『おふでさき』は教祖の直筆本があり、その筆跡に近い形態での公刊本が昭和11年に出された。この貴重な資料はデジタル化されている
『おふでさき』の各号の表紙は、秀司様か、山澤良次郎が書いたとされている。表紙そのものが本刊行本には掲載されているのが出色である。
また本文は当時の仮名文字であり、令和の今では読みにくいが、時代を感じさせるものがある。
何百年、何千年たっても、最初に書かれた神の言葉の直筆本として、繰り返し研究されることだろう。
原本は中山家の蔵の中にあるらしい。
その原本の一部を写真にしたものは、『ムック天理教』などで公開されたことがある。
これは『おふでさき』第5号の写真である。 「第5号 七十七才老女 明治七年八月」
と書かれている。 教祖のことを「老女」と表現していることに、なんとなく人間臭いものを感じるが、これは教祖の長男の秀司さんにとっては、そのような存在であったのだろう。
<第5号の解釈>
いまゝでハぎうばとゆうハまゝあれど
あとさきしれた事ハあるまい (5-1)
このたびハさきなる事を此よから
しらしてをくでみにさハりみよ (5-2)
このよふハいかほどハがみをもふても
神のりいふくこれハかなハん (5-3)
5号ー1は「今までは牛馬とゆうはままあれど 後先知れた事はあるまい」というものであり、下手をするを大変差別な意味で解釈されるので要注意である。これは人間心が強いと、牛や馬などの来生は落ちていくことをご注意、宣告されているという怖い解釈もある。
元の理の宇宙の創成神話・起原神話からは、動物を経て生まれ変わりをくりかえして、やがて人間になってきたといわれる。その人間が、牛や馬という人間に役立っている動物に戻っていくことがあるのだろうか。
生まれ変わりは天理教の教えの根幹を占める話であるが、来生に動物となるのかは人間には分からないことである。同じ人間として生まれ変わるはずであるが、前世での積み残しの罪や功績をすべてもって、次の世に縁のあるところに生まれかわる。そうした人間の魂の支配は神様の権能の中にあり、人間には支配できないことである。「前世がどこにいて、来世はどこに生まれるか、それは人間には分からないだろう」これが下の句での真理の開示である。
信仰的には、しっかり信仰していないと、また元の神様とのご縁の中には生まれ変わってこないという意味を悟っていかねばならない。
死んでも、来生にまた神様とのご縁があることを安心して期待して出直すことに信仰の希望がある。
5号ー2は、自分の身体に起きていることから、未来への注意が神様から人間に呼びかけられているということが書かれている。今までの古い人間心のままでいると、この先は危ない。そこで神様が身体的にご注意を与えます。そこで悟って、誤りのないような心使いに改心していかないといけない。この世とは、此処からという意味だそうです。
5号-3は、人間がわが身思案ばかりしていることへの注意です。わがまま勝手な人間心ではだめだと。もっと他人のことを考え、未来将来のことをもっと考える人間に成人してほしいのである。「わが身をおもうても」ということは人間は神様を知らないとしてしまう心使いです。プーチンはロシアの愛国主義から、自国中心的思想から抜けることができません。自分さえ、我が国さえ、我が会社さえという狭い料簡ではだめですよと。
もちろん神様が立腹されるとか、神が怒るということはたとえであり、そのようなことは無いのです。ただ私利私欲の続かないこと、神様も好きではない心使いであることが説かれています。他人を思う、人を思う愛のある人間に、優しい世の中になっていくのが神様の望みです。
