実のところ、あたし、
今年はなんだかずーっとドタバタしているので、
「12月は忙しい 」みたいな特別感がちょっと薄めであります。
今年の花園を振り返ってみると、
更新頻度はたいそう少なめでしたが、
書かれているのは「お父ちゃん」関連の話が殆どだったとも言えますな。
これじゃ「お父ちゃんブログ」だ。(笑)
それ以外のことだってもちろん色々あったのですけれども。
あたしね、毎年大晦日の晩になると、
その年の自分の十大ニュースをノートに書き留めておく、なんてことをしています。
絶対人には見せないけどねー。
誰それと恋に落ちたとか、
誰それとの恋に破れたとか、
がトップに来ることもあるし、
こんな舞台に立ったとか、
こんな仕事をしたとか、
新しい仲間が出来たとか、
あるいは自分のことじゃなくても
友人に衝撃的事件が起こったとか、
そういうこともランクインします。
ここには嬉しいことも悲しいことも
混ぜこぜに、並んでます。
大晦日のときだけ、ひとりで読み返したりして、ニヤニヤするんです。
で、まあ、2014年のあたしのトップニュースと言えばやっぱり、
どうしたって、お父ちゃん、なのだろうなと思います。
先月頭に父の納骨を終えてからは、
出来れば今年のうちにある程度のことは整頓しておきたいので、
時間が出来れば実家に帰って、
遺品を整理したり、
あれやこれやの書類を書いたり、
手続きしたりをして過ごしてます。
作業していくうちに、
これまで知らなかったことも、
色々知りました。
人が死ぬと、
いっぱいハンコ押さなきゃならない書類があるんだなあとか、
戒名って高いんだなあ、とか、
岡野家の先祖って、ちょっとオカシナ人多いんだなあ、とか、
その中でうちのお父ちゃんは、随分真面目に生きてきた方の人なのかもしれないなあ、とかね。
お母ちゃんの部屋がモノで溢れかえっているのとは間逆で、
お父ちゃんの部屋はサッパリしたもので、
晩年認知症が進んできたころのモノは少々散らかってはいても、
着なくなった服は殆ど自分で処分してあってクローゼットの中もよく整理されていたし、書類やなんかもきちんと輪ゴムで留めて分類されており、
いまのところいかがわしきものは、一個も発見されてません。(笑)
父の部屋の押し入れを一旦空っぽにして、
古いアルバムや時計やノートや子どもの頃のおもちゃや、
父が僅かに遺してあった思い出の品を並べて、
プチ記念館にしてみました。
入場は無料。
もしかして結構イケてたのではなかろうか、
とこれを眺めながらしばし妄想。
書庫には膨大な本が詰め込まれているのでまだ手をつけてませんが、
父はコトバを使う職業だったこともあり、辞書を沢山持っております。
特に「広辞苑」と「大辞林」は改訂される度に買って揃えておりまして、彼の部屋の本棚に第1版からズラリと並んでます。
ていうか飾ってある、という感じか。
あたしは小さいころ、この大きな本を時々押し花押すのに使ってましたよ。
お父ちゃん、退職後も、変化する日本語についてを、勉強していたようです。
大学ノートに何冊も渡って、
日本語に関わる記述がびっしり。
あと、まだわりと新品の、マルクスの『資本論』が全巻、机の下の箱に入ってました。全巻いっぺんに注文したと思われる。
そういえば、「資本論」の勉強会みたいなのにも出てたなあ。
晩年は本を読むのも大分億劫になってたので、多分「資本論」は読み切らないうちに逝ったのだろうと、栞の位置で知りました。
これ、あたしは形見分けにもらうことにしました。彼らの時代の人たちが熱狂したマルクスの思想、あたしもこれから少しずつ読んでみようかな、なんて。
靴箱にはたった3足の靴。
大事に使ってたカバンは3つ。
そのうちの、
カルバンクラインの小さな鞄を、
これも形見にもらいました。
中に2014年、今年の手帳が入ってました。
何十年か分の、これと同じ黒い皮の手帳が
父のベッドの下の引き出しに綺麗に並んでいたので、
それはプチ記念館に収納してあります。
2014年の手帳を開くと、
あの、今年5月頭の緊急入院直前まで、
父が何をしてたのかが、
父の字で書かれてました。
父はレビー小体型認知症で、字がうまく書けなくなってきていたので、
なんともたどたどしい文字ですが、
それはやっぱり、ちょっと丸っこくて愛嬌のある、父の字でした。
自分の毎日をなんとか忘れないように、
メモってたのかもしれません。
これを見てあたしは、
多分父が亡くなってから初めて、
父のことを思って泣きました。
いつまでもいつまでもひとりで泣きました。
あたしはお父ちゃんのことを、
随分知らないでいたんだなあと、
思いました。
父が亡くなって少し後に、
あたしとひとつしか歳の違わない古い友人が逝きました。
若くて多感な時代を、
共に濃密に過ごした友人がいなくなってしまったことは、
父を亡くしたこととは全く別の意味で、
痛烈な経験でした。
父の遺品を片付けるのと一緒に、
実家に置いたままにしてある自分の古い荷物も片付けたりしているうちに、
亡くなったその友人との思い出の品も、次々出てきて、
その度に、彼やその仲間たちとの思い出が、とてもとても鮮明に蘇ってくることにびっくりします。
そして、それがひとつずつ、もう更新のない「思い出」として自分の身体に凍結されてゆく痛みも感じます。
そうやって
整理しては散らかして、
散らかしてはまた整理して、
あたしは時々、空を見ます。
生きていれば
誰でもみんな、誰かを失うという経験をするのだということが、励みになることもあれば、
人と死別するというのはそれぞれの個別の経験として、
どうしても他者とは分かち合えないところもあるものなんだと、感じることもあります。
誰かを見送って、
葬儀のマナーや段取りや
その後の雑多な手続きの方法やなんかを知る経験にはなっても、
だからといって、
これからまた必ずやってくるだろう大切な人との別れのときに、その喪失感をひょいとスルーできるようになるわけではないのだということも思います。
それでも今、身を持ってはっきり思うようになったのは、
死は、生の対極にあるのではなく、
この生のうちにいつも潜んでいるものなんだということです。
父が死んでからの方が、生きていたときよりも、父のことを強く思います。
友人が亡くなってから、何かにつけ、彼ならこんなとき何て言うだろうと、想像します。
これまでに亡くなってしまった人たちのことも、改めて考えます。
顔も知らない、膨大な数の先に逝った人たちのことにまで思いが拡がってしまって、茫漠とした気持ちになることすらあります。
そんな、死のことばっかり考えてたら暗い気持ちになっちゃってやっていけないんじゃないかというと、あたし、そんなこともないようです。
むしろ、この生の中に死が含まれているという感覚は、あたしを強くしてくれると言ってもいい。
幸いなことに、
あたしの周りには、
強くて優しい人がいっぱいいます。
生前の父はそのことを具体的には知らなかったかもしれないけど、
今は全部知ってると思います。
あたしがズルしたり、
嘘をついたりしても、
お父ちゃんには全部バレていると思います。
あたしは、そのことが嬉しいんです。
まあとにかく、
この2014年は、あたしにとって、
なかなか凄い年であります。
まだいくつかやり残してることもあります。
なのでまだ、今年もよろしくお願いしますよ。