「別間へだての意味を説く」(平成二年十二月二十八日) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 第15回目の、平成時代のご啓示は、以下の11首のお歌からなっていました。

 大変神秘的な言辞で、驚くべき理の次元が更新された内容です。

 

  本来は、縦書きでした。漢字の読み仮名は漢字の横に表記できなかったので、

  ( )の中に入れました。番号は私が付けました。 00の実名は外しました。

 

平成二年十二月二十八日 午前三時


1. 今日の日は  別間(べつま)へだての意味を説く
    心澄まして  良く聞いてくれ

2. 別間とは  所が違う  形にて
    心は一つ  これがもとやで

3. 心はな  元のやしきが  ふるさとや
    帰ってきたら  神(をや)に会うのや

4. 親慕う 心があれば  何にても

    力を貸さぬことがあろうか

5. それゆえに  親を慕うて  来たものに
    詞(ことば)を答えに  出しているやろ

6. 慕うとは  形で慕う  これ違う
    魂の慕い  表(おもて)ではない

7. 今ここで  場所は形と  教えおく

    親の目には  一つのところ
 
8. 心さい  親を求めて  おったなら
    どこへでも出る  それが神やで

9. 別間とは  人がしきった  形やで

    神の世界は  広いつながり

10. もう何も  不思議に思うことはない

     求める者に  教えるだけや

11. 魂は  もう親元に  来ているで

     はやく気付いて  身体(からだ)追いつけ

                            00    拝す合掌

 

<理の思案>

 『おふでさき』にも別間という言葉が出てきて、特定の場所が暗示されています。中山家の屋敷の中か、本席様の時代は、

南の理とか呼ばれていて、存命の教祖が発話される場所を意味します。地場の元の屋敷から神の発話が始まり、その場所

が歴史的変遷した経緯を知らないと、この別間の意味することは理解できないでしょう。

 

 存命の教祖が発話される場所として別間が今回、明言されました。

 地場でも、別間でも場所は異なっても、神の心は一つなのです。

 

 神様からは、全く未知の新しいことが説かれるので、人間は心澄まして、余計な人間心を排して虚心坦懐に聞かないと

いけません。

 

場所は形で、目にみる有形の場所をさしていますが、その有形を超えた理の世界が語られているのが特色です。

 

 地場で語るべき、神の声、天啓ですが、地場では受け取る人がいません。そこで、地場の別間を神様が用意されました。

 

 教組時代、本席時代と地場で天啓が続き、地場の人衆は魂を磨き続けることが可能でした。金銀分けるとまで言われる厳しい仕込みが啓示を通じて、縁ある人々が仕込まれました。霊性あふれる地場は神屋敷というにふさわしい場所でした。明治40年までは。  深夜でも刻限話があれば、教長も本部員も本席邸の御用場に集められたのでした。  

 

 地場を磨くことが救済の根源にあり、地場の人衆は世界救済の大責任を帯びるのです。地場が治まり、日本が治まり、世界が治まっていくという理の道を教祖ははじめられました。その地場が曇れば、世界が治まらず、戦争が続くのです。 

 

 その地場で、受け取る人がいないので、神様は仕込むべき魂を寄せて、別の場所で啓示を連続させてきているのです。

 神様に落ち度はなく、受け取る側の人間に落ち度があり、このような裏の道が用意されました。裏の道でも寄せられたそれぞれの魂はしっかりと磨かれねばなりません。地場に代わって、大変な責務を負うのです。    

 

 天理教の末端組織で起きた、天啓現象で、天啓継続を信じる人達の中で、起きた天啓現象でした。  

 

 人間の心の故郷は、元の屋敷=地場の心=神様の心であります。

 神様は、「をや」と称されています。 

 人間と神との関係性は親子関係で、切ることのできない関係性があります。  

 

 地場には、もともと天啓が必要なのです。  

 天啓なき地場は、単なる宗教施設です。 赤字続き、リストラ続きの今の御屋敷の惨状があります。 

 

 人間は真実の心を求める。本真実はすべて神様の心にある。

 真実を求める心に神様は、このようにして詞(ことば)として答えを出されているのです。  

 

 神様の想いは、『おふできさ』にも残されていますが、平成時代にもこのように、発話されたのでした。

 

 神の声が魂に届き、魂が目覚めたのです。魂は神様の求める心であり、人間の本心は魂そのものであるのです。

 

 この神の詞(ことば)を書きとった若き女性は外面的には普通の女性ですが、彼女の魂は親元に来ていると認められたのでした。33年たって、初めて気が付きました。 私の心は今でも、低劣で、人間心一杯のままです。しかし、すでにその女性の心は、1990年(平成2年)の時点で、はるか高みの精神的レベルに達していたのでした。

 

 また「身体(からだ)追い付け」には、有形世界で、この道が実際的に広がる未来のことが預言されています。

 その時は、軽く読み流していましたが、驚くべき神様からのご期待を感じます。

 

 天啓現象は、本人の気持ちに関わらず、天から降ってきた仕事で、科学的には精神異常などと誤解される可能性があります。しかし、日常的に繰り返され、14度目の天啓において、「不思議に思うことはない」だろうと言われていたのです。

 

 14回のご啓示で、理の大よその角目は説かれてきて、本人も納得し、周囲もそうだと納得した上で、

このような新しい次元が切り開かれたのです。 

 

 これまでの神様は、一人の女性を雛型として仕込んでこられました。

 そして、公開された詞を通じて、その思惑は共有化された理念として実践

 されるのです。

 

 この一連のお歌では、「形」=かたちが、心と対比さているのが特色です。 

 歴史的教祖の時代には、形の概念は難解だったでしょうが、今の時代には大変分かりやすい表現です。

 

  神の世界は「広いつながり」とも称されていて、神が形を超えた存在であることが暗示されています。

 

  信仰心は形の世界を超えること、これが問われているのです。 

 

  巨大な神殿も、大量の資金も関係ありません。評価軸は、心の世界なのです。 

 「形で慕うこれ違う」と六首目にある通りです。 

  無理な集金で巨大な神殿をつくることが求められている訳ではありません。    

 

 4首目にあるように、神様を真から求める心に、神様は力を貸して下さる。 

 大変ありがたい詞です。

 

 日々神様との対話しながら、かしもの・借り物の守護を喜んでいきたいと思います。

 

 磨いて磨いて、大きな理を見せて頂きましょう。  変革の令和六年で世界は変っていきます。

 

 合掌