというわけです。ということは、私たちがどうすればいいのかということについても、十分書かれているわけではないということになります。
 さらに、原理講論には間違っている部分があるという御言もあります。

「今までは、講義をしながら自分勝手にやってきたのです。それはいけません。原理のみ言を全部本を読みながら講義するのです。『原理講論』は劉協会長が書いたのではありません。1ページ1ページ鑑定を受けたのです。
 私が成したことに手を付けることはできません。ありとあらゆるものが、皆そろっているのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。
 (ファミリー 95年2月 P63 「真の父母の勝利圏を相続しよう〈神の日のみ言〉」)

 原理講論に対し、それを完全無欠な絶対的真理と盲目的に信じるのではなく、そこには不足なもの、間違っているところがあるということを知った上で、それを、文先生の説教集等の御言を学びながら、改めて自分の中で補足・修正し、普遍的な真理を、より正確により深く理解していく必要があると言えるのではないでしょうか。
 文先生の御言を学ぶことの重要性は、次のような御言からも確認することができます。

「皆さんは、先生が今まで50年間語ってきた説教を、毎日30ページから40ページ以上読まなければなりません。これは命令です。」 (ファミリー 92年4月 P51「 神の日と新しい国の統一」 1992年1月1日 世界宣教本部)

「それから、二百冊以上ある先生の説教集を学ばないと統一教会全般の内容が分からない。どうせ、死ぬ時までにはそれは読まなければならない。死ぬ前に呼んで行かないと、自分達の先祖達が、『この野郎、何をしてきたのか』と言って讒訴する。」 (祝福74号 P108 完成と解放(前篇) 1992年4月10日 ソウルオリンピックスタジアム)

後には、先生のみ言葉を中心にして全部探求して、解決するのです。ですから先生のみ言葉は全部みな重要なのです。‥‥‥全体が体制のなかに入っているというのです。伝統を尊重視しなければなりません。これを変更させれば全部天の逆族になるのです。先生のみ言葉はこうで私の話はこうだと言わなければなりません。」 (ファミリー94年9月 P41 伝統を尊重せよ 1994年6月20日 漢南洞)

「先生はいつも完全には教えてあげません。原理の本に対する内容の中に分からないことがあれば、先生がどこかに行って、一言話すのを聞いてみれば分かるはずです。先生が何の話しをしたのか、毎日のように人をおいて、ついて回らせながら報告を受けなければ分かりません。」 (ファミリー96年8月 P12 真のご父母様「聖婚記念日」の御言 1996年5月3日 イーストガーデン)

 これらをまとめれば、
「説教集等の文先生の御言を読むことを通して、統一教会全般の内容を知り、御言を中心にして全部探求して、解決する。また、原理講論の中のわかりにくいところも、文先生の御言によって解決することができる。」
 いうことになるでしょう。
 八大教材・教本を中心に、説教集等の文先生の御言に関心をもち、それを研究し、それを中心として解決していくことが大切だということは、誰も否定できないこと、議論の余地のないことだと思います。それを、原理講論にそってすすめていくことにより、文先生が強調されていた『原理本体論』に近づいていけるのではないかと考えています。

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