「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

教祖がはじめられた道は、宗教や教団を維持するための教えではなく、万人の救済を求めた真理の開示にあることを探求したいと思います。

 経済史と宗教史は水と油のように全く個別独立した分野として、研究されてきたように思われるが、

大谷渡(1992, p.30-31)の以下の言説には、大いに啓発された。

 

 「天理教と金光教は、一八九〇年代における日本の資本主義形成期に全国的に展開した。天理教の教会数は、一八九一(明治二四)から一八九六(明治二九)までの五年間に三二から一挙に一二九二に急増しており、一八九六年には秋田県を最後として沖縄を除く全国各府県に教会数を設置し終えた(中山正善『天理教伝道者に関する調査』、天理教道友社刊、一九三〇年)。金光教は・・・。」[大谷(1992) p.30-31]

 

「北分教会は、一八八〇年代後半に大阪北区を中心に東成郡、西成郡および近府県にも布教線を伸ばしつつあった天地組という講名を持った信者の小集団が、教会組織に改められたものであった。この北分教会は、一八九一年の設立以降一九〇〇年までの一〇年間に、西日本を中心に急速に布教線を伸ばすとともに、関東および北海道にも進出し、大いに部下教会を増加させた。一九〇〇年までに、大阪以外の府県に設置された部下教会は、一〇九に達した。

 葦津分教会は、明治二〇年代後半に中国地方と九州に布教線を伸ばして一六の部下教会を設け、明治三〇年代には、二二の部下教会が大阪以外の府県に設置された」(明治二〇年代と明治三〇年代の『道の友』による)。[大谷(1992) p.32]

 

 中西昭明編『天理教直属教会略史』(天理大学宗教文化研究所、一九五六年)によれば、教派神道の独立教派となっていたう神道本局(神道大教)所属の神道天理教会を設置して、布教の合法化に成功[大谷(1992) p.23]。講組織を神道の教会として整備することになった。

 

  明治22年 明心組 ➡ 神道天理教会所属 船場分教会

       真明組 ➡ 神道天理教会所属 芦津分教会

  明治24年 天地組 ➡ 神道天理教会所属 北分教会 (曽根崎新地)

  明治25年                 西支教会 (西区立売堀)

                      此花支教会 (南区湊町)

 

 社会や経済の発展の背後には、神様からの守護そのものが形として見えてきたことが理の視点から言える。信仰の有無にかかわらず、等しく人類全般は守護されている。世界があるのも、宇宙があるのもすべて神様が創造・維持されてきた有形の世界を我々は享受している。経済発展も企業の発展もデジタル化の推進もすべて神様の守護なしにはあり得ない。 

 

 特定教団の教会の発展だけが、神様の守護ではない。あまねく森羅万象は、神様の守護している有形の世界でおきている。

 

 天理教の立教(1838年)した年を契機として、地球の人口が急速に伸長したことがよく知られている。また我国においても、天保9年に神がこの世に現れて以降、幕末の動乱を経て明治維新へと日本は急速に近代化した。 

 

 宗教史と経済史を分断せず、統合的な次元から世界史が描かれていく時代もいつか来るだろう。

 

 

 

参考文献

大谷渡(1992)『教派神道と近代日本 天理教の史的考察』東方出版。

 

 大正4年の年末に、中山正善は数え11歳のとき、初代真柱が49歳で早世され、ただちに管長(真柱)に就任した。

 

 大正5年は、教祖30年祭で、信徒が15万人も地場に帰参したという(青地、p.225)。教祖30年祭に先立ち、本部神殿、教祖殿などが新築された。東洋一の木造建築物が出現した。しかし「その莫大な費用をひねり出すために、山のような借財をかかえこんだり、貧窮に落ち込んだ教会もすくなくない」(青地、p.225) 

 「この三十年祭の一年前、初代真柱の中山真之亮が出直した。一部の信者のあいだでは、本部神殿の新築のため各級教会を”搾取”しすぎたので、親神の怒りにふれたのだと、まことししやかにささやくものもあった。」(青地、p.225)

 

 教組30年祭の当時、借財に苦しむ教会が多かったそうだ(青地、p.225)。

 

 この当時、天理教北大教会(茨木基忠会長)では、茨木基敬様(旧長公)の天啓のもと、北の軍艦として、大正4年6月には部内の巡教で、教えを徹底する中、借財は返済し、救済の広がりがあった。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 また初代真柱が出直された理由は、青地が推測している無理なお供えを強要したことよりも、基敬でない基敬の神の言葉である天啓を受け入れなかったことが、真の原因であることも「御水の御伝へ」の啓示書に書かれている。

【天理大学の学会の報告資料より】

 

 さて、二代真柱の中山正善は、昭和43年に63歳で突如、出直すまで、真柱の地位にあった。天理教の教団の統率者であった。青地(1968)の言葉によれば、独裁君主であった。

 大正14年に東大に入学。文学部宗教学科卒で、東大の姉崎正治(雅号・嘲風)の弟子である。近代的な宗教学を修め、側近にも知識人を集めた人である。

 

 ご母堂様といわれた母・中山たまへ(中山みきの直系の孫、中山秀司の一人娘)からは、「なにものも恐れるな」ということを繰り返し教えられた。「私は子供の頃から、他人の頭をたたいて育ってきた。」という腕白少年であった。

 その中山たまへ様[1877-1938]について、「彼女は気性もつよく、女ながら相当の政治的手腕の持主だったと言われている。」と青地は書いている。

 

 中山たまへ様について、以下のブログが参考になります。

 

 

 

 大正7年7月11日から、中山たまへ様(管長公未亡人と呼ばれていた)による受訓が開始した。村山はこの事実を「天理教の世俗化が決定した」と評価し、日本宗教学会誌「宗教研究」別冊号に投稿中である。  

 

 さて、上田奈良糸様によるお授けの運びは、前年の大正6年に茨木基敬さんの休職処分の前後から事情が生まれ、お運びがストップ。 500人の受訓希望者を実家に帰していた。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 大正7年1月16日に茨木基敬・基忠への免職辞令が本部の集団的通牒で発令。

     3月22日 北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了

     3月23日 上田奈良糸様が精神的危機でお運びの完全停止    【天理大学の学会での報告資料より】

 

 

 以下の青地の原文を掲載。

 

 

 

二代真柱の功績として、(青地、p.261) によれば、以下の通り。 

 

1, 教義の確立

2,教団の近代化

3,神殿、<おやさとやかた>など<地場>の大造営

4,真柱の権威の絶対化

5,学問、文化、スポーツへの貢献

 

 学問への貢献として、天理図書館のコレクション、天理参考館のコレクションなどは、今回の宗教学会でも展示され、内外の学者たちも参観された。

 

以上

 

参考文献

青地晨(1968)『天理教』弘文堂新社。

 

 

 

 

 清水雅人著「松緑神道大和山ー辺境開拓の宗教共同体」(p.103-146)を読む。

 出口栄二・梅原正紀・清水雅人『新宗教の世界Ⅳ』(昭和53年、大蔵出版)に所載の文章。

 

   神道系で教祖がいる新宗教というカテゴリーで、戦前に創唱されたが、天皇制には反発しなかった運動として展開したそうだ。

 教組(大和松風様)は蒔炭商人であったが、36歳に不思議なことがあり、厳し修行に入る。彼を支えた妻も偉かった。娘は神の言葉を伝える神伝者であった。

 教祖の息子は東大で宗教学科出身。この方は教主となり、大和小松風(田沢康三郎)さんだった。

 青森の辺境の地に、自営的な理想の宗教共同体を形成している。 

 他宗教を批判せず、あらゆる宗教は同根で同じ方向でいつかは収れんするという思想もある。松風塾高等学校も作る。 

 伊勢神宮に参拝し、比叡山の永遠の法灯も受け継ぐ、祖先崇拝も受け入れる。

 

 ロバート・キサラさんがその学位論文で平和運動の事例として、松緑神道大和山を扱っていたことも分かった。

 最近では、科研でも研究されている教団である。 

 

  その昔、大学院生のころ、松緑神道大和山の信徒の研究者の報告を聞いたことがあり、前々から気になっていた教団であった。

 

 HPも立派にあり、現在でも活動が続く。青森に行ったときは、訪問してみたい教団である。

 

 

 

「天理教の天啓継承問題の探究-教祖存命の理と茨木事件の再考-」

のタイトルで、研究者向けに初公開しました。日本宗教学会(天理大学で開催)での報告は21年ぶりでした。

前回も天理大学で、その時は、大会の支援もさせていただきました。

 

Researchmapにても、当日の資料を資料公開からダウンロードできます。

 

 

 

アクセス番号を希望の方は、メッセージを下さい。

大学名のわかる研究者のみに配布します。

 

本ブログの製作者の氏名も本日から公開致します。

 

駒澤大学 経営学部 教授

村山元理

 

 

 天理教の天啓問題で、必ず出て来るのが伊藤青年(現在の天命庵)[1963- ]と彼に教祖(おやさま)が憑依したと信じた小説家の芹沢光治良[1896-1993]さんである。

 芹沢光治良さんの晩年の最後の文学活動が新潮社からでた『神の微笑』(1986)に始まる「神の三部作」を含む8冊(1986-1993)は、天理教に関連してニューエイジ思想にも広がる宗教的霊性あふれる作品群として知られている。

 伊藤青年こと大徳寺昭輝さんの存在は、芹沢氏の小説で世に広がったらしい。大徳寺さんのもとには天理教の信仰者たちもかなり惹かれたことは、教祖存命の理への希求を表明しているだろう。救済の実と無欲な姿から、ファンが多いようだ。

 

 

 

 ただ、ここで、注意したいことは、この神の三部作の前に、以下の書籍が書かれたことである。

 

 芹沢光治良(1978)『死の扉の前で』新潮社

 

 芹沢氏は、この書籍で引退を表明されたそうだが、伊藤青年との出会いから、筆を再度起こされることになった[弓山(2005)278頁]。

 

 この書籍は天理教の二代真柱と交流のあった芹沢氏が、二代真柱の中山正善の姿を書いたそうで、真柱の人間像が描かれているそうだ。これに対して、飯田照明先生の批判の書として『コンゴ河のほとりでー『死の扉の前で』の読み方』(私家版、1978年)もあるそうだ[弓山(2005)292頁]。

 

 以上まえがきが長くなったが、この書籍の問題点を以下指摘したい。ある程度事実に即した記述なので、誤った史実が混入しているのはやむを得ないが、誤りは誤りなので以下指摘したい。

 

 同書の99ページからの記述に以下があるそうだ。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~hikino-effect/idekunimuhon.html

 

 「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に-大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」

 

 教組三十年祭当時の天啓事件に関連した記述であるが、「水屋敷事件の茨木基敬」の箇所は明らかに誤りです水屋敷事件とは安堵の飯田岩次郎が起こした安堵事件とも呼ばれるもので、本席様の時代におきた天理教の異端事件として有名です。 

 

 この引用部分は引野様のサイトから引用させてもらいました。引野様は最近ご身上になられたそうで、高慢の心を反省されいる文章に心打たれました。 恐らく教会本部が存命の理を実現していない汚れについてよく批判されている立派な方のようです。

https://hikino-effect.seesaa.net/article/504066731.html

 

引野様は、天命庵での救いを体験されたそうで、参考になりました。  

 

ただ、天命庵は、弓山著(279頁)にあるように分派の流れの影響下(天理神口明場所系、月日三世の道真知岳本部梅教会と婚姻関係を結んでいる女性が、伊藤青年の母方のおば)にあり、真実の天啓の流れとは異なると私は信じています。

 

私も、その昔、一度だけ熱海に参って、本当に青年でもあった、当時の伊藤青年さんの謦咳に接しました。 

紫色の着物を召して、座布団に正坐されながら、ものすごい迫力で、女性の声を語る熱演には驚きました。音声啓示の内容はすみませんが、陳腐でした。そして周囲の支えるスタッフに胡散臭さを感じてしまいました。  

 

 

参照 

 弓山達也(2005)『天啓のゆくえー宗教が分派するとき』日本地域社会研究所

 

 

 

東京都と練馬区の天然記念物となっている大ケヤキが練馬区の練馬白山神社にございます。

御神木といってもいい、大変立派な巨樹で、東京都の中でも最も古い樹齢900年のケヤキらしいです。

1083年、奥州の後三年の役に大軍を率いた源義家が祈願のために奉納したといわれるケヤキです。階段上の巨樹は倒れ、こちらの巨樹はかろうじて生き残っています。 強い生命力を感じる、神々しい巨樹です。  

 

なお都内の巨樹については、以下のサイトが詳しいです。

 

 

 

 

 

 新興の神の教えを世界に広げるために、教祖は自ら、高貴な場所に行かれた。すなわち、弟子たちを連れて、徒歩にて山村御殿(奈良市上町)を訪問して、当局(奈良県庁社寺係)の稲田専造に説かれた。明治7年12月23日の日であった。この年は大和神社の神職が詰問に来るなど、対外的に動きの激しい節の年であった。

 

 山村御殿(山村御所、圓照寺)とは、伏見宮文秀女王が在籍する大和3門跡寺院の一つで、天皇家とも関係する寺院であった。

訪問された方のブログが結構あり、以下も参考に。

 

 

 

 

 

 Google Mapを利用すると天理市三島から山村御所へは、6.3kmで徒歩で1時半である。途中で教祖はつまずかれた。すなわち、「田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。」という。教祖の身体のけがは、不吉な予兆ではなく、「下からせり上がる。」との仰せであった。

 

 一種の高山布教に相当するイベントであった山村御殿の訪問であった。詳しくは、教祖伝 『第6章 ぢば定め』の箇所をお読みください。

 

https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/402976002.html

 

また以下の解説も、黒住教に傾倒した伏見宮文秀女王の心情も分析していて秀逸です。

 

http://www.rendaico.jp/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_58yamamuragotenmondoco.htm

 

 

 本稿では、この訪問の翌日にあった、3首の『おふでさき号外』と呼ばれる神意を読み解きたい。背景事情が明確な中での、3首のお歌である。

 

 

翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、

 

にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている

 

しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし

 

たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや (おふでさき号外)

 

と、詠まれた。

 

 ここには、信仰心のあり方の極意が説かれているように思われる。政治的な弾圧の中で、信仰心の維持は困難を極める。実際に、仲田儀三郎さんは、その後、獄舎で仕打ちを受ける中で、心を倒してしまわれた。教祖も獄舎に繋がれて、身体的な凌辱を受けたこともあった。信仰心をもてば、踏み絵で弾圧されたキリシタンたちと同様な目に合うのである。

 目先の損得か、永遠の地平にたった正義を取るか。人間心は常に転ぶのである。 

 

 喜べない心、不足の心が人間にはつきものである。

 

 信教の自由が保証されている現代日本において、どれだけ純粋無垢に教祖の心に従うことが出来ているか。コロナ禍があり、戦争があり、今夏も異常な猛暑が続く。神はあるのかないのか? 

 

 神、月日、おやと様々な呼称で呼ばれる、親神様が天保9年から教祖を通じて顕現された。

 

 永遠に説き続ける教祖は存命の理として今現代もおふでさきの神意のままに説き続かれる。 

 

 これに対して受け取る人間のあり方が問われている。

 

 本真実を求める心はすべて神の心の内にある。貸しもの借り物の守護の理、心通りの守護の理を心に治め、陽気で勇んだ精神が持続可能か。

 

 日々悪しき心を払って、守護をすみずみまで感じられる敏感な心が肝要である。その喜びの種がいつ芽生えるのかは神のむねの内にある。

 

 良き心の種を蒔き続け、やがて「末代のこうき」という永遠に語られるストーリーが残される。そして神様とのご縁のもとに魂は再生するのである。

 

 一名一人の信仰心のあり方を説く、永遠の指標となる教えがこの3首に込めれている。  

 

 

『おふでさき』第3号28は以下の有名なお歌でした。

 

 「ひとのものかりたるならばりがいるで、はやくへんさいれいをいうなり」(第3号28)

 「人の物 借りたるならば理がいるで 早く返済礼を言うなり」

 

 このお歌は、形の世界である人間関係の貸借関係を言っているではない。

 

 モノとは、貸しもの・借りもののモノであり、有限の形の世界一切は神様が創造され、貸し与えたモノである。

 

 一連のお歌を拝読すれば、この点は明確に分かってくる。 以下の方も似たような悟りに至っておられる。

 

 

 

 

 以下のお歌は『おふでさき』に同じお歌が二首出ていることも有名である。 

 

 「たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(第3号40)

 「段々と何事にてもこの世うわ 神の体や思案してみよ」

 

 人間は肉体を借りていることをを知らず、自分の体は自分のモノであると信じている。

 領土欲から戦争がおき、憎しみが増幅している。 すべて人間心である。

 

 貸しもの・借りものの理が真実であることが自覚できたなら・・・、おのずから神様に対して御礼や感謝の気持ちが湧いてくる。

 

 本当の感謝の心は、人間関係の感謝という小さいものではない。この世初めて、世界を維持されている大いなる存在への絶大なる感謝の念でなければならない。

 

 貸し物・借り物の理を悟らせるために、様々な与えを日々に見る。それは全て心を磨くための糧であり、与えである。

 

目に見えぬ神が形を通じて様々な与えを見せている。それを見て一層の心の磨きが必要である。

 

 明治7年も令和6年も同じ理の与えを見せている。 本日もありがとうございます。  

 

 合掌  

仙台市にて、会食。 記念に投稿します。ディナーのお任せコースにて、貸切りで、他に一組だけ。ゆっくりと御馳走を頂きました。フランス仕込みのオーナーシェフさんで、こだわりの味わいでした。 

 

 

店舗のHP:

 

 
 
 青葉通りの第七十七銀行銀行本店の横にある、ホテル京阪仙台さんに宿泊。少し広めの御部屋で清潔なホテルでした。

 第15回目の、平成時代のご啓示は、以下の11首のお歌からなっていました。

 大変神秘的な言辞で、驚くべき理の次元が更新された内容です。

 

  本来は、縦書きでした。漢字の読み仮名は漢字の横に表記できなかったので、

  ( )の中に入れました。番号は私が付けました。 00の実名は外しました。

 

平成二年十二月二十八日 午前三時


1. 今日の日は  別間(べつま)へだての意味を説く
    心澄まして  良く聞いてくれ

2. 別間とは  所が違う  形にて
    心は一つ  これがもとやで

3. 心はな  元のやしきが  ふるさとや
    帰ってきたら  神(をや)に会うのや

4. 親慕う 心があれば  何にても

    力を貸さぬことがあろうか

5. それゆえに  親を慕うて  来たものに
    詞(ことば)を答えに  出しているやろ

6. 慕うとは  形で慕う  これ違う
    魂の慕い  表(おもて)ではない

7. 今ここで  場所は形と  教えおく

    親の目には  一つのところ
 
8. 心さい  親を求めて  おったなら
    どこへでも出る  それが神やで

9. 別間とは  人がしきった  形やで

    神の世界は  広いつながり

10. もう何も  不思議に思うことはない

     求める者に  教えるだけや

11. 魂は  もう親元に  来ているで

     はやく気付いて  身体(からだ)追いつけ

                            00    拝す合掌

 

<理の思案>

 『おふでさき』にも別間という言葉が出てきて、特定の場所が暗示されています。中山家の屋敷の中か、本席様の時代は、

南の理とか呼ばれていて、存命の教祖が発話される場所を意味します。地場の元の屋敷から神の発話が始まり、その場所

が歴史的変遷した経緯を知らないと、この別間の意味することは理解できないでしょう。

 

 存命の教祖が発話される場所として別間が今回、明言されました。

 地場でも、別間でも場所は異なっても、神の心は一つなのです。

 

 神様からは、全く未知の新しいことが説かれるので、人間は心澄まして、余計な人間心を排して虚心坦懐に聞かないと

いけません。

 

場所は形で、目にみる有形の場所をさしていますが、その有形を超えた理の世界が語られているのが特色です。

 

 地場で語るべき、神の声、天啓ですが、地場では受け取る人がいません。そこで、地場の別間を神様が用意されました。

 

 教組時代、本席時代と地場で天啓が続き、地場の人衆は魂を磨き続けることが可能でした。金銀分けるとまで言われる厳しい仕込みが啓示を通じて、縁ある人々が仕込まれました。霊性あふれる地場は神屋敷というにふさわしい場所でした。明治40年までは。  深夜でも刻限話があれば、教長も本部員も本席邸の御用場に集められたのでした。  

 

 地場を磨くことが救済の根源にあり、地場の人衆は世界救済の大責任を帯びるのです。地場が治まり、日本が治まり、世界が治まっていくという理の道を教祖ははじめられました。その地場が曇れば、世界が治まらず、戦争が続くのです。 

 

 その地場で、受け取る人がいないので、神様は仕込むべき魂を寄せて、別の場所で啓示を連続させてきているのです。

 神様に落ち度はなく、受け取る側の人間に落ち度があり、このような裏の道が用意されました。裏の道でも寄せられたそれぞれの魂はしっかりと磨かれねばなりません。地場に代わって、大変な責務を負うのです。    

 

 天理教の末端組織で起きた、天啓現象で、天啓継続を信じる人達の中で、起きた天啓現象でした。  

 

 人間の心の故郷は、元の屋敷=地場の心=神様の心であります。

 神様は、「をや」と称されています。 

 人間と神との関係性は親子関係で、切ることのできない関係性があります。  

 

 地場には、もともと天啓が必要なのです。  

 天啓なき地場は、単なる宗教施設です。 赤字続き、リストラ続きの今の御屋敷の惨状があります。 

 

 人間は真実の心を求める。本真実はすべて神様の心にある。

 真実を求める心に神様は、このようにして詞(ことば)として答えを出されているのです。  

 

 神様の想いは、『おふできさ』にも残されていますが、平成時代にもこのように、発話されたのでした。

 

 神の声が魂に届き、魂が目覚めたのです。魂は神様の求める心であり、人間の本心は魂そのものであるのです。

 

 この神の詞(ことば)を書きとった若き女性は外面的には普通の女性ですが、彼女の魂は親元に来ていると認められたのでした。33年たって、初めて気が付きました。 私の心は今でも、低劣で、人間心一杯のままです。しかし、すでにその女性の心は、1990年(平成2年)の時点で、はるか高みの精神的レベルに達していたのでした。

 

 また「身体(からだ)追い付け」には、有形世界で、この道が実際的に広がる未来のことが預言されています。

 その時は、軽く読み流していましたが、驚くべき神様からのご期待を感じます。

 

 天啓現象は、本人の気持ちに関わらず、天から降ってきた仕事で、科学的には精神異常などと誤解される可能性があります。しかし、日常的に繰り返され、14度目の天啓において、「不思議に思うことはない」だろうと言われていたのです。

 

 14回のご啓示で、理の大よその角目は説かれてきて、本人も納得し、周囲もそうだと納得した上で、

このような新しい次元が切り開かれたのです。 

 

 これまでの神様は、一人の女性を雛型として仕込んでこられました。

 そして、公開された詞を通じて、その思惑は共有化された理念として実践

 されるのです。

 

 この一連のお歌では、「形」=かたちが、心と対比さているのが特色です。 

 歴史的教祖の時代には、形の概念は難解だったでしょうが、今の時代には大変分かりやすい表現です。

 

  神の世界は「広いつながり」とも称されていて、神が形を超えた存在であることが暗示されています。

 

  信仰心は形の世界を超えること、これが問われているのです。 

 

  巨大な神殿も、大量の資金も関係ありません。評価軸は、心の世界なのです。 

 「形で慕うこれ違う」と六首目にある通りです。 

  無理な集金で巨大な神殿をつくることが求められている訳ではありません。    

 

 4首目にあるように、神様を真から求める心に、神様は力を貸して下さる。 

 大変ありがたい詞です。

 

 日々神様との対話しながら、かしもの・借り物の守護を喜んでいきたいと思います。

 

 磨いて磨いて、大きな理を見せて頂きましょう。  変革の令和六年で世界は変っていきます。

 

 合掌