「天理教」は宗教か、真実の教えか -8ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

『おふでさき』第6号の続きです。  

 

どのよふな事でも神のする事や       (6-22)

    これをやまいとさらにをもうな

 

<今の悟り>

 世界で現れていること、今自分に起きていること、すべては神様が守護されている世界で起きていることです。戦争だ、病気だ、と人間に不都合なことが実際に起きています。

 小さなことで、自分にも尿管結石で仕込みが続きます。

 11月にはいり、1年間の掃除の決算がきて、今、仕込まれています。病ではない、神様からのお仕込みです。大難は小難にしてもらっています。 ありがとうございます。

 

 なにもかもしんぢつ神のぢふよふを     (6-23)

    しらしたいからしてみせるでな

 

<今の悟り>

 どんなことが起きるのも、真実の神の自由用を知らせたい、そのために見せている。

 信仰心がないと、人間は現象に振り回されるだけです。形の奥にある、大きな神様の思惑が厳然としてあることを知らせているのです。  

 

 これまでハいかなるみちをとふりても    (6-24)

    ひがきたらんでいづみいたなり

 

<今の悟り>

 天保9年以前まで、教祖(おやさま)が月日の社(つきひのやしろ)となるまでは、いろいろな宗教や信条、拝み、祈祷の世界がありました。神社が寺院があり、僧侶や神職をつかさどるひとたち、また占い師、シャーマンもいました。 

 その中で、人々は精神的に行き詰っていました。運命や天命に翻弄されていました。

 しかし、天保9年という神が見定めて時期がついに来たのでした。それ以前とそれ以降で人間や世界の運命が全く変わるターニング・ポイントが天保9年だったのです。

 

 このさきハどのよな事もたん/\と     (6-25)

    ほんしんぢつをゆうてきかする

 

 天保9年以降は、教祖を通じて、永遠に神が話をする道が開かれたのです。段々と明かすのです。本真実とは、絶対の真理、究極の真理という意味です。  教祖の口を通じて、真理が明かされる道が始まったことを意味していています。  

 

 その神様の思惑が知らないと、絶対的安心の道に至れず、形の世界に右往左往するばかりです。腹を決めて、神様が守護されている世界だという信心を固めないといけないのです。

 

 人間が主体的に、生きていることを感謝報恩の道で過ごす心の道の作りかたを神様が教えております。 今さえよければ、我さえよければの心が悪しき心であり、これが掃除の対象です。

 誰にでもある汚れた心を掃除して、神様の守護をもっと大きく、深く受け取りたいと思います。  

  合掌  

 

 

元一日にゆかりのある大祭の10月26日が快晴のもと、お地場で無事に実施されたようです。遠くから、お地場を拝して、昨日もおつとめをさせてもらいました。

 

 みかぐら歌に、

 「病むほどつらいことハない わしもこれからひのきしん」とあります。

 

 人間にとって、病気をして身体が不自由になるほど、辛いことはないでしょうと。そうした人間に不自由なことがあり、人間の悩みや苦労の原因であることを神様は良く知っています。  

 最先端の医療が発達し、多くの医療従事者たちが働いています。

 

 看護師からスピリチュアルライフコーチ ・ヒーラー となられた方のブログ(使命発見☆3ヶ月で現実が変わる!アラフィフ女性のための魔法の癒しとコーチング (ameblo.jp))を読んで、自己肯定感の低かった人生からポジティブに変容され、魂の救済活動もされている方の体験談に関心しました。インドのサイババを信奉されているようでした。

 

 病気の原因、病の受け止め方はいかにあるべきか? 医者は身体的な側面については専門的に直していただきます。看護師さんも献身的に寄り添って、助けてくれます。

 

 私自身の個人的な事情として、25日の朝から左わき腹に差し込む痛みがあり、腰を寝違えたかと思っていのですが、分かりました。尿路結石。 

 昨年はもっと深刻で、妻に明け方近くに、緊急外来に運送してもらったほどです。 

 

 27日の今朝は、背中側にも痛みが移り、休講届を出す。朝から麦茶を飲み飲み、結石が流れることを待つばかりです。

 

 身体的異変からいかなる神意を悟るのか、ここに信仰者として試されています。

 

「大難は小難に」 

 

 本当だったら、もっとしんどいところを、軽く見せてもらっています。

 

 それが大難は小難の教えだと思います。  

 

 コロナ禍は世界の掃除ですが、個人の身体は己の悪理の掃除の一環です。掃除するのは、自分にしかできません。  

 

 魂の錬磨、魂を磨くために、見せられた痛みです。  

 

ありがとうございます。

 

ありがとうございます。 

 

ありがとうございます。

 

ひのきしん=神恩報謝の活動、神様の想いに立て替えて、実行・実践すること。

 

軽い悟りです、感謝の気持ちで過ごしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

『おふでさき』は教祖の直筆本があり、その筆跡に近い形態での公刊本が昭和11年に出された。この貴重な資料はデジタル化されている 

  『おふでさき』の各号の表紙は、秀司様か、山澤良次郎が書いたとされている。表紙そのものが本刊行本には掲載されているのが出色である。

 

  また本文は当時の仮名文字であり、令和の今では読みにくいが、時代を感じさせるものがある。

 何百年、何千年たっても、最初に書かれた神の言葉の直筆本として、繰り返し研究されることだろう。 

 原本は中山家の蔵の中にあるらしい。

 その原本の一部を写真にしたものは、『ムック天理教』などで公開されたことがある。

 これは『おふでさき』第5号の写真である。 「第5号 七十七才老女 明治七年八月」

と書かれている。 教祖のことを「老女」と表現していることに、なんとなく人間臭いものを感じるが、これは教祖の長男の秀司さんにとっては、そのような存在であったのだろう。

 

<第5号の解釈>

 

いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど

あとさきしれた事ハあるまい   (5-1

 

このたびハさきなる事を此よから

しらしてをくでみにさハりみよ  (5-2

 

このよふハいかほどハがみをもふても

神のりいふくこれハかなハん   (5-3

 

 5号ー1は「今までは牛馬とゆうはままあれど 後先知れた事はあるまい」というものであり、下手をするを大変差別な意味で解釈されるので要注意である。これは人間心が強いと、牛や馬などの来生は落ちていくことをご注意、宣告されているという怖い解釈もある。

 元の理の宇宙の創成神話・起原神話からは、動物を経て生まれ変わりをくりかえして、やがて人間になってきたといわれる。その人間が、牛や馬という人間に役立っている動物に戻っていくことがあるのだろうか。 

 生まれ変わりは天理教の教えの根幹を占める話であるが、来生に動物となるのかは人間には分からないことである。同じ人間として生まれ変わるはずであるが、前世での積み残しの罪や功績をすべてもって、次の世に縁のあるところに生まれかわる。そうした人間の魂の支配は神様の権能の中にあり、人間には支配できないことである。「前世がどこにいて、来世はどこに生まれるか、それは人間には分からないだろう」これが下の句での真理の開示である。

 信仰的には、しっかり信仰していないと、また元の神様とのご縁の中には生まれ変わってこないという意味を悟っていかねばならない。

 死んでも、来生にまた神様とのご縁があることを安心して期待して出直すことに信仰の希望がある。

 

 5号ー2は、自分の身体に起きていることから、未来への注意が神様から人間に呼びかけられているということが書かれている。今までの古い人間心のままでいると、この先は危ない。そこで神様が身体的にご注意を与えます。そこで悟って、誤りのないような心使いに改心していかないといけない。この世とは、此処からという意味だそうです。 

 

 5号-3は、人間がわが身思案ばかりしていることへの注意です。わがまま勝手な人間心ではだめだと。もっと他人のことを考え、未来将来のことをもっと考える人間に成人してほしいのである。「わが身をおもうても」ということは人間は神様を知らないとしてしまう心使いです。プーチンはロシアの愛国主義から、自国中心的思想から抜けることができません。自分さえ、我が国さえ、我が会社さえという狭い料簡ではだめですよと。  

 もちろん神様が立腹されるとか、神が怒るということはたとえであり、そのようなことは無いのです。ただ私利私欲の続かないこと、神様も好きではない心使いであることが説かれています。他人を思う、人を思う愛のある人間に、優しい世の中になっていくのが神様の望みです。

 

 

 

 

 

 

昨日の投稿に続いて『おふでさき』第5号から神意を現代的に悟る作業を継続します。

 

教祖(おやさま)の御真筆の写真は以下。兵神大教会史料編纂部編(昭和3年)より

 

せかいぢうをふくの人てあるからに     (5-75)

    これすまするがむつかしい事

 

いかほどにむつかし事とゆうたとて     (5-76)

    わが心よりしんちつをみよ

 

 75番は、「世界中には多くの人がいるから、すべての人が心を澄ますことは難しい」ということが語られています。 

 人間には自由な心があるので、戦争もあれば、人をだますなど、いろいろな人間心が自由に勝手に使えます。 

 ましてや特定の信心を人に伝えて、他人の心を澄ますことは直ちにできません。全人類の心を澄ますというのは、世界の恒久平和を求めるカント的な理想として、神様でも困難だとのお話です。

 何か神様でも力が無いなという印象ですが、それは人間が考える神様の力であって、人間思案を超えて、神様は全世界と全人類を支配され、守護されているのです。 

 神様はじっと一人一人の心を見守って、人類の未来をすべて知っているのです。

 

 一人一人の心の中は、親子や兄弟でも分かりません。しかし、神様は知っているのです。一人一人の人間を心通りに守護されていますから。世界のどこのどんな人でも性別や年齢や国籍に関わらず、全人類の心を一様に受け取っていて、直ちに守護をされています。

 

 人間の心は自由であり、自由の中から、真実を求める心、真理を求めるやむにやまれぬ内面の要求が私たちの中にあります。

 それが、まさに76番の「我が心より真実を見よ」というフレーズだと思われます。世の中が変な方向に行っている、教団の教えが何か偏向しているとしても、一人一人の心はどこまでも自由であり、魂の渇き、真実を求める心は誰にでもあります。

 

 それは魂の要求であり、真実を求める心です。人に布教するとか、においがけ(布教)・お助けだと号令がかかります。

 

 しかし、無理に運ぶまえに、まず己自身の心を澄まして、神様の思惑を求めて、根を掘る模様(5号64)をしないといけないのです。これは主体性の問題であり、感受性の問題です。他人は関係なく、己と神様との一対一の根源的繋がりの中でのストーリーです。  

 

 明治7年(1874年)5月に説かれた『おふでさき』5号の一節ですが、今でも十分にその真理を受け取ることが出来ます。  

 

この心すむしわかりた事ならば       (5-77)

    そのまゝみゑる事であるなり

 

 自ら神様を求める真実の心があり、我が心が澄んできて、神様のご守護やその深い思惑が分かってくれば、なるほど今生起していることは、本当に神様がされてることだな、素晴らしいなと納得がいくのです。

 

 貸しもの借り物の世界であり、人間は生かされいる存在だということが根本的に理解できないと、不足することばかりです。   

 

 人間は現象の世界に振り回されがちですが、その奥にある神様の思惑がわかれば、何の心配も杞憂も不安もいらないのです。安心で安全に人間は守られていることが分かってくるのです。 

 

 神様の絶大な守護もわからず、ウカウカで来た人間心の累積に末に、コロナ禍の仕込みがありました。今それもようやく終焉へ、実りの秋の時節となりました。 

 

 これからまたどんなことが起きるか分かりませんが、その時に驚かないように、心をつくって行きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

horeken様の純粋な信仰心を求めるお心に答えして、以下の存命の教祖の思惑とは何かを一緒に思案したいと思います。

 これは私の8月10日の投稿(以下のサイト)へのhoreken様のコメントにお答えするものです。

 

 

 純粋に理を求めるお方の気持ちが2度のコメントから感じられました。本当に有難うございます。

 

 「つづくお言葉」という概念は、今の天理教の体制にはもちろんありませんが、このブログは、「つづくお言葉」という視点から、すなわち純粋に理を求める立場から書かせてもらっています。

 

 『みかぐら歌』、『おふでさき』、『おさしづ』の3原典で、教理はすべて説きつくされている。人間は成人したのだから、もう神様は何も御話はされない。これが現在のご本部の公式見解でしょう。とくに『おさしづ』は難解で、どこの教会でも埃をかぶって、書棚の奥に安置されているだけでしょう。

 

 それで、本当の私たちは成人したのでしょうか。世界情勢は全く激変し、当時の信徒さんたちが受け取った解釈を今時に理解しても、十分な解釈はできておらず、あたりさわりのない無責任な神様のお話がされているようです。

 つづくお言葉とは、別におつとめも否定しませんし、お地場の大切さも否定せず、以前に下された神様の思惑をさらに深く説くというものです。それが存命の理の本当の意味です。教祖は明治20年正月26日に御身を隠されても、ご本席を通じて存命同様に働かれました。ご本席亡きあとの茨木事件もその真相をやがて明かしたいと思いますが・・理は継承され続けた秘史がありす。  

 

 ここに肉体的、歴史的な教祖から、普遍的で永遠の教祖という質的転換が起きたのです。教祖の説かれたとこと(おふでさき)は、それゆえに、今でも永遠につづく真理が説かれていると思います。これは拙ブログの信仰告白です。  

 

 『おふでさき』第5号もいろいろに解釈されていますが、最新の説かれ方からは以下のように悟りたいと思います。

 

 

いまゝでハ神があらハれでたるとて     (5-46)

    まだしんぢつをしりたものなし

 

 このさきハどのよな事もしんじつを     (5-47)

    をしへてをいた事であるなら

 

 5号46の今とは何時でしょうか。天保9年から明治7年までが今までであると狭く解釈もできるでしょう。しかし、この今は、2022年10月8日の今でもあります。いかな宗教や信条、価値観が世界にはあります。コロナ禍の中、ロシアは核戦争を起こすかもしれという大変不穏のな時代です。だれも神様を知りません、しかし、神様は教祖を通じて永遠に顕現されているのです。本席様を通じて、その後も、歴代の機械といわれる人間を利用して、今でも存命の理は生きています。本部から流れるべき理が途絶したので、神様は別間の理を立てたのです。それゆえに、理を求める純粋な心に対して、純粋な理が下されねばならないのです。 真柱が天理教の頂点におられますが、真柱を超える神様という概念が難問として、今の教団にあります。   

 

 5号47は、存命の理の永遠性をまさに明かしています。 人間は知らないことばかりです。それゆえに、horoken様のように理を求める方も大勢おられます。この先とは、未来永劫という意味です。どのよな事とはすべて、あらゆることです。そのすべての真実や真理を教えるのが神様であり、存命の教祖だということです。 神様は世界助けを急がれていて、そのためには神様の教えにふれた個々の人間の魂の成人が不可欠です。

 

(つづく)

 

 

 

前回の続きが遅くなりました。 明治40年6月9日午前9時の本席様の最後のおさしづを改めて引用します。

 

明治四十年六月九日(陰暦四月二十九日)午前九時

 

 昨日分支教會長普請の事に付會議を開き、本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから、部下教會長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしも働かさして頂き、毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました、と御返事申し上ぐ

 

「一寸一言々々、どういう事聞かすなら、これまで初まりからだん/\年限追うてある。この道、皆思案してみよ。一寸も違わんで。十分の道與えたる。もう一仕切りの處辛抱大抵々々。それ/\の者これでならと思う處、理治まったる。二十年の間の事思うて見よ。今度假家普請と言うて、それだけのあたえは十分に與えたる。こんな事は軽い事やで。何も心の心配は一つも要らん。心の理治まったれば、案じる事要らん。どうでも出来るという事、これだけ皆に聞かし置こう。これでなけりゃいかん、これでなけにゃならん。二十年の間ほんの聞いただけにて、目に見ゆる事無しに来た。二十年の間言うて置いたる事出て来たる。道の者皆知って居るやろう。これだけ一寸知らし置こう/\。皆々惣々思案無くばならん。皆々力無くばならん。この理しっかり傳えて置こう。」


  教長より有り難う御座ります、と申し上げになる(しばらくして)

 「もう十分の満足をして居る。席は満足をして居る/\。又今一時席の身上の處差し迫り、どうであろうこうであろうと、困難の中で皆心を合わせ、もう一度十年何でも彼でもというはなか/\の精神。その精神というは、神の自由受け取りたる精神。何も皆、身上は成っても成らいでも案じてくれる事要らん。篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれ/\。」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<神意の解釈>

 前回は割書きに、人間側の考え方が書かれてあることを書いた。それに対する神意は上記の内容でした。 まず冒頭から見てみましょう。

 

 「一寸一言々々、どういう事聞かすなら、これまで初まりからだん/\年限追うてある。」

 

 人間側の勇ましい悲壮な決意に対して、神様は何ともお答えになさらず、神意が全く別のところにあることを明かしている。天保9年からだけではなく、この世の始まりから、すべて神様が年限を追って、すべて守護して支配してきたぞと言われる。人間側が苦労して、無理くりに借金をして北礼拝殿の普請をしますという決意、心定めに対して、神様はじつは喜んでないのである。

 人間側は形の普請をする決意をさだめ、あらゆる教会が無理な借金を抱えることになる。そうした先人たちの苦労で、北礼拝殿の普請が最終的には完成したのであった。信仰心の目標として神殿普請は分かりやすい。しかし形の普請そのものが目的化してしまい、肝心の心の普請が忘却されてしまった。ここに大きな問題の種が宿っており、これは今の天理教の教団の維持困難性の大遠因ともなっている。

 

 二ツ ふしぎなつとめばしょハ たれにたのみはかけねども (みかぐら歌二ツ)

 

 天理教の歴史は、飯降伊蔵によるつとめ場所の普請に始まり、甘露台をかこむ礼拝殿の拡大、親里の神苑の拡大として天理の宗教的施設の景観を形成してきた。その中で、三島神社の移転(鏡池の消滅)、飯降家邸宅の移転なども平成時代にあった。

 

 信仰の喜びから進んで、神恩報謝の証として、喜捨してのつとめ場所が大きくなることが、望まれる。神様は無理な普請は最初から求めていない。  

 

 汚れた人間心を立て替えて、澄み切った心に、地場における神殿の普請という偉業、資金集めのための救済も生まれてくるということが、おさしづの大きな主旨である。  

 

 形や外面の体裁を追い求めて、魂の成人の遅れに今の天理教の悲哀があると思われます。

 本席、飯降伊蔵さんによる最後の啓示は『100日さしづ』と呼ばれる。その連続した啓示は、この道の真理とは何か、この道が教祖(おやさま)から始まって70年たったその意味の総括を語り、そして今後10年間の展望を与えたものである。世界救済の真理を教祖が説き始めて50年、さらにその天啓は本席様によって継承されて20年たったのが明治40年であった。

 当時の天理教の隆盛は政府の弾圧にも表れほど、勢いがあった。その頂点にあって、本席様の啓示の指導で、教団体制は組織化されて、道が広がってきた。そして、翌年の明治41年には、ついに念願の一派独立も天理教として果たした。

 『100日さしづ』の最後の啓示は、明治40年6月9日であった。その日、本席様は昇天されるのだが、その直前のお詞であった。

 割書きには当時の事情や、人間側からのお願いごとや決意が書かれていて、人と神とがいかにコミュニケーションをしたのが分かる。

 

 最後の啓示の割書きをまず、以下引用しよう。

 

 明治四十年六月九日(陰暦四月二十九日)午前九時

 
 昨日分支教會長普請の事に付會議を開き、本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから、部下教會長一同わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き、毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事に決め申しました、と御返事申し上ぐ

 

 <解説>

 当時の教会は、分教会、支教会といわれた。普請(神殿の建設、とくに北礼拝殿)について、教会長たちをあつめて、会議をした。本席様は危篤状態が続いている中で、啓示が続いていた。何とか助かっていただきたいと教会長たちは決意を表明する。

 

 「本席の御身上も普請の上から御苦しみ下さる事でありますから」とあるが、この割書きから、本席様の身体的苦しみの原因は普請のためであると書かれている。これは当時の本部員たちが大変な悟り違いをしていることが読み取れる。

 神殿普請をするための資金繰りができないことで本席様が苦しまれていると誤解している。神様はお金のことよりも、本部員たちの心の成人のあり方にご注意されているのである。

 魂の進化の遅れが、身上や事情となって表れて、人間に警告を与えるのである。形を何とかしようとする前に、心の成人そのもののあり方が問われている。

 

「わらじの紐を解かず一身を粉にしても働かさして頂き」ますと。 悲壮な決意である。そして、会計的にも火の車であるにもかかわらず、「毎月少しずつでも集まりたるだけ本部へ納めさして頂く事」と金策に取り組むことも併せて決意した。

 

 本部の神殿普請には多額のお金がかかる。無理な献金をノルマで信徒に進めたら、どこかの宗教教団と同じことになる。 これに対して神様は何と答えたのだろうか?

 

 (つづく)

『おふできさき』第4号の最後のお歌に、

 

「これからハ よろづの事はみなとくで 心ちがいのないよふにせよ」(第4号134)

 

 この中で、下の句の「心ちがいのないようにせよ」という文句は、明治15年4月に教祖が松村栄治郎さん(妻の”おさく”さんの妹のまつゑさんは秀司さんと結婚し、中山家と縁戚になる。)に与えた、以下のお歌の中に似た表現があり、再度引用したい。なお『おふでさき』も明治15年で執筆が終わっているが、この歌は、おふでさき号外の一種のようである。

 

 

 

「このよふは、もんじゅ、ふげんをはじめとし めうなりうじん、てんじんも

  なんがく、てんだい、ようめいも  みなこれじよどへ、ごしたまふ、

 ゆわんや、われらはおろかなる いかにねがわにありぬべし

  三千世界をおいてぞ たしかに、しようじしようみさだめて

 こころちがいの、なきやうにせよ」 

 

 「この世は文殊普賢を始とし、馬鳴、龍樹、天親も、

   南岳、天台、四明も 皆これ浄土に期し給ふ。

  況んや我らは愚かなる、如何に願はぬ ありぬべき。

   三千世界をおいてぞ、たしかに清浄見定めて、心得違いのなきやうにせよ。」

 

 大乗仏教の著名な歴代の哲学思想家の系譜があり、これらは神様から見れば、裏守護としして人類に与えられた思想としてはあった。しかし、天保9年以降は、この世を創造し守護してこられた元の神、実の神が教祖を通じて初めて顕現した。 

 

 それゆえに、「心違いのないようにせよ」ということが問われている。人間の心のあり方で、運命も人生も変わってしまう。今までの因縁の通りに心を使っていたら、もっと危ない方向へ行ってしまう。まず、道の聞いた者が、真に心を入れ替えて、肉体貸しもの・借り物であること、神様の守護に目覚めることが促されている。本日も大きな御守護で生かされています。ありがとうございます。

 

 龍樹などの大乗仏教の哲学者が何を説かれたのか、それは、別の研究課題としたい。

 

 平成時代における存命の教祖のお詞がある少女から下され、12度目の啓示は、前回の11回目の10分後でした。前回のものは、「二十四時間をやがはたらいている」というてテーマでした。それが分かったうえで、人間は絶対的に安心の世界に生きていることを伝えているのが、今回のご啓示です。

 

平成二年十二月二十三日午前二時十分

    今日 起こったこと

      前から わかっておったか

      わかっていやしょうまい

      わからんこと

      先から 考えていても

      どうしようもないのや

      なるようになる

      何にも 案じることなく

                                   
      日々通ってくれたら

      そら何も 不都合なことないであろ

      案じることいらんというは

      をやを信じる心

      誠の心のこと 言うておるのや
                         〇〇 拝す合掌

 

 <理の思案>

 私たちは形の世界に生きているので、その行方に一喜一憂してなかなか精神の安定が図れないのが通常の状態です。そのためむごい心をつかったり、人をだましたりと、もろもろの人間心を使ってしまいます。

 そこに神様が現れ、詞(ことば)を下さいました。 有形世界はすべて神様が、人類の親なる神様がすべて動かし、支配しているのです。

 24時間、永遠というタイムスバンの中で、永遠の神のもとに、人間は生かされているのです

 

 日々に何が起こるか分かりません。大谷さんがホームラン30号打った。稲盛和夫さんが亡くなった。ゴルビーが90歳で昇天された。戦争が半年も続いた。原子力政策が転換する。安部さんが狙撃されて亡くなる。その背後で、特定の宗教団体と政治家との関係が浮き彫りになる。・・・

 長江の水が干上がる、イギリスのテムズ川で水がなくなる。ロシアの永久凍土が失われる。世界の天候、環境問題は待ったなしです。

 地球の環境問題や格差の広がりを考えると心配なことばかりが心を占めてしまいます。

 

 異常気象に対して人間は何もできないのか? そこで温暖化を阻止するために様々な人為的な営みが行われていて、それが加速されねばなりません。

 科学者でも為政者でもないなら、そうなるように陰で祈るしかありません。

 

 人間は今起きていることを素直に受け止めるしかありません。神様が形の守護としてそれを見せているのです。「なるようになる」とは道教的に無為自然に生きるような諦念でもなく、ポジティブにそれとして受け取りなさいということでしょう。 

 

 どんなことが起きても、自分にいかに不利なことが起きても、またこれからどんなことが起きるかと先案じして不安に思っても、それはみな無駄な心使いであると。

 

 自分が生活するなかで、生きていく中で、喜べないこと、満足できないことが起きて来た時に、どのように受け止めるべきでしょうか?

 

 「なるようになる」とは神様も無責任なことを言っているようです。しかし、人間は根源的には何もできないのです。

 ウクライナへの戦争も決して続かない時が来るはずです。  

 

 神様が24時間ものごとを支配し、形の世界をすべて支配しています。

 人間は、その上にのって、すべてを喜んで受け取って、不安も不満もなく生きて欲しい。

 

 そうした神様の働きを信じるこころが誠の心。

 しっかり、誠の心を使っているか、反省して、本日の思案とします。

 

(つづく)

 

 

 以前に書いたものを補筆しました。 一番読まれているブログ記事です。

 

 真柱の権威の源泉である、「おさづけを渡す役割」がいつから、そうなったのかの歴史的背景にも、実は触れてあります。

 

 旧統一教会への批判にも関連して、補筆しました。